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ベッカ・スティーヴンスの古層への旅①

現代ジャズの旗手による2つの新機軸


 昨秋と今春に続けて、ベッカ・スティーヴンスが2枚のリマーカブルな(字義通り素晴らしさと珍しさが両立する)アルバムを発表した。21年9月の「ベッカ・スティーヴンス&ザ・シークレット・トリオ」と22年3月の「ベッカ・スティーヴンス|アタッカ・クァルテット」というセルフタイトルの2作。スティーヴンスが座長を務め、それぞれザ・シークレット・トリオ、アタッカ・クァルテットというグループとの合作で生み出された。
 両アルバムの概要は日本盤制作のコアポートのホームページでご覧いただくのがよいだろう。私は例によってSpotifyで聴き始め、即フィジカルを入手して聴いている(シークレット・トリオのほうは輸入盤だが)。


 トルコ〜小アジア系の音楽(旋律)もクラシック音楽も英米ポップスの合間に聴きかじる私にとっては、この組み合わせを喜ばないわけがない。また、個人的には「レジーナ」っぽい路線に乗り切れなかったので、後者で既存曲が新たなアレンジで聴けたことも大きな喜びだった。

 それにしても、スティーヴンスはなぜアナトリアの音楽と室内楽とをそれぞれテーマに選んだのか
 改めて両作品を続けて聴いてみて、そこにはなんらかの意味があるのでないかという考えが、私の中で強くなっていった。あいだにほかの作品を挟むことなく、この2作を連続して出した流れにも意図を感じてしまう。もしかしたら、これがバラバラのタイミングで(少なくとも年単位のインターバルで)出されていたら、音楽家の気まぐれと捉えてスルーしていたかもしれない。
 ベッカ・スティーヴンスは、オーガニックなサウンドから先端的なデジタルサウンドまで縦横に駆使して音楽を表現する、現代ジャズ/ポップス界の旗手のひとりだ。そんな彼女が規定路線を手放してまで新たなサウンドへと舵を切っているのだから、生半可なことではあるまい。
 その理由が実際には音楽家の無意識からであっても、その点について考察してみたいと思った。
 が、すでに私の考える答えめいたもの(の断片)は、この投稿タイトルで提示してしまっている。それが「古層への旅」だ。スティーヴンスがパートナーに選んだ音楽家たちにふれながら、2作品を見ていきたいと思う。

アナトリアへの旅

 解説にもあるように、ザ・シークレット・トリオの3人はそれぞれ、アルメニア、マケドニア、トルコと母国が異なる。地理的、文化的にはアナトリアをベースとした仲間だと言いたいが、トルコには元帝国としての屈折した感情が、アルメニアとマケドニアは常に隣国からの圧迫を受けてきた複雑な歴史があるだろう。宗教的バックグランドは、メンバーの出身民族によって異なるはずでなんとも言えないものの、音楽的にはイスラームの影響が強そうだ。そこにバルカンのダンスチューンのようなメロディやグルーヴも落とし込まれ、またトラッドな編成でありながら現代的なポップスの要素も顔をのぞかせる。
 そしてトルコ音楽よりも、アナトリア=小アジア的な鷹揚とした陽性な雰囲気を感じるのは、トリオによる民族間ハイブリッドが奏功しているのだろう。
 シークレット・トリオは、トラッドなトーンばかりでなく懐の深い演奏ができるグループなのだ。下記のライヴ盤でもそれは端的だ。

 連名になっているNYジプシーオールスターズは、シークレット・トリオのクラリネット奏者イスマイル・ルマノフスキとカーヌーン奏者タマル・ピナルバシとが在籍しているので、共演というか音楽的な棲み分けだと思われる。跳ねてシンコぺートする現代的なR&Bグルーヴの上で、トルコ式(G管)クラリネットとカーヌーンがバキバキの微分音ソロを弾きまくる。

 そこにウードのアラ・ディンクジアンが合流すると、演奏はよりイスラミックなトーンになる(それはウードの音域に引っ張られるからか)。

 たとえば、トルコ音楽の高名なジプシー・クラリネット奏者ヒュシュヌ・シェレンディリジ(husnu senlendirici)も同様に「トリオ」を組んでいる。彼のタクシム・トリオは、ウードではなくサズを入れたトルコスタイルのストリンググループで、比べて聴くとシークレット・トリオとの音楽的な違いがわかって面白い。

 また、シェレンディリジが欧米圏で有名になったのは、90年代の半ばにブルックリン・ファンク・エッセンシャルズへの参加がきっかけだ。非欧米の音楽家が世界的な評価を得るには、こうしていったん欧米のフォームに落とし込む必要があったのかもしれない。

 リンクは2019年のものだが、なんとなく「あの時代」を感じるアレンジなのは、いたし方なし。それゆえ、NYジプシーオールスターズとの違いもまた明確だ。のちに、自分のバンドであるラチョ・タイファも結成する。

 そのシェレンディリジがNYジプシーオールスターズと共演するとこんな感じで、トルコ的哀愁味が前面に出てくる。ルマノフスキが一歩引いて、シェレンディリジを尊敬している様子がうかがえる。観客も2曲目でシンガロングしているので有名な曲なのだろう。

 たとえばマイケル・リーグが関わったトルコ人クラリネット奏者のオヌール・チャリスカンとなると、また両者とはアプローチが異なるターキッシュ・ジャズの雰囲気となる。シェレンディリジのようなジプシー系ではないのかもしれない。同じトルコ、あるいはクラリネットという楽器でもきっと異なるレイヤーにいるのだ。

バーティカルではなくてリニア

 前提が長くなってしまったが、とにかくベッカ・スティーヴンスは、シークレット・トリオの演奏を目の当たりにして、涙を流して感動した。何が彼女をそこまで感動させたのだろうか。前稿に続き再度(再々度?)、柳樂光隆氏がおこなったインタビューを手がかりに考えてみたい。
 スティーヴンスは、柳樂氏の「彼らのどういうところに感動したのか」という問いに、微分音や対位法と明確に口にしながら、アプローチ的には下記と答えている。

バーティカル(垂直)ではなくて、リニアに音を並べていくってことをやりたいので、その構造の部分でも響くものがあった
interview Becca Stevens & The Secret Trio:柳樂光隆 

 バーティカルではなくてリニア。
 つまりはスティーヴンスの中に、リニア=直線的に広がっていく対位法的なサウンドへの欲求がすでにあって、そこを著しく刺激されたのだ。
 彼女がシークレット・トリオの演奏を目の当たりにしたのが2019年。インタビューではアタッカ・カルテットとのプロジェクト(弦楽曲化)は数年越しのプロジェクトであったと述べているので、自身の単独作を含めて様々なアイデアが同時並行で動いていた(濃淡はあるにせよ)ということか。とすると、余計にスティーヴンスのレイヤー(層)をまたぐ感覚のすさまじさがわかる。
 一連のデヴィッド・クロスビーとの共演も、スティーヴンスのリニアなサウンドへの欲求と無関係ではないだろう。
 クロスビーは、60年代末にそうした要素に気がついていたミュージシャンであり、フォークにジャズのモードを組み合わせた音楽を実践していた。ミシェル・ウィリスもそうだったが、彼女たちをクロスビーに引きつけた大きな要因だろう。
 上掲のリンクを聴いていただけばわかるように、シークレット・トリオは練達のミュージシャンであり、おそらくはこれまでスティーヴンスがエレクトロニクスを用いて実践してきたアイデアを、彼らのアコースティック感覚に落とし込んで表現することも可能だったはずだ。リズムコンシャスなアレンジもできただろう。
 だが、スティーヴンスは、メロディ、ハーモニー、リズムを和声の縦串で差して止める従来の方法(あるいは、上物と土台という仕分け)を選ばなかった。
 それよりも緊密にテンションを利かせ合うメロディが、リニアに、かつめいめいがゴールを目指して流れていくしかたを選んだ。このアルバムでほぼパーカッションやベースラインを入れなかったのも(『Eleven Roses』や『The Eye』では、ほんの味付け的に太鼓の打音が聞こえる)、リズムパターンというくさびを打ってリニアな流れを止めたくなかったからかもしれない。

 私の浅薄な知識の中で書くので多分に思いつき(思い込み)なのだが、このリニアなサウンドへの欲求と微分音への感度が、平均律以前の世界=古層への接点と呼べるものだったのではないか。16世紀アルメニアの吟遊詩人を召喚し、『Maria』ではクリスチャンの歴史も重ねらている。やはり、単層的な作品ではなく、過去から現代まで視野に入れて作られていることが想像できる。

 本作の中でも特異な立ち位置なのは、ポール・カレリの2009年作をカヴァーした『California』と言える。※1 ヴァース+コーラスを繰り返すシンプルな構成で、原曲はおそらくはオープンチューニングにしたギター1本で弾き語りされる。
 スティーヴンスは、このタイトル含めジョニ・ミッチェルっぽさが色濃い楽曲を、今回のテーマに落とし込んで最大限拡張した。間の取り方が原曲以上で、静寂に寄り添うカーヌーンとクラリネットの音色が美しい。声と楽器が飽和寸前まで膨れ上がり、すっとフェードアウトする終わり方も見事だ。アメリカ、あるいはその象徴としてのカリフォルニアがどことつながっているかも聴かせたかったのだろうか。

※1 アルバム自体も良作なので、機会があれば聴いていただきたい。ジャケットやライナーのイラストもおもしろいので、フィジカルがおすすめです。

 また、『For You The Night is Still』で締められるのも、示唆的な気がしていた。というのも、単線的で抑揚の少ないメロディラインが、まるでブリティッシュ・バラッドを彷彿させたからだ。そして、インタビュー中の予告通り、次の作品にあたる「〜アタッカ・カルテット」に収録される。そのメロディラインがある意味でオーセンティック な輝きを放っていて、腑に落ちた。アナトリアを通過したヨーロッパへの視線で、本作は締められていたのだった。

 そして、本作での古層へのまなざしはジャケットからも窺える。そこに描かれているのは、マケドニア王国やローマ帝国の時代の楽士らしき人たちの姿だ。この作品がアートワークを含めてアナトリア〜ヨーロッパの歴史の重層性の上に立っていることを示してくれている気がしてならない。

 なお、録音はスティーヴンスやスナーキー・パピー諸作の常連ニック・ハード。※2 細かなテクスチャの奥までピシッとフォーカスがあったサウンドはさすがだ。これが緩めのサウンドで仕上がっていたら、作品総体としてのイメージは大きく異なったことだろう。

※2 私は、彼が録音したウェイン・クランツのトリオの、キース・カーロックのドラムサウンドをオーディオのリファレンスのひとつとしている。

 さて、結局長くなってしまって、「ベッカ・スティーヴンス|アタッカ・クァルテット」までたどり着くことができなかったので、続きは改めて書いてみたいと思う。


◎基本はフリーハンドで書き進めているので(このタイトル=結論で行けるかも不明)、次回を受けてこちらも整合性をとるために書き直す可能性があります。
【修正】
・制作に関わる時系列を整理しました。

参考資料:

トルコ音楽の700年/関口義人(DU BOOKS)

写真はグラウンドアップミュージックより






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