「ヴードゥー」の音響とその先にあるもの
このところ改めて、録音エンジニアのラッセル・エレヴァードの名前が気になっている。ディアンジェロの復活作「ブラック・メサイア」はもちろんだが(すでに7年も前か)、近年の注目を集めているミュージシャンたち、例えばカマシ・ワシントン、ジョン・バティステ、トム・ミッシュ&ユセフ・デイズらの新作で、ミックスや録音を担当しているからだ。
なかでも個人的にハマったのがバッドバッドノットグッド(BBNG)の「トーク・メモリー」だった。
エレヴァードの仕事については、昨年本作リリースのタイミングで柳樂光隆氏が担当したローリングストーンでのインタビューに詳しい。ディアンジェロの「ヴードゥー」のことから、彼の録音哲学までを知ることができる貴重な内容だ(2021年11月公開)。
BBNGのマスターを耳にしたエレヴァードは、「音響設備の質の高さが感じられたし、エンジニアもその部屋の音響をとても上手く捉えている。バンドメンバーは一つの部屋で同時に演奏しているんだけど、複数の人たちが一つの空間に集まって録音するプロセスを的確に捉えている。私もそういう音響が大好きだし、自分でもこういう録音をしそうだなと思わされる」と語っている。
(ビートルズでは「アビイ・ロード」派という発言には、我が意を得たり)
柳樂氏はBBNGへもインタビューを行なっている。この記事からは、エレヴァードの考察どおり、ミュージシャンが同じルーム内で「せーの」で演奏し、録音が進められた様子がうかがえる。さらに、「ヴードゥー」の音響への愛も語られている。
BBNGは「ヴードゥー」からの影響を認め、実際にエレヴァードが生み出すサウンドを求めた。その理由はどこにあるのだろう。
「ヴードゥー」のサウンドが語られる際の文脈は、時代も踏まえてプロトゥールスへのアンチテーゼとしての役割をもたされがちだ。ディアンジェロは「ブラック・メサイア」でも、デジタルのプラグインを使っていないことを大きくうたっており、それに引きずられてエレヴァードの音作りもアナログ対デジタル、という対立軸に置かれそうになる。BBNGも「アナログ機材」へのこだわりを語っているのだが、これがエレヴァード起用の本筋なのだろうか。
冒頭であげた作品中、BBNGとミッシュ&デイズのクレジットを見ると、エレヴァードがあくまでミキシング・エンジニアとして参加しているという共通項が見えてくる。すべてをお任せ、ではないのだ。
BBNGの「トーク・メモリー」のミックスからは、エレヴァートらしさというか、「ヴードゥー」らしさは感じられない。思い切ってドラムを真ん中にかなり小さくまとめることで、モノーラルっぽい効果と、ベーシックなバンドサウンドの塊感が生まれている。その分、旋律楽器やストリングスは、団子になることなく、左右のスピーカーで自由に響いてくる。ただ、5曲目のようにドラムやサックスがポンと空間に浮かび上がり音楽を支配する様は、エレヴァート流と言えるだろうし、インタビューの内容とも合致する。だが、眼前のサウンド・ステージはかなり小さい。
トム・ミッシュとユセフ・デイズのアルバムもよく聴いていて、こちらのほうがエレヴァート起用の理由がわかりやすい。生楽器のロウな感じを聞かせつつ、エッジの立ったビートミュージックに仕上がっているからだ。しかし、こちらも「ヴードゥー」で聴ける過度なベース成分やディープなドローンは抑えられている。
極端な考察かもしれないが、「ヴードゥー」がCDやほかのデジタルフォーマットを意識した広大なダイナミクスを持っているのに対し、BBNGやトム・ミッシュらのそれはメディアとしてアナログ盤にもフィットする、おさまりのよいダイナミクスにとどめていると感じた。ミュージシャンがどこを見据えて作品を残そうとしているか、その違いも感じたのだ。
BBNGは、ポストプロダクションそのものを拒否したわけではなく、アナログ機材を駆使してそれを行うエレヴァートの手仕事に大きく魅了されたのだろう。
