マーク・ジュリアナと幸福への小径を往く
聴くことの音という作品
幸福への小径、もっとも重要な質問、見方、私たちの本質、自由になる勇気……詩的というか、哲学的というか、なんとなく暗示的な言葉が並ぶ。これらは「聴くことの音」と題されたマーク・ジュリアナのジャズ〜アコースティックサイドの新作、「ザ・サウンド・オブ・リスニング」の冒頭から5曲のタイトルである。
前2作では、もっとポップなタイトルが曲には付けられていた。本作はティク・ナット・ハンの著書「Silence」とマインドフルネスにインスパイアされて作られたアルバムだというから、同書とハンの思想からの着想なのだろう。あくまで印象だが、曲名から楽曲が生まれた、そんなことを想起させるように曲想と曲名がしっくりきて収まりがよい。
また、今回アルバム表記上はジュリアナ個人名義でのリリース。カルテット・メンバーでの演奏という前情報から、私はてっきり「マーク・ジュリアナ・ジャズカルテット」による新作だと思っていたのだ。
マインドフルネスからの影響があることと、ジャズ〜アコースティックサイドの新譜でありながらも個人名義であること。この新作の楽曲群とはどういう関係があるのだろうか。
それにしても、「ザ・サウンド・オブ・リスニング」は、期待の遥か上を行く作品だった。「ファミリー・ファースト」とも「ジャージー」とも異なる〈ジャズ〉が展開されている。
「ジャージー」で聴けたファビアン・アルマザンのゴリっとしたピアノが好きだったのだが、本作ではシャイ・マエストロが戻ってきた理由がよくわかる。この世界観はマエストロでないとフィットしなかっただろう。
ドラムの立ち位置とバンドの捉え方
「ザ・サウンド・オブ・リスニング」を聴いて、なんとなく聴き慣れない感じを覚えた。
前2作との端的な違いというべきか、ジュリアナのドラムが「遠い」のだ。左右のスピーカーのセンター奥に定位する楽曲が多く、リーダーでありながら、一歩引いてさりげなくバンドを支えている、そんなポジションに置かれている(ドラムレスの曲もある)ように聴こえる。
「ファミリー・ファースト」でも「ジャージー」でも、バンカースタジオでジョン・デイヴィスが録ってミックスした音は、ドラムを土台としたピラミッドバランスが貫かれていた(本作のマスタリングは『ジャージー』と同じアレックス・データクが担当)。
本作でも録音において、そのベーシックな思想に変化はないと思う。
だが、前作までは楽器の鋭いアタック感が生かされて、各楽器がフロントでせめぎあい、拮抗するようなミックスだった。それが本作ではドラムが遠いことによって奏者が「拮抗する」聴こえ方があまりしない。かといって録音での存在感がないわけでは決してなく、クリアなサウンドステージにドラムもしっかり浮かび上がって聴こえている。
ジュリアナ自身のドラミングも前2作と異なり、曲によってはまるで歌伴かのような寄り添い方をしている。太鼓の響きはかなりデッドで、他の楽器の残響とぶつかり合うこともない。
例えばとてもテクニカルなドラミングが光る『アワ・エッセンシャル・ネイチャー』では、ソロ回しっぽくなる瞬間でもドラムに過度なフォーカスはされず、バンド全体を聴かせる音場のまま楽曲が進行していた。
……と書いてふっと気がついたのだが、これはジュリアナのドラムだけが遠いのではなくて、バンドを総体として捉えたサウンドであるがゆえに、一番奥に定位したドラムが余計に遠く感じていたのかもしれないと。
オフマイクで空間ごと切り取るような録音ではないし、実際には、下記の動画でもわかるように完全に区切られたブース内で演奏していると思われる。それがデイヴィスのミックスによって、小ぶりのステージ上で演奏しているかのような一体感を持ちつつ、正確に配置されたバンド内の楽器の動きが「見えるように」聴こえてくる。
ミックスは左右のスピーカーからはみ出ることがほぼなく、音響的には広々としたパースペクティブを持つわけではない。逆に箱庭的な精緻さと奥深さがあるし、ジュリアナが一歩引いているので空間的な余裕が生まれていて、リード楽曲や装飾音はきれいに響く。繰り返すが音数も整理されていいて、音場の見通しがよい。
