【自分語り】自分の話を書くのは、9割、自己正当化になる?

スポーツには深い憎しみと
コンプレックスがあります。
だから今も、サッカーや
オリンピックは何が面白いのかと、
目の敵にしてきました。

大のスポーツ嫌いは
当然、大の運動音痴です。

水泳もできませんでした。
跳び箱もできませんでした。
サッカーボールのリフティングも、
できませんでした。
鉄棒の前周り、逆上がりも
できませんでした。

その学期中にできないと、
学期終了後の休み中に、
補習が待っていました。
鉄棒なら
逆上がりができるまでとか、
跳び箱なら、8段までとか、
水泳なら、
平泳ぎ15メートルまでとか、
先生が目標をたて、
学年でそれが出来ない子供が
集められて、
やれるようになるまで、 
夏休みや春休みを返上にして
ガンバったものです。

ああ、なんで体育の先生って
スパルタなんだろう?
私の運動嫌いは、
あの先生たちのせいだ、
長い間、そう考えてきましたし、
このnoteでも書いてきました。

で、です。
最近、学校の先生志望者が 
減ってきたという話を
よく聞くにつけ、思ったんです。

そういえば、私が
いつも補習で、
鉄棒や水泳や跳び箱をしに
夏休みや冬休みにまで
学校に通わせられていた頃、
その担当の体育の先生も、
休み返上で、毎日来ていたわけで、
今思えば、 
あの時の先生たちも
いやいや?しぶしぶだったに違いない。

保健の先生とのデートに
やっとこぎつけた日に限って(笑)、
泣く泣くデートを断念してたかも
しれないじゃないですか。

お正月くらい、ゆっくりしたいのに
リフティングができない生徒が
何人もいるばっかりに
寒い中、学校に出てきてたろうに。

なぜか昨日、ふとそう思ったんです。

補習が休み返上でさせられた、
という記憶は、
体育のスパルタ性を非難する私の
主張に合わせているだけで、
体育の先生を悪者にしてましたが、 
それも、あくまで、
私自身サイドを正当化するためだった
のではないでしょうか?

うーむ、
40年間、ずっと凝り固まってきた
「体育の先生はワルものだ」的な
価値観が昨日、なぜか
吹っ飛んでしまいました。

近眼でものを考えてきた、
私みたいな者をあざ笑うかのように。
(汗)。

noteでは何度も何度も
「自分語り」をしてきました。
でも、それは私小説と同様、
自分の正当化に過ぎないのかな?

どれだけ、自分をひいきせずに
自分語りができるだろう?
フェアな自分語りができるようになれば、
私も、もう一皮むけるだろうに?

近眼や至近距離の思考や語りは
やっぱり、感傷に溺れるというか、
センチメンタルしか、
生まないんですよね?

私も、やはりもう何皮も
むけていきたいですからね。 
感傷に陥ってばかりでは
いられませんよね?

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