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ウクレレから考える、19〜20世紀のハワイ音楽史①
イントロ~フランダンスとAOR
友人が、娘の習い事のフラダンスに付き合ううちに、フラの音楽自体に興味をもちだしたという。
その友人は、そもそも音楽好きであり、カラパナ~マッキー・フェアリー・バンドやカントリーコンフォート、セシリオ&カポノといった、スムースなハワイアンAORを、私よりもずっと熱心に聴いていた。それに、1970年代にハワイアンの要素を取り込んだ、ライ・クーダー、細野晴臣、久保田麻琴と夕焼け楽団(のちのサンディー&ザ・サンセッツ)のファンでもあった。だから、ハワイアン・メロディが琴線に触れる感性をもっていたのだろう。
別の友人の妹はサーファーで、フラダンスを習い、ウクレレ演奏も楽しんでいる。アロハシャツも大好きだ。日本には、フラダンス人口が200万人もいるそうで、かなりの人にとって、フラを含むハワイの音楽や文化は、結構身近な存在なのだ。『憧れのハワイ航路』は過去でも何でもない。
私はといえば、上記のAORを軽く通りつつも、あまり能動的にハワイ系の音楽を聴くことはなかった。CD再発時から唯一愛聴したのが、リチャード・ナットの1980年作「ノット・ジャスト・アナザー・プリティ・フェイス」だった。ネイティブ・ハワイアンによる本作は、同時代のSSWやA&Mサウンドからの影響が強い。その中に、ブラジルのサウダージと同様、ハワイ特有のメロウネスが溶け込んだ、とても心地のよい音楽になっている。だから、あまりハワイを意識せずに聴いていたと思う。
ただし、例外的にサンディーの作品は、まとめて聴く機会があった。1970年代からソロやサンディー&ザ・サンセッツとして音楽活動を続けているサンディーは、90年代からハワイ~フラに軸足を置いた音楽を作りづけており、ウニキ・クム・フラの称号をもつ(バンド名の冠はとうの昔に不要なほど、フラ界での知名度は尋常ではない)。私はサンディーを直接知る人から、ことあるごとに「指導」を受けたのだが、そのとき(15年ほど前)はいまいち勘所をつかめぬまま終わってしまっていた。
しかし、前出の友人の一言をきっかけに、あらためて歴史的な観点からハワイとその音楽をとりまいてきた状況をつぶさに見てみると、私にとっては発見や驚きに満ちたものだった。ハワイ音楽もまた、帝国主義~資本主義の過酷な歴史と無縁ではないことも改めて理解できた。参考文献や資料を読み込んだわけではないが、個人的な見解も交えて、ハワイ音楽史について少しものしてみたいと思う。
また、一見無関係に見えるハワイアンAORも、時代の流れと呼応して生まれた「運動」のあり方だった。そうしたところまで射程に含めて、一望してみたい。
ウクレレ誕生以前
ウクレレというのは、近代になっての発明品だ。それもハワイ人がオリジンではなく、19世紀にポルトガル移民がもちこんだ弦楽器「プラギーニャ」が源流になる。それを改良し、ハワイアン・コアで作り始めたことでハワイ音楽の中心的な旋律~伴奏楽器となったのだ。ウクレレという名称の由来は諸説あるようだが、演奏の様子から連想した「飛び跳ねるノミ」説が人口に膾炙している。フラの歴史や深い精神性を考えると、実はそんなに褒められた由来でもないと思うし、カジュアルな印象を受ける。その場当たり的なネーミングも、外から持ち込まれた楽器であることの証明だろう。
プラギーニャは、ウクレレの奏法ともまた異なる。
※ポルトガルやスペインといった帝国は、ハワイ同様に南米にも言語と楽器を伝えている。プラギーニャは、ブラジルではカバキーニョとしてサンバやショーロに欠かせず、ペルーではチャランゴとして民族音楽が奏でられている。なお、ハワイの手前では、インドネシアにクロンチョン・ギターを伝えたのも植民地を築いたポルトガルだった。
カバキーニョを用いたショーロの演奏。メロディアスな早弾きもされる、テクニカルな演奏。
それ以前の事実として、ハワイ語には長く書き文字がなかった。初期はオリと呼ばれたチャントのようなものであり、歌は口伝でハク・メレという歌い手から歌い手へと受け継がれていった。それがフラの歌と踊りがセットで「メレ・フラ」と呼ばれる形へ発展し、ある種の手話ソングとして、伝承や物語を保存する役割も持っていた。オリもメレ・フラも口伝である以上、細部まで明確に再現できずに、歌い手によって節回しや細部の歌詞が変わっている可能性も否定できない。おそらく歌い手の数だけバリエーションがあったのではないか。その状況が変わったのが、後述するアルファベットの導入など、急激な近代化だった。文字ができことは、歴史の外部保存が可能になっことを意味する。これには後々の楽曲の記譜もつらなっていく。