前作までは各演奏者をくっきりはっきり提示し、その上でバチバチに火花を散らして演奏が拮抗するスタイルだった。本作ではそれとは異なったアプローチをとっている。そうしたスタンスの違いが、特にドラムの立ち位置の違いとして聴こえてきたのかもしれない。そう考えると、上記の聴き慣れなさも腑に落ちるものがある。
精緻な音響の中に聞く本作らしさ
そして、この箱庭的で、音響的に整理されたサウンドステージの出現こそ、マーク・ジュリアナの頭の中での聞こえ方であり、マインドフルネス的な雑音のなさなのかもしれない、と仮定してみたのだ。
加えてアルバムの曲順にも工夫が見られ、5分以上の長尺曲と2〜3分弱の小曲とを交互に並べていて、単純化してしまえば前者はジャズ的で後者は非ジャズ的だ(1曲目『ア・パス・トゥ・ブリス』は導入として、両方の性質を持つ)。やはりこれはアルバムで聴かれることを想定されている。
長尺曲群の『ザ・モスト・インポータント・クエスチョン』や『アンダー・ザ・インフルエンス』のように、奏者のインタープレーをがっつり聴ける曲もある。だが、決して音響が飽和することはないし、飽和するまで沸点を上げてしまっては、本作に入る意味がなくなってしまうだろう。
すると、ジュリアナの電子音楽サイドを展開させた小品『ザ・サウンド・オブ・リスニング』が本作に入ってくる(かつ、タイトルナンバーになる)ことも理解できる。しずやかなグリッドの上に、碁石を置いていくかのようにピシピシとパルス音が鳴り、意識(時間)の流れを聴かせるように電気鍵盤のメロディがたゆたう。先行で配信されたこの曲だったが、アルバムの中で聴くからこそ、響き所を得た感じがある。
電子路線では、あえてのニューエイジ感をメロトロンとシンセを中心に演出した『ザ・カレッジ・トゥ・ビー・フリー』が、はかなげで美しい(ベースラインをバスクラで弾いているのか)。
こうした小曲群は、ジャズには聞こえなかったとしても、ジュリアナのマインドフルネスの表象として聴くことができるのではないか。
だからこそ本作はマーク・ジュリアナの楽曲だけで構成され(日本盤のボートラを除く)、彼のソロ名義でリリースされる必要があったのではないだろうか。
長尺曲も小曲との対比も鮮やかで、それも狙いのひとつなのかもしれない。
こうしたコンセプトも手伝ってか、曲想はバラエテイ豊かだ。アコースティックの演奏にシンセをSE的に重ねた『ア・パス・トゥ・ブリス』、これまでにないエレガント をまとった『エヴリシング・チェンジド・アフター・ユー・レフト』、ミニマルで音響的な『プラクティシング・サイレンス』、まったくの新機軸と思わせるサンバ風の『コンティヌエーション』と、聴きどころが多い。
多くの曲でシャイ・マエストロのピアノが自由闊達に響いていることも、箱庭的な本作のサウンドにあって、決して密室的にはなっていない理由だろう(おそらくアルマザンであったら、よりビートメイク的で、オン・グリッドな演奏を聴かせるのではないか)。
タイトルにしたように、本作を聴くことはマーク・ジュリアナが差し出した散策路に沿って小径を歩くような経験で、その聴取の道のりこそブリスフルなものだ。前2作のような、ビートに鼓舞されるのとも、スリリングな快感にひたるのともまた異なる音楽体験を味わうことができた。
スナーキー・パピーに続きコアポートからの大型リリースとなった本作。立て続けにnoteに書き込んでいるくらいなので、一昨日から「エンパイア・セントラル」と「ザ・サウンド・オブ・リスニング」を交互に聴いているような感じだ。
ほぼ同時に出た、オンタイムの「ジャズの」アルバムとしては、まったく別のベクトルであるが、それでいて時機を得て出てきた2作であるとも思うのだった。
*
パピー、ジュリアナに加え、ベッカ・スティーヴンス、ミシェル・ウィリスの最近作も入れると、私の好きな音楽家がさらにコアポートという「港」に集まってきているかのようだ。スワヴェク・ヤスクウケ、イン・コモン、グレッチェン・パーラトなど、長く聴き続けたい作品、追いかけたい音楽家の「CD」がきちんとリリースされている状況は本当にありがたい。
(了)