妻からの手紙
とても静かだ。毎日がとても静かなんだ。
僕は、所在無げに家の中を歩く。
家の中は娘たちがたまにやって来ては
きれいに片付けてくれている。
することがない。
結局はまた、真新しい小さな仏壇の前に来てしまう。
今にも笑いだしそうな笑顔のきみ。
君に似つかわしくない
黒の縁取りにすっぽり収まってしまって。
どうかしたんじゃないのか。
君はすぐ怒ったり笑ったり、
隙を見つけては僕にまとわりついてきたじゃないか。
君は、付き合っている頃も、
結婚してからも、子どもが生まれてからも、
子供どもたちが巣立ってからも
ずっと変わらなかった。
子どもみたいに自由で喜怒哀楽が忙しくて、
君の目を通してみる世界は立体的に色づいていて、
とても眩しい世界だった。
君は一日に何度も「好き」と言っては
まとわりついてきたね。
そして、
「あなたも好きと言って!
一日に何回でも言って。」
と、真剣な目でふざけながら言う。
聞いているこっちが恥ずかしくなってしまう。
だからある時僕は言った。
「なんでそんなに毎日
好き好き好き好き って言うんだい?
そんなに言わなくてもわかっているよ。」
でも、君は言う。
「ダメ!ちゃんと毎日あなたを見て
あなたを思って言葉に出すの。
ただ思うだけじゃ伝わらないでしょ。
この気持ちはあなたに渡すものだから。
そして、私の体にも魂にも
いーっぱいあなたを刻んでおくの。
好きは、言の葉。言葉は言霊。」
「またスピリチュアルみたいなことを言って」と
僕が笑うと、君は真面目な顔で言った。
「知ってる?体が滅びると、
魂だけになってあちこち飛んでいくんだって。
そして長い年月をかけてまっさらになって、
またこの世に生まれ変わってくるの。
いい?
いつかこの身体に終わりが来ても、
この魂は残るのよ。
どこにいてもあなたと
必ず一緒にいたいから。
そして何度生まれ変わっても
あなたに見つけてもらえるように。
何度でもあなたと夫婦として歩けるように。」
僕は、
「へー」とか「ははは」とか
くすくす笑いながら
きみの頭をなでて相槌をうった。
そして、君は一瞬すねて笑うんだ。
僕は、チーンとおりんを鳴らして、
また君らしくない場所にある君の写真を見る。
そして自分の手元を見た。
ゴツゴツと骨ばって少し曲がったカサカサの手。
いつの頃からだったかな。
君と手をつないだ感触がさらさらとして
骨があたって体の奥底まで響くような感じになったのは。
柔らかくて温かい若い頃の感触も
はっきりと覚えてはいるのだけれど。
君がいなくなる最近のつなぐ手はゴツゴツしていたな。
「骨身にしみた愛なのよ」と
言って君は笑ったね。
満足に体も起こせないほど弱っても
君は笑うんだ。
あの笑顔を思い出すだけで、
僕は叫びだしたくなる。
君の言う通り、毎日僕たちは一緒にいた。
仕事に行くのも寂しいと、
僕たちは細々と家で一緒に仕事を起こした。
子どもたちが巣立っても、
歩くのが遅くなっても、
いつしか家を出るのが億劫になって
家の窓からしか海を見なくなっても、
僕の隣には必ず君がいた。
周りから見ると、
依存だろうか、異常だろうか。
でも僕はまったく普通だった。
飽きることなどまったくなかった。
だからなのだ。
僕が今これほどまでに不安なのは。
自分の存在をよく感じられないのは。
君とあれだけ見てきた
美しいものたちの色が消えていくのは。
恐ろしい。
こんなペラペラの紙、
写真だけになってしまった君からですら離れられない。
僕はヨロヨロと立ち上がり、
この家を作るとき一番こだわって作った
大きな本棚のガラス戸を開ける。
君の好きな本だらけだ。
君の姿が見えないと、
だいたいはこの本棚の前に座って本を読んでいた。
僕は君の幻をうっすら目で確かめながら、
本棚の端っこにあるアンティークの箱を取り出した。
この箱には君からもらった手紙がすべて入っている。
僕が送ったものは君に持っていってもらったね。
だからここにあるのは君からの手紙だけだ。
