【文学】小説とは敗者の物語、それが文学復活のカギ?
「大きなものに向かって
個人が身体全体で
押し倒そうと挑んでいく。
小説は、自分と、
自分より大きくて
こちらを規制してくるものとの
葛藤であり、
その大きなものと葛藤し
負けていくプロセスを記述していく」
ようなものだという…。
これは作家の色川武大さんが
あるエッセイで披瀝した小説論です。
人間より大きなものというのは、
神や社会、時間や運命、死や疫病など、
色んなことが挙げられます。
この話は19世紀、20世紀の
優れた世界文学のほとんどが
当てはまるでしょう。
ちょっとひっかかるのは
「負けていくプロセス」
という箇所です。
小説は、敗者のものであったという。
なるほど、言われてみれば、
勝者には、わざわざ文字にして
記録するほどの怨念やルサンチマンなど
ありませんからね。
文学は「敗者のもの」だったかあ。
あまりにも基本中の基本を
最近、すっかり忘れていました。
たしかに若い時にも、そう
聞いてたような気がしますが、
久々に色川さんの文章で
改めて痛感しました。
そうして、
人間が大きなもの(神)に負けていく
プロセスを思い知る話を見たいなら
旧約聖書にいっぱい詰まってる、
色川さんはそう思って、
文学の力を磨きたいと思ったら、
旧約聖書にぶつかり稽古を
挑めばいいんだ、と…。
ちなみに色川さんは
無宗教な人です。
ただ、人生を学んだり
小説を磨きたい時に手本として
旧約聖書を読んだらしい。
ドストエフスキーも
チェーホフも
スタンダールも
カフカも
フォークナーも、
彼らが書いたのは、
運命や暴力や欲望に負けていく
人間のプロセスそのものですね。
それがなぜ19世紀、20世紀に
世界の各地で生まれていったのか?
それは産業革命や大都市化によって、
宗教が衰退していく時代の、
宗教の代替品だったのではないか、
と私は思っているのですが、
では、21世紀はどうなんでしょう?
今は、ネットやデジタル世界という
新しい神や宗教ができていて、
そこから負け、敗れて、
零れ落ちた人間たちが
そのプロセスを書いていけば、
小説は盛り返すのではないでしょうか?
文学はいつだって敗者の物語…。