「わがまま」について

こんにちは(*'▽')

「わがまま」ときくと何を思うでしょうか? 「自己中(自己中心的)」「自分勝手」「秩序を乱す」「空気読まない」「クレーマー」…こんなイメージでしょうか? でもそうでもないと思うよ!というのが本日のテーマです。


はじめに

この本は、「わがまま」というツールを使いながら、言いづらいことを言いやすくするための本、そしてそこから、社会や政治といった「遠い」ことがらを身近な視点から見ようとする本です。

でも、これを読んでいる多くの方は、なぜ「わがまま」について言ったり考えたりすると、社会や政治のことが身近に感じられるようになるのか?と思うでしょう。ここではそれについて、すこしだけ説明しようと思います。

わたしは、国や会社、学校に不平や不満を訴えて、人の意識のあり方や、その場のルールや制度を変えようとする行動、いわゆる「社会運動」と呼ばれる活動を研究しています。具体的には、路上で主張をして歩く「デモ」、インターネットや紙で署名を集めて提出する「署名活動」、社会問題について勉強するシンポジウムや学習会もあれば、フェアトレード活動などもそれにあたるかもしれません。

そこで行われる主張には、たとえば子どもの貧困をなくそうとか、賃金を上げよう、就職や入試における性別による差別をなくそう、外国人労働者の待遇をよくしよう、あるいは住んでいる地域でのマンション建設に反対しよう、といったさまざまなものがあります。こうした主張に基づく行動は、これまで多くの人々の意識を変え、法律などの制度を変えてきました。社会運動は、私たちが生きやすい社会をつくるために、絶対的に必要なものです。

(中略)

不平や不満を訴えることは、私たちの社会において、苦しみや痛みを一方的にだれかに押し付けないために、絶対必要なものです。

これまでも多くの「わがまま」が政治を変えることで、社会を生きやすい場所へとつくり変えてきました。じゃあ、どうすれば私たちは日々感じているモヤモヤやイライラを超えて、自分を解放し、だれかを助けられるような「わがまま」に優しくなることができ、「わがまま」を言えるようになるのでしょうか。

この本では、その手がかりをお伝えできたら、と思います。(つづく)

富永京子

『みんなの「わがまま」入門』(左右社、2019年)より


昨年は「自粛警察」という言葉を何度も耳にすることがありました。「みんな同じように我慢しているんだから」「みんな同じ環境にいるんだから同じようにするのが当たり前」と考えて、それを実際の制裁行動に移してしまうというものですが、ものすごく怖いと感じました。

以下は、自分の中でヒットした部分のメモ書きから。

★「わがまま」には多様な意味がある。多くの人を苦しみや痛みから救う可能性。人にはいろいろな背景や生きてきた経緯がある。

★「セーフなわがまま」と「アウトなわがまま」は、主張した時点では判断しないという立場をとる。常識・倫理観は一人ひとり違う。「わがまま」を言った後に、みんなが話し合って「アウト」「セーフ」「落としどころ」を決める。

★大元の悩みに目を向けて議論すれば、多様な解決のありようや、解決策に至らないまでも、みんなが直面している困難を明るみに出すことができる。

★「わがまま」をめぐる議論の結果、当初の要求がとおることも重要だけど、そこに至るまでにいろいろな考え方が出てくることが大切。オルタナティブ(今あるものとは異なる新しい選択肢、代替案)。

★「存在被拘束性(ひこうそくせい)」…社会に対するどういう考え方も思想も、その人の立場とか時間に縛られてできている。by マンハイム(社会学者) どんな知識も、あくまで物事を捉える「見方」であって、どこかの立場からものを見ている以上、すべてを見通すことはできない。科学も、あらゆる立場を超越するものではない。

★あまり「正しさ」にこだわらない。常に人は間違えうる者だと考えることが大事。「その場その時」の正しさで全然かまわない。いつでも取り返しが効くもの。

★世間一般において「悪い」と言われているものがほんとうに悪いのか、常に考えておく。

「わがまま」のあまり良くないイメージはどこかに残りつつも(子ども時代の刷り込みでしょうか)、「なんかそれおかしいんじゃない!?」ということをスルーしたくないなぁと思っています。

Have your own way ☆






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