ウクレレの誕生以前の「メレ・フラ」の伴奏は、多様な打楽器を中心にして行われていて、現在でも踊られている(原初のものと同じかはわからないが)。だから歌もチャント的で、リズム楽器のみが必要とされていたようだ。パフ、イプへケ、イリイリなど、動植物を素材にしたいくつもの打楽器の名称が現れる。プーイリという笛もあるが、鼻息で演奏するものであり、メロディではなくアクセント的にリズムを刻んだと思われる。そのため、主要な旋律楽器や伴奏楽器は見当たらない。なお、動植物を素材にしていたのは、フラの自然信仰との関わりもあるそうだ。
つまり、メロデイをしっかりと奏でられる楽器がなかったからこそ、ウクレレが現地の音楽に入り込む余地があったという推測が働く。また、口伝では複雑なメロディを伝えることも難しいと考えられ、ウクレレでカバーできる音階でも再現できた、ということもあるかもしれない。
ハワイ文化の近代化とウクレレの誕生
そもそも、なぜポルトガル人がハワイに移民してきたのか。それはハワイが近代化する中で直面した深刻な問題と関係してくる。近代化というと聞こえはいいが、内実はハワイなりの列強の植民地主義〜帝国主義への苦肉の対応策であり、外圧に耐えきれずに、自国民への締め付けも強くなっていった。
その中に、音楽とも関係してくる転換点がいくつかあるので、まずは箇条書きで確認していこう。
1778年 キャプテン・クックがハワイに到着
1810年 カメハメハ1世がハワイを統一
1819年 カメハメハ2世が即位
1820年 アメリカ人宣教師らの協力によりアルファベットを導入、同時にフラなどを禁止
1835年 西洋人による砂糖の生産が始まる
1849年 アメリカでゴールドラッシュ
1860年 咸臨丸がハワイへ寄港。日本からの移民を要請する
1868年 明治元年の移住者「元年者」がハワイへ
1874年 デイヴィッド・カラーカウア即位、フラの復興
1878年 ポルトガル人の移民開始
1881年 ドイツ人、ノルウェー人の移民開始
1895年 女王リリウオカラニの幽閉でハワイ王国が終焉、アメリカによる支配へ
というのが、ハワイの運命を決めた外国との重要な接点となる項目だ。
1820年以降、近代化のもとに、それまでの伝統習俗にフタをしようとしたことがわかる。これはキリスト教化による大きな弊害であり、同様のことが様々な植民地や「未開」の地域で行われていたことだろう。文字と引き換えに独自の文化を差し出す形となったのだ。しかし一気に消えたかと思われたフラは、草の根レベルでは息をひそめて歌い、踊られ、1874年以降の全面的な解禁にいたるまで耐え続けることになった。その間にポルトガルからの移民を受け入れ始めているので、公式的には、ウクレレ誕生の契機はフラ不在の時代にあった。
しかし、歌がまったく消えたわけではない。キリスト教化によるもう一方の影響として「ヒメーニ」と呼ばれるハワイ語で歌われる賛美歌が生まれ、文化の混淆が始まった。この中で、おそらく伴奏楽器や旋律楽器の存在をハワイ人が見聞きすることになる。また、文化侵略とアンビバレンツな思いとして、宗教歌〜西洋音楽の旋律の美しさにも陶然したのかもしれない。
こうした流れにより、ハワイにも西洋の平均律とそれにともなう西洋音楽の概念が入ってきた。それがハワイの音楽と融合して、近代的な楽曲群の誕生につながっていく。もちろん、識字率もあがり、また楽譜の出版販売(シートミュージック)という当時としては新しい文化とも、ハワイ音楽が触れ合うことになる。
有名な『アロハオエ』もこの延長線上にある楽曲だ。作曲者は1895年に幽閉される女王リリウオカラニ。西洋的な教育を受け、西洋音階での作曲もできたから生まれた曲だった。
また、フラを復興したカラーカウアには4人の子供たちがおり、それぞれが作曲家として名を成している。長男はハワイ国歌で、のちの州歌となる『ハワイ・ポノイー』を作曲。長女リリウオカラニはフラのファンならずとも耳にしたことがある『アロハ・オエ』を作曲しているのだった(彼女は1917年没、20世紀まで存命)。
まさにヒメーニからの影響を感じる『ハワイ・ポノイー』。
