それぞれの、今生(こんじょう)の課題
こんにちは(*'ω'*)
さいきん対談を観る・聞くのが楽しみです。ふだんは違う分野で活動している人達の、思いがけない共通項や化学反応のようなエキサイティングな瞬間があります。先日、SWITCH INTERVIEW 達人達 (NHK Eテレ) で、安藤なつさん&玉置妙憂さんの対談も前のめりで聴きました!
いまは一億総「お釈迦様」時代。
お釈迦様の人生をご存知でしょうか。
お釈迦様の生い立ちを現代風に一言で言うと、“エリート一族のおぼっちゃま” です。
釈迦は “釈迦族” という部族の王子として生まれ、何ひとつ不自由なく、裕福な環境で育てられます。一族の王様である父親は、後継ぎである釈迦を大事に思うあまり、「年老いた人や病気の人」などを徹底して彼から遠ざけたのだそうです。
だから、釈迦の身の回りの世話を焼いてくれる人は、若くて元気な人や、容姿端麗な人ばかり。
釈迦は、「病気」「死」「貧困」など、この世に存在する “不幸” というものをまったく知らないまま青年へと育ちます。
「過保護」を通り過ぎ、立派な「世間知らず」と言ってもよいでしょう。
ところが、王様がちょっと気を許したスキに、釈迦が城の門から出て、普通の人たちのありのままの暮らしを目にしてしまいます。
年老いた人、病気に苦しむ人などを初めて見た釈迦は、大きな衝撃を受け、その後、出家へと至ります。
病気の人、年老いた人、そして死にゆく人を一切見たことがなかった、釈迦。
そんな釈迦のことを「世間知らずだなぁ」と笑うことは、誰にでもできます。
けれども、よく考えてみてほしいのです。
実は、現代の私たちも、よく似たものではないでしょうか。
難病を発病した患者のアキコさん(仮名)に、こう打ち明けられたことがあります。
彼女は「アンチエイジングケア」が趣味で、仲間たちから「美魔女」とあだ名されるほど “美しい人” でした。
「私、ずっと『自分だけは病気になんてならない』って、心のどこかで思って生きてきました。それに、どんな病気も病院にさえ行けば、お医者様がすぐに治してくれるって考えていました。だから私の病気には、すぐに効くような薬がないと聞かされて、頭が混乱しているんです。もっと言うと、お金をかけてケアをすれば、いつまでも若くいられると思ってたんです。『若く見えることに何より価値がある』って、信じてましたから。こんなこと、妙憂さんに言ったら、大笑いされるかもしれませんね」
私は彼女の美しい手をとり、両手で包みました。
そして、話にずっと耳を傾けました。
もちろん、大笑いなどすることもなく、うっすらと涙がにじむアキコさんの目を見つめ、彼女の声にひたすら耳を傾けました。
赤裸々に、自分の思いを明かしてくれたアキコさん。でも、彼女のような考え方の人は、ほかにもたくさんいるはず。むしろ、主流ではないでしょうか。
どこかで「死なない」と思っている。
どんな病気も「病院を頼りさえすれば、お医者さんが治してくれる……」。
なぜ、こんなに「老」「病」「死」が遠くなってしまったのかというと、医学が発達し、医療機関に「丸投げ」してしまうようになったからです。
自然に逝く人が少なくなったからです。
その結果、死は、日常と遠く切り離された “非日常” となってしまいました。
もちろんそこには、よい面もあります。
常に死を見続けていたら、人の心は、やはり疲れていくものだからです(生と死が交錯するような医療現場で働く人は、本当に大変です)。
問題は、死との距離があまりに遠くなりすぎて、死の存在自体をリアルに感じられない人が増えていることなのです。
また若い人の場合、肉親を病院や施設で亡くすことも多く、棺(ひつぎ)におさめられる前のご遺体に接したことがない人も増えています。
けれど、一度でも看取りの経験がある人の場合、「死」の実感はうんと強くなります。
「自分自身の問題」として考えることができます。
たとえば私の息子たちは、父親を自宅で看取ったあと、生き方が変わりました。変化は多岐にわたりますが、ひと言で言えば「地に足をつけて生きる」ようになったのです。そして2人とも、性格がいっそうやさしくなりました。
もちろん死について、常に考える必要なんてありません。
でも「人は、いつか必ず死ぬ」ということだけは、しっかり認識をしておいてほしいのです。その認識があるだけで、病院や医者、医療とのつきあい方は、うんとなめらかになります。
そして、時間を大切にする気持ちも生まれます。
さらには、「人にやさしくしたい」。そう自然に思えるようになりますよ。
それが「人間の器」なのです。
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死ぬときは、生まれたときと一緒。
エネルギーの粒に還(かえ)っていきます。
あるとき、私のもとに10代の女子高生が訪ねてみえました。
