ハローといえば、絶望と返す
今度の日曜、マカロニえんぴつのライブに行く。
その前に「おばちゃんがマカロニえんぴつを聴くいくつかある理由を教えてやんよ!」というタイトルで文章を書きたかった。これは、主に息子についての気持ち悪い感情に関係がある文章になるはずだった。ところがここのところ、息子についての気持ち悪い感情がうすれてきている。なので、書くモチベーションが若干下がりつつあるが、一度は興味深いと思ったテーマなので、みこしを上げて書いてみようと思う。
息子がひとり暮らしを始めてもうすぐ8か月。彼のいない生活にもすっかり慣れた。「彼は私とは完全に別の人間である」ということが、すんなりと受け入れられている。引っ越し当日は、彼の部屋に荷物を運び終え、自宅へと車を走らせながら、娘とワアワア泣いて帰ってきたものだが。
男の子ってけっこう大きくなるまで、少なくとも小学生のうちは高学年まで、母親にベタベタするものなのだなあ、と最近気づいた。気づいた、というのは、うちはそうではなかったからだ。
世間を見回すと、けっこう図体の大きい男の子が、母親の膝に乗ったり、手をつないだりしている。
うちがそうではなかったのは、私がそういう風な親子になりたくなかったのと、息子には仲間がいたからかな、と思う。
彼は少し特殊な学校(フリースクール)に通っていて、そこではとにかく仲間で行動するのが常だった。「徒党を組んで」という表現がぴったり。
小学校に上がると、自然と親といる時間は少なくなった。ほんの少しさみしさはあったが、頼もしくもあった。私が妊娠したときは、10歳離れたきょうだいができると「よっしゃー!」と喜んでくれた。私が疲れた様子をみせると「無理すんなよ」と言ってくれた。当然、妹が生まれると、めちゃくちゃかわいがってくれた。
中学に上がると、住み込みでするような仕事に憧れて、家を出るのも早いと思っていた。
ところが、思ったようにことは進まず、中学卒業後も息子は家に居続けた。まだ未成年だったし、それはいいのだが、時折ふさぎ込み、涙したり、いら立ちをふすまにぶつけるようになっていった。壁に穴こそ開いていないが、我が家のふすまはボッロボロ。のちに短期間、仔猫を保護したときは、ふすまにあいた穴から猫が出入りできるくらいだった。
2日くらい自室にこもった後、出てきて唐突に私にハグを求める息子。ああ、こんなことなら、小6のとき、無理やりにでも膝に乗せておけばよかったなあ、と一瞬思ったけど、仕方ない。それにハグはタダである。タダでなくても、子どものほしがるものなら、なるべく与えてあげたい。ので、ハグをしてやった。家庭内フリーハグ。
その後も、本当にいろいろあり、やきもきもさせられた。最終的に、少し遠回りしたものの、息子は大学に入学し、それを機に家を出ていった。引っ越しに関わる諸々のことは全部自分でやっていた。
今では、昨冬までのトンネル時代がなんなのか、というくらいに明るくなり、充実したキャンパスライフを送っている。なにせ、入学式でもう友達つくってたくらいだ。
相手を選ばないおしゃべりで、いつぞやは私の元ママ友とドラッグストアでばったり出会って、ベラベラしゃべり続け、友達の方がやや困惑したという。
で、マカロニえんぴつだ。ヒットした曲には恋愛の歌が多い。が、アルバムを聴くと変な歌もけっこうある。冷蔵庫への愛の歌とか、インチキ昭和歌謡みたいな歌とか。そこもたまらないポイントではあるのだが、今回は「マカロニえんぴつの青くさい歌をなぜ二十歳の息子がいる女性が聴くか」という点にしぼって、ちょっと書きたい。
私はいちおう元女の子なので、恋に悩んだり、彼がどーしたこーしたといった地点はとっくに通過してしまった。よって、女性歌手のそういう歌にはほとんど興味が持てない。aikoとかヨエコとかそれくらいの性癖レベルじゃないと、満足できない。(ごめん、aikoについてはよく知らないんだけど、やっぱテトラポッドすごいなって)
かたや、私は男の子の青春を知らない。絶対に体験できないことっていくつかあるが、そのひとつだ。
だから私はマカロニえんぴつを、息子に重ねて聴いているのだと思う。ねっ、気持ち悪いでしょう?
同居している頃、息子は比較的、普段あったことを話す方だったと思うが、それでも誰と映画に行ったとか、そういうことは察しても詳しくは訊かなかった。
そもそも彼の十代後半は前述したように、けっこう暗黒だったので、本当の意味の彼の青春はこれからだ。もう親にハグを求めるようなひ弱さは、今の息子にはない。
さあ、なんでもやれ。やってやれ。
という気持ちと、
あんなに小さかったのに、赤ちゃんだったのに、なんて子育てとはせつなく、(完全に終わってはいないものの)あっという間なんだろう、
という気持ちが、マーブル状に渦巻いていたときに響いたのが、マカロニえんぴつの「ヤングアダルト」だった。
あー、詩だなあ、と思った。
息子はリストカットこそしなかったけど、死ぬという言葉はときどき彼の口から出ていた。「死ぬな」ということは簡単だけど、大切なのは「死なずにすます術」をなんとかみつけてやり過ごすこと、そっちに意識を持っていく工夫だと思う。
(ジョン・アーヴィングのいう”Keep passing the open window”(「ホテル・ニューハンプシャー」、開いた窓から飛び降りずに見過ごし続けよ、という意味)
その工夫が音楽だったり、詩だったりする。そのふたつが合わさったものなら、よりよい。マカロニえんぴつの楽曲にはちゃんと詩がある。
息子に対する気持ち悪い感情のマーブルは、今はいい感じに混ざり合い、落ち着いている。
「6才のボクが、大人になるまで。」という映画が好きなのだが、映画の中で主人公が実際に6才から18才に成長するのに対し、母親は仕事こそキャリアアップしたが、男運に恵まれない履歴を更新し続けている。そして息子が大学の寮に入るために家を出ていくときに、泣く。最初この映画を観たときには泣けたのだが、2回目に観たときは笑ってしまった。
せめて私も、子どもたちに呆れられないくらいは成長を続けたいな、と思いつつ、日曜のマカロニえんぴつのライブを楽しみにしている。ちなみに息子の「友達」もその日同じライブに行くという。
友達? ふーん、というかんじ!!!