ゴールドラッシュとポルトガル移民
ハワイに西洋人がやってきたのは、最初は捕鯨のための寄港地としてだった。次に、ハワイが必要とされたのは砂糖の生産地としてだ。ハワイに大きな転換をもたらしたのが後者だった。砂糖はハワイの重要な輸出品として、外貨と富を一部の者にもたらした。だが、人権の「じ」の字もない時代、砂糖農園での労働は過酷だった。砂糖は1849年のゴールドラッシュで好景気に沸くカリフォルニアへ輸出され、またアメリカとハワイとの外交関係も変化することでその需要はさらに高まり続けていた。
中でも、奴隷的とも言える労働条件の中で働かされたネイティヴ・ハワイアンは、1820年の推定数値13万人が50年には8万人まで人口が減少していた。移民が必要になったのは、この減少(=死者)の補充のためだったのだ。文化の創造と破壊。noteには何度か書いているが、周縁を収奪する資本主義の二面性となる。需要の高まりに合わせて、日本人の移民もこの砂糖農園での過酷な労働に追い込まれていくのだが、1920年代にはハワイの人口の42%を占めるまでになったという。それだけ多くの日本人がいても、音楽的にはアメリカやヨーロッパからもちこまれたものを超えるインパクトを残すことはできなかった。やはり、信仰とのセット流通こそ最強なのだ。
逆もまたしりかりで、日本に来た賛美歌は他国(植民化された地域)のように浸透することはなかった。それは信仰とセットにならなかったことと、日本にはすでに独自の旋律をもつ音楽と楽器があったので、それらと賛美歌との食い合わせがあまりにも悪かったことが関係しているのだろう。
日本人の移民開始から10年後、ポルトガル人の移民が始まる。なぜポルトガル人だったかというと、19世紀末、ポルトガルは国力自体は衰えていても、植民地経営は続けており、ハワイにもっとも近いヨーロッパの飛地を抱えていたのだ(ポルトガル海上帝国)。だから、ポリネシア諸島からハワイへとポルトガル系住民が移動してきている。先にも書いたようにインドネシアにもウクレレの兄弟が存在するわけだ。
そうして、ポルトガル人がハワイに流入し、さらなる文化混淆が深まる。船員が持っていたプラギーニャは、ウクレレとして量産されることになるのだった。しかし、その代償が数万人のハワイ人の死者たちだったのであれば、何という悲劇の上に成立しているのか。その霊を弔うためにも、フラの復活は必要なことだったのかもしれない。
1895年に女王リリウオカラニが退位し、国内での反アメリカ勢力によるクーデターを経てハワイ王国は終焉。アメリカに併合されたのが1898年、準州となるのが1900年だ。その後、ウクレレが本格的にハワイアン・ミュージックに使われるようになるのは、20世紀に入ってから(1916年に創業したウクレレブランドのカマカは現在でも中心的な役割を果たしている)。アメリカからギターと、その別の奏法としてのスライド・ギター(のちにラップスティール・ギターへ変化=lapとは膝の意。膝の上に乗せて弾くから。ラップトップPCと同じ意味のlapだ)が入ってきて、モダン・ハワイアンの萌芽が現れるのだった。
20世紀のハワイ音楽へ
ハワイのアメリカナイズは、アメリカからの支配が強まるにつれ、20世紀初頭に急速に進んでいく。それを憂いながらも作曲活動を続けていたのが、チャールズ・E・キング。これもまた誰しも一度は耳にしている1916年の『カイマナ・ヒラ』の作曲家だ。ほかには『ケ・カリ・ネイ・アウ』でも知られている。1950年まで存命だったが、19世紀を生きてトラディショナルなハワイアンをリアルタイムで知る、最後の作曲家だった。彼の死をもって、もはや音楽のアメリカ化の防波堤はなくなったのだった。
次回へのブリッジとして、少しだけ時間を先に進める。
のちにビートルズの使用で有名になるアメリカのリッケンバッカー社が、通称フライパンと呼ばれる、スライド用のエレキギターを作ったのが1931年。フェンダーやギブソンに先駆けて達成した、世界初のソリッドエレキギターの誕生の背景には、ハワイ音楽のアメリカでの爆発的な流行が背景にあったのだった。
だから、ロックンロールの誕生はもちろん、ビートルズサウンドすら、実はハワイ音楽なくしては誕生してないかった可能性すらある。そんな因果関係も浮かびあがってくるのだ。
次回に続く。
トップ写真:Wikipediaより
参考文献:世界音楽の本(岩波書店)、アロハプログラムhttps://www.aloha-program.com