彼女は「清楚なお嬢さん」という印象でしたが、それは一時的な姿。
普段はいわゆる “渋谷系のギャル” なのだそうです。
ただ、最近大好きなおばあちゃんを亡くしたことがあまりにショックで、派手なアイメイクを施すことにも、髪をキレイに巻くことにも興味がなくなってしまい、「かなり地味め」に暮らしていると教えてくれました。
「おばあちゃんを亡くしてからテンションが下がったんです。大好きなおしゃれも突然むなしくなって、友達に『変わったね』って心配されています。私もいつか死ぬと思うと怖くてたまらなくって……。妙憂さんは、修業を積んだから、死ぬことなんて全然怖くないんでしょう? 私も、マジで修業したいかも」
私自身、たしかに修業は積みましたが、死が怖くないわけではありません。
自慢できることではありませんが……、私も死は怖いです。
正確に言うと、それは「命がなくなること」そのものへの不安というより「成人していないわが子らを、残していきたくない」という気持ちかもしれません。
ここで少し、「人」が生まれるときのことを考えてみましょう。
大宇宙に、何億個、何兆個も「粒」が存在しています。
粒は、ひとつひとつに分かれて無限に散らばっています。
それがあるとき、何億個も集められ、そこにものすごいエネルギーが生じて、ひとりの人間となります。
「死」はこの逆です。ひとりの人間が何億個、何兆個の粒に分かれ、宇宙に戻ると考えてください。
大ヒットした歌の『千の風になって』ではないですが、そのようなイメージと言えばおわかりいただけるでしょうか。
「粒」から「人」へ。
「人」から「粒」へ。
つまり、生と死は、次元ががらりと変わるだけなのです。
でも次元がいつ変わるかは未知ですから「こわい」と感じます。死への恐怖とは、「未知の次元の姿に、いつ自分が変わるかわからない」ことへの不安なのかもしれません。
次元を変えた粒のエネルギーは、すぐに消えるわけではありません。日にちが経つごとに、段々と宇宙に混じっていくというイメージです。
仏教には「初七日(しょなのか)」「四十九日(しじゅうくにち)」などの死後の儀式がありますが、それは「粒」が段々と広がり、宇宙に戻っていく時間を教えてくれているように私には感じられます。
人はひとりで生まれて、ひとりで死んでいきます。けれど、もっと大きな視点で見ると、「全体」とつながっている中で、ひとつの現象を繰り返しているにすぎないのかもしれません。
人にはそれぞれ「今生(こんじょう)に生まれてきた課題」があり、それを達成したら、宇宙へ還るのです。
そんな大きな流れが約束されていると思うと、誰かに頼りすぎたり、他人に期待をしすぎたりする生き方なんて、無意味に思えてきませんか。
私も、死が怖いときは、この命の仕組みを思い浮かべて、心を落ち着かせるようにしています。そして心のザワつきの原因が「子どもたちを残す心配」とつきとめたら、「子どもたちを残しても大丈夫」と思えるよう、その対策に取りかかるようにしています。たとえば、息子たちが自立できるよう家事の手順を教えるなどです。
冒頭の女子高生は最後に、「 “粒” とか “次元” とかはまだよくわからないけど、私も “今生の課題” ってやつを考えてみます」と言ってくれました。
若いうちは、今生の課題に気づかないかもしれません。でもそれでもよいのです。
人は一生をかけて、それを探していくもの。
最期の最期に「あれが私の今生の課題だった」と気づけば、それだけで上出来の人生なのです。
玉置妙憂 (たまおき みょうゆう・看護師僧侶)
『まずは、あなたのコップを満たしましょう』(飛鳥新社、2018年)より
がんの転移が判明した時点で抗がん剤などの治療をしないことに決めたご自身の夫を、自然死で看取った経験の話に釘づけになりました。昨年、ひさしぶりに健康診断を受けてきたときに「乳がんが心配だ…(;´Д`)」という思いにとりつかれてしまったのですが、囚われたまま他の思考が停止して行動も止まっているのはなんかもったいないかなぁ、と気を取り直したのでした。心配・不安で塞ぎ込んでしまうより、他の人の体験を聞いたり、いま自分にできることをしていくほうがずっと建設的かなぁと。
ときどき(自分の)死について考えることにしています。高校生のときは、20歳を過ぎたら毎年遺書を書こうかな、と考えたこともあります。まだ書いたことないけど。その頃は、誠実に生きることをそういう方法で実現したかったのかな!?
わたしにはこの世で為すべきことがある――それが個人的なこと・半径3mの範囲内のことだとしても、それを終える(すくなくとも見通しが立つ)までは死ねない、という思いが自分の生を支えてくれるということはおおいにあるのかもしれません。
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