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もう、Wi-Fiを飲むことにした

ミカは小屋から顔を出した。
山岳の向こうからは朝日が昇ろうとしており、本日はじめて木々や岩、生き物たちには影ができる。冬の鳥が鳴く。連峰に向かって飛んでいく。ミカはスゥッと息を吸い込み、朝日を吹き飛ばすつもりで勢いよく吐いた。

息は白いもやになって、空気中に溶ける。遠くで電気をつくっている風車が、ゆっくりとまわって、どこからかアジフライの香りが漂ってきた。ミカはまたフゥと白い息を吐く。風車がまわる。懐かしいアジフライの衣の香りが鼻をくすぐる。「三沢のエルボーが、待ってるわよぉ」。母の声が聞こえた。

小学生のころ、ミカは都心に住んでいた。門限は17時15分で、夕方の鐘がなったら走って帰らなきゃいけなかった。お母さんに怒られるのはもちろん、三沢のおじちゃんが帰ってしまう。ミカにとっては、三沢のほうが大問題だった。

だからミカは、ほとんど門限に遅れたことがない。17時過ぎには家に着いて、すぐに「三沢のおじちゃん」と呼んだ。すると決まって居間から三沢光晴がのしのしと現れて、ミカの側頭部に勢いよくエルボーを入れて「オラこいよこらァ!」とTシャツを脱ぎ捨てるのであった。

ミカが嬉しそうに笑うと、おじちゃんは「ヘラヘラしてんじゃねェよこらァ! オラもっとこいオラァ!」と挑発しながら靴を履いて帰っていく。ミカが嬉しそうに「また来てねぇ」と呼びかけると、決まって「ったりめーだ、オラァ」と言いながら、外に出ていくのだった。

小学生のミカは三沢のおじちゃんが笑ったところを、見たことがなかった。そして三沢のおじちゃんと母親の白昼を知らなかった。24になった今は、すべてがなんとなくわかるけど、別にどうってことない。だから白い息を吐いて風車を回し、アジフライの懐かしさにひたる。

朝日が昇る瞬間が好き、と思ったので「朝日が昇る瞬間が好き」と声に出した。もうすっかり消えた側頭部のあざを思い出しながら、暖炉に火をつける。木々は風に吹かれた。野生的な影が揺れて、ミカは食品庫から塩と卵、食パン、バターを取り出した。

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