ジョン・ウッドのダビーな「ワンダフル・タイム」
私が好きな録音エンジニア:ジョンウッド③
ウッド&ボイドの米国録音
アイランドに残した諸作でたびたびジョン・ウッドが組んでいたプロデューサーは、アメリカ人のジョー・ボイドだった。渡英してエレクトラ・レーベル関連の仕事やUFOクラブのオーナーをしていたボイドとの出会いが、インクレディブル・ストリング・バンドを筆頭に、すぐれたミュージシャンとウッドを出会わせることになったのだ(ジョー・ボイドのプロデュース作は名作揃いで、ロック史上でも屈指の人物だろう)。
イギリス勢を録音していた60年代後半の同時期から、ウッドがアメリカのミュージシャンの録音をすることになるのも、アメリカとイギリスを行き来してワーナーなどの仕事をしていたボイドのオファーだった。皮切りはおそらく1968年のジェフ&マリア・マルダーの「ポテリィ・パイ」で、続く録音作の数こそ少ないが、その仕事はアメリカンのシンガーソングライターやフォーク史の中でも名作の誉高いものが残されることになる。
その数少ない渡米録音の中で1975年に、ボイドのプロデュースのもと、2つの名作をものにしている。ジェフ・マルダーの「ワンダフル・タイム」とケイト&アンナ・マッガリグルの「ケイト&アンナ・マッガリグル」だ。どちらも、当時の同時代のシンガーソングライター、フォーク、ロックの範疇には収まりきらない音楽史的にもリマーカブルな作品だった。アメリカ音楽史を俯瞰するような「ワンダフル・タイム」、フレンチ・カナディアンの姉妹が奏でるミクスチャーフォーク音楽である「ケイト&アンナ・マッガリグル」を、アメリカ人のプロデュースのもと、イギリス人が録音する。一見、意外な組み合わせにも見えるが、北米音楽の成り立ちを考えると、ルーツをたどるかのような座組みだった。
米国音楽ワンダフル・タイム
先にも書いたように「ワンダフル・タイム」は、1930年代のオーケストラル・ポップス、オールドタイム・ジャズ、ジャグバンド、ソウル、ニューオーリンズ、ロックンロール、同時代のSSW曲を1枚のアルバムに詰め込んだ野心的な作品だった。ジャンルを横断する作品らしく、ストリングス、バンド、ギター伴奏など、音楽表現の幅も広い。この作品は、そうしたコンセプトアルバムであり、「ジェフ・マルダーのアメリカ音楽史」と題してもよいような内容。そのコンセプトを生かすために「音響の人」であるウッドが遺憾無くその手腕を発揮している作品なのだ。
さらにイギリス録音よりも音が太く、音圧感もある。遡ること5年前の1970年にウッドは、ジョン・マーティンとその妻べバリーとともにウッドストックで「ストームブリンガー」を録音している。そこではウッド流のハイファイ・サウンドを聴くことができる。ドラム入りの曲は、彼らしいピラミッドバランスの安定感。リヴォン・ヘルムが2曲叩いているが、イギリスでの録音以上に野太いドラムのサウンドを聴ける。環境(自然も録音場所も)や機材のせいか、アメリカらしい軽みに一定のウェットさが加わる印象で、音響的にも「ウッドストック・サウンド」の範疇に入れてもおかしくない。その名の通り鬱蒼とした森に囲まれたウッドストックは、ニューヨークの中の隠れ家であり、ヨーロッパ的(=アパラチア的)な湿度感ある響きとも無関係ではないだろう。
さて、また話をもとに戻すと、「ワンダフル・タイム」にはストレートなハイファイ感ではなく、様々な評者が書くように、あえてのノスタルジックな音色をもつ曲が多い。冒頭の『リヴィン・イン・ア・サンライト』やジェフの名声を高めた『ジー・ベイビー』がそうだ。後者はクロード・ソーンヒル楽団を意識したかのような、スウィートな編曲が聴きもので、マルダーの音楽的な懐の深さを知らしめている。
『ハイアー&ハイアー』のダブサウンド
だが、私が長らく引っかかっているのは、そうした「ディスクガイド」に書かれているような内容ではない。本作のハイライトは、ずっと『ハイアー&ハイアー』だと思っている。一聴すると、ウッドらしい録音に聴こえてしまう。だが、この曲の正体は完全なレゲエ〜ダブサウンドであり、数多い『ハイアー&ハイアー』のカバーの中でも、唯一無二かつ出色のものとしている。ぜひ、しっかりとした低域を再生できる装置で聴いてみて欲しい。これまでのイメージがひっくり返されるはずだ。
ベースはジェリー・ジェモット、ドラムはバーナード・パーディー。75年の二人は押しも押されもしないファーストコールであり、最強クラスといってもいい。おそらく「普通に」録ればクラシックなソウル・ナンバーが、ちょっと癖のあるヴォーカルが入った70年代流のファンキーソウルに生まれ変わって「終わり」だったろう。ところが、ウッドは自らの得意技も封じて、ピラミッドバランスを大きく崩している。パーディーのドラムはカチカチに締め上げたスネアの音を過剰に際立たせ(残響成分をカットしている)、ジェモットのベースは暴力的なまでに太く、全編を覆っている(かといって、音の芯は失われていない)。硬質さとアンビエント感を混ぜ込んだダビーなリズムトラックの合間を泳ぐように、ジェフが歌い、コーネル・デュプリーのギターが軽やかにソロを奏でる。そして、ホーンセクションが執拗に煽り立て、マール・サンダースのオルガンが、さらにサウンドのうねりを最大限まで高めていく。これだけ重厚でグルーヴがうずをまいているのだが、全体の印象はジェフのヴォーカルの効果もあり、存外に軽やか。本アルバムでも屈指の出来だし、曲の内容と相まってこれほどハッピーで、気持ちのよいサウンドを耳にすることもなかなかできまい。
このケミストリーは、おそらくウッドがアイランドの仕事をしていたことで生まれたのだろう。「音響の人」でもあるウッドは、リアルタイムでキング・タビーの作るサウンドも聴いていたはずだ。同レーベルの布教を通して、レゲエの人気はボブ・マーリーを中心にイギリスでも盤石であり、前1974年にはエリック・クラプトンがそのマーリーのカバー『アイ・ショット・ザ・シェリフ』でアメリカでもヒットを出している。「ワンダフル・タイム」での実験の土壌は整っていたと言えるだろう。ノスタルジックを装うアルバムの中で、『ハイアー&ハイアー』だけは、最新マナーで古典を演奏していたのだ。その反転こそ、私が感じた引っかかりだったのである。
本場で邂逅するジャグとスキッフル
『ジェイルバード・ラヴ・ソング』のようなジャグバンド・ミュージックの録音には、それまで培ってきたブリティッシュ・フォークの録音経験が役だったに違いない。この一曲でも英米のフォーク音楽史、イギリスでジャグがスキッフルとしてブームになったことなど、ウッド自身も考えるところはあったはずだ。
「ワンダフル・タイム」は音楽のジャンル、幅の広さに合わせて様々なミュージシャンが参加している。その音をまとめるだけでも相当の苦労であろうし、エンジニア・ミキサーとしての腕が問われる作品である。
イギリスからも盟友リチャード・トンプソンがギターで参加し、これまたここでしか聴けないアレンジでボビー・チャールズ作の『テネシー・ブルース』を残している。オンマイクで、耳元でささやくようなコーラス、インティメイトな歌とギターの雰囲気をあますところなくハイファイなサウンドで捉えた。歌とギターだけで壮大なコンセプトの音楽絵巻を静かに締めくくる、音響的な対比もまた見事だ。
あまり触れられることもないが、本作にはジョン・ケイルも参加。前年に「フィアー」をウッドとものにしている。「フィアー」も、内容・サウンドともに素晴らしい(「ワンダフル・タイム」との極端な違い)。
ジェフ・マルダーの「ワンダフル・タイム」は、アメリカの東西南北の音楽を、時空を超えてたった9曲で表現し(ようとし)たアルバムだ。それだけでもぶっ飛んだアイデアなわけだが、それはミュージシャンだけでも、コンセプトだけでも実現することはできず、音響的なアイデアとそれをまとめる手腕も不可欠だったのだ。
……珍妙すぎるジャケットがいくら足を引っ張ろうとも、本作が名盤である事実は、寸分もゆるがないのである。
とここまで「ケイト&アンナ・マッガリグル」にたどり着かずに3000字以上を使ってしまった。続きはまた次回に、もう少しだけジョン・ウッドのサウンドについて書いてみたいと思う。