つまり、プロトゥールスのようなヴァーチャルでの作業ではなく、そのプロセスをアナログに載せ換えることで、電線やらコンデンサやらを電気信号が通過して「作品が物理的に変化する」ことを望んでの起用だったのではないだろうか。一時期席巻した「オーガニックサウンド」とは異なる意味でのアナログ感を目指したと言え、大風呂敷を広げていないサウンドが今っぽい。そう考えると、エヴァレートが施した「トーク・メモリー」での極端なミックスにも合点がいく(インタビューでやり過ぎたミックスがボツになったと語っていて、それはそれでとても聴いてみたい)。それはマスターに残された、「せーの」で録られた空間感とはまったく別物だと予想できるからだ。
だから、「ヴードゥー」からの影響を認めつつも、それを直接的にサウンドに落とし込みたいわけではなかったのだろう。
ジャズで、より端的な「ヴードゥー」フォロワーとして思い浮かぶ作品は、2012年のホセ・ジェイムズ「ノー・ビギニング・ノー・エンド」だ。曲によってエヴァレートが録音し、マスタリングはトム・コインが担当。ピノ・パラディーノも参加していた。「ノー・ビギニング〜」はライナーの写真からも分かる通り、アナログの録音機材にこだわった作品だったところも、「ヴードゥー」フォロワー然としていた。比較すると、10年弱の歳月の中で、「ヴードゥー」サウンドの「どこが欲しいのか」が大きく異なってきているのかもしれない。
ちなみに、「ブラック・メサイア」のマスタリングから、当時はまだ存命であったはずのコインは外れている。そこには完全に「ヴードゥー」を踏襲したわけではないという意味があったのだろう。またはアルバムのコンセプト的に既存のヒップホップっぽい音を鳴らしたくなかったのかもしれない。だが、コインのマスタリングこそ、「ヴードゥー」のロウな感じを決定づけてもいたはずだ。BBNGが同じディアンジェロでも「ブラック・メサイア」を飛び越えて、「ヴードゥー」への愛を語ったことと、シンプルで力強いアナログサウンドを欲したこともうなずける。
録音機材やエレクトリック楽器のプラグインは年々数を増しているし、シミュレートの精度もあがってきている。昔を知るエンジニアは「実機を知っている分使いこなしのツボがわかる」とは言っていた。だが、ラッセル・エレヴァードが求められているのは、ヴァーチャルな使いこなしの問題ではなく、ひたすら実機と向き合っているエンジニアのそれだろう。プロトゥールスが万能視されていた時代から、大きな揺り戻しが来ている。卑近な例では、使い捨てカメラやインスタントカメラが若者の間で流行していることと似た感覚だろうか。「フィルムルック」はあくまでルックであって、フィルムの質感とイコールではない。同様なことが音楽の世界でも起こっているのだ。
だが、やはりデジタル対アナログという単純な二項対立に陥るべきではない。精緻な音響は、デジタルの力があればこそ、より具体的に実現できるものだ(デジタルとアナログでの写真の解像感の違いにも同じことが言える)。特に太く持続するベース音やパルシヴな高音域、あるいは完全な無音が必要な場合は、録音や再生にデジタル技術が必要だ。だから「デジタルとアナログの協働」こそ「ヴードゥー」や「ブラック・メサイア」、あるいは「ノー・ビギニング・ノー・エンド」が到達した世界だった。そのバランスもまたエレヴァードが熟知するところだろう。
ベーシック録音は好みの場所で行い、2ミックスでまた別の要素を添加して音を研ぎ澄ませていく。昔からある手法ではあるが、DIY・宅録がもてはやされた時代を超克した現在において、その意味合いはまた異なってきている。デジタルの成熟とアナログの揺り返しの中で、またヴァーチャルとリアルとの間で、2020年代のモードは進化していくのかもしれない。だからこそ、エレヴァードのような人物の手腕が若いミュージシャンから求められているはずだ(2019年にはフィリップ・ベイリーも録音しているのも忘れてはいないが……)。
ただし、数を減らす一方である録音スタジオやアナログ機材の余命は、残酷な需要と供給の原理の中で、決まってしまうのだろう。あのアビイ・ロードスタジオが一時期売りに出されていた事実を忘れたわけではあるまい。