この手紙に僕が何度悩まされたことか。
僕はそっと手紙に触れた。
君は、
「手紙のないものはプレゼントと認めない」と
よくよく言っていた。
互いの両親が生きていた頃の
父の日母の日なんかは
プレゼントに子どもたちと書いた
メッセージカードも一緒に送っていた。
子どもたちの記念や、
僕たち夫婦の記念、
クリスマスなども
すべて手紙やカードを送りあった。
文を書くのも、
自分の気持ちを伝えることも苦手な僕にとっては、
これがなんとも難しくて。
しらばっくれようとしては、
君にしっかりねだられて
必死に頭をこれでもかというほど絞って書いていた。
君への気持ちは出会ってから
一度たりとも変わったことはない。
僕にとって君は、呼吸と同じだ。
忘れることがなく自然とする、
深呼吸しては癒され、
浅いと苦しむ。
手紙などなくても、当たり前なのだ。
でも、君はいなくなるその日まで
震える手で丁寧に手紙を書いていた。
もうペンを握る力すら
ほとんど残っていなかったのに。
あの日。最期の日。
君は書いた手紙を見せてくれなかった。
そして、君はいなくなった。
それから慌ただしくて、
現実に耐えられなくて、
手紙のことなどすっぽり忘れていたから。
僕は、箱を探ったがそれらしいのは見当たらない。
あるのは、見たことがある手紙だけだ。
おかしいなと頭をかしげたその時だった。
キッと扉が開く音がして
小さな鳴き声が聞こえたのは。
僕はびっくりして目が釘付けになった。
扉を器用に前足で支えながら
一匹の猫が部屋に入ってきたのだ。
猫はまっすぐに私を見てスリスリと足の間を
そのふわふわの身体を押し付けながらクルクルと歩く。
数年前まで家には猫がいた。
ちょうどこのキジトラ猫と同じ。
見れば見るほどそっくりだった。
名前はトラといった。
子どもたちが小さい時に拾ってきた猫だった。
僕はあたりを見渡した。
猫が入る込める入口なんてあったかな?
玄関をのぞくとしっかり扉が閉まっている。
僕は不思議に思ったが、
まとわりつく猫のなつっこさに負けて、
そっと猫をなでてみた。
猫はゴロゴロと喉をならして
僕の膝の上に乗った。
なでた感じも、柄も、目も
見れば見るほど
トラにそっくりだった。
「僕が寂しそうだから来てくれたのか?よしよし」
僕は、猫をなでてからゆっくりと立ち上がった。
台所の棚をごそごそと探り、
猫のおやつを手に取ってあげてみた。
たまに娘が飼い猫を預けていくものだから、
家には猫のえさがあった。
しかし、猫はペロっとなめただけで
そっぽを向いてしまった。
そして、やっぱり僕の足元にまとわりついて、
足元に乗っかって丸くなってしまった。
「随分と甘えんぼな、
人慣れしている猫だな、
飼い猫かな?」
ぼくは独り言をつぶやきながら、
すりすりと顔をこすりつけてくる猫をなでる。
「お前はもしかしたら本当にトラなのか?・・
お迎えにきてくれたりなんてことはないかな・・。」
僕は、その猫をトラと呼んだ。
少しだけいつも窓を開けておいたけれど、
一向に出ていかない。
そして、どんな餌を用意しても食べなかった。
ただただ一日中僕の足元にいた。
僕は、心配になって娘に頼み
動物病院へと連れて行ってもらったが、
どこも異常はなかった。
相も変わらずひざの上で休むこの子を見て
僕はいよいよ不思議に思った。
本当にトラの生まれ変わりなのか、
それともトラなのか。
でもトラはこんなに甘えん坊じゃなかったからな・・
と真面目に考えてしまう。
こんなにもすり寄ってくる姿を見ると、
トラよりも君のことを思い出す。
この子が来てからというもの、
仏壇の前にただ座っていることも少なくなり
幾分か歩くようにもなった。
日当たりのよい場所にゴロンと横になり空を見上げる。
君がいなくなってから久しぶりに空を見上げた。
トラも寝転がる僕のお腹の上に乗ってゴロンと伸びている。
「気持ちがいいなぁ。」
自然に口元が緩んだ。
この調子で桜でも見に行こうかとした矢先に
体調を崩してほぼベッドに寝たきりになった。
何もできなくて、
娘とヘルパーが交互に訪ねてくるのを
トラと見ているだけだった。
トラは寝たきりになった僕の隣にいつもいた。
餌は相変わらず食べない。
たまに僕のご飯をこっそり
少しだけつまみ食いするくらいだ。
でも、医者も首をかしげるほどに
元気で問題なかった。
体重も減らない。
みんな首をかしげていた。
その日は毎日降り続いていた雨が上がって、
透き通るような青空が広がっていた。
介護歩行器に掴まって、
亀よりも遅いであろう動きで体を起こし家の中を歩く。
雨降りの間、頭だけが冴えて
あれこれといろんなことを考えていた。
この年になると、
自分の身辺だけではなく
記憶までもがきれいに整理されていくのだろうか。
時が凝縮されていくのだろうか。
僕が君の元へ旅立つ時、
僕には何が残るだろうか。
最後の最期に残るもの。
君と、君と過ごしたこの家と、
子どもたち、孫。物は持っていけない。
結局は見えないものなのか。
僕はそんなことを考えていた。
だから晴れてわずかに調子がいい今日
やらなくてはいけないと思っていた。
いつになく動く僕の隣でも
トラはしっかり隣に付き添ってくれている。
君が最期に僕に残したもの。
君からの最期の手紙が気になって仕方がなかった。
結局まだ見つけられていない。
僕は、本棚の前にやってきた。
やっぱり君が隠すとしたら
この本棚しか思いつかない。
僕は何度も見た手紙の箱や
君が好きな本を手にとる。
手に取ることさえ時間がかかる。
呼吸が少し苦しくなってきて、
僕はその場に座り込んだ。
肩で息をしながら休んでいるその時、
ぴったりと寄り添っていた猫が突然動き出し、
本棚めがけて大きくジャンプした。
バサバサと本やアルバムを下に落としていく。
僕は、思わず顔を背けて頭を押さえた。
いったい突然どうしたんだ・・・。
苦しい胸を押さえながら目を開けると、
目の前に落ちていたピンクのアルバムの中から
見覚えのない小さな手紙が飛び出している。
ピンクのアルバムは僕たちの結婚式と
記念ごとに撮っていた家族写真のアルバムだ。
僕はその小さな便せんを手に取り、
開いた。
君からの手紙はいつも長文だったのに、
入っていたのは小さな紙一枚だった。
「この手紙をあなたが読んでいる時、
私はきっとこの世にいないでしょう。
私はある試みをしようと心に決めています。
だからあなたに最期の手紙を送ります。
私はあなたのそばを離れては歩けません。
あなたが私と同じようにこの空にのまれるときまで、
そばにいると思います。
いや、います。
これが叶っていたら、
どうか私を見つけてください。」
僕はトラを探した。
あんなにいつも近くにいたのに姿が見えない。
本棚に飛び掛かった後どこに行った?
気持ちばかりが焦って身体がまったく動かない。
胸を押さえながらトラを探す。
すると、カタンと音が聞こえた。
音のした場所へ這うようにして向かう。
少しだけ開けた窓から風が入りカーテンがゆれている。
仏壇に置いていた小さな可愛い写真立てが倒れていた。
妻がいなくなる直前、
朝日が見たいといった君を
車椅子にのせてむかった海で撮ったものだ。
倒れた写真立てから白い小さなメモ紙が飛び出している。
僕は、ふーっと息を吐いてそれを引き抜いた。
「いつもそばにいるからね」
そう書いてあって、僕は思わず声をあげて笑って泣いた。
君は、どんな姿になっても君は君なんだね。
生きている時に話していたようにやっぱり魂になるんだね。
君が魂になっても僕のそばにいてくれるから、
いつでも近くにいてくれるから、
僕を驚かせてくれるから、
だから僕は何度も恋に落ちるんだ。
出会った頃から変わらない、
いや、出会ったときよりも
もっと、君に恋している。
ずっと一緒だ。僕は君を離さない。
「生まれ変わってもまた君と出会うよ。
僕は魂になっても君を離さない。
レターセット持っていくよ。」