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【創作】作家の分岐点について

小説家、作家も生き物だなあ。
一人の作家の小説を
続けて何冊か読んでると
つくづくそう思う。

たとえば、
夏目漱石。
漱石が「坊つちゃん」や
「草枕」の段階でずっと
とどまっていてくれたら、
日本文学のエンタメ性は、
きっとすごく高かったろうなあ。

どちらも笑いあり、
色気もあって、
純文学っぽくはない。
誰でも楽しめる作品です。

それが「自我」「自己」を
極めようとして、
漱石は孤独なテーマに
分け入っていった。
その分岐点で、
誰かアドバイスしていたら?
いや、あの頃は
編集者もいないか。

三島由紀夫。
三島も「金閣寺」の段階で
とどまっていたら、
「鏡子の家」での失敗を
味わうことが無ければ、
時代や社会と決別することもなく
だから、熱り立つ右翼活動や
自決事件などに至らなかったのに。

それから、村上春樹。
作家も生き物だから
仕方ないといえば仕方ないけど、
「ねじまき鳥クロニクル」の段階でも
あの独特の切ない不安感を
キープしていってくれていたら?
いや、それは現在も生きて書いてる
村上春樹に失礼ですね。

でも「海辺のカフカ」「1Q84」以降は、
どこかしら泰然自若とした
立派な風格が根っこにあるようで、
読みながら怖くなる春樹の不思議さが
なくなったのは確か。

いや、悪口ではないんですよ。

海外なら、すぐ浮かぶのは
カポーティですかね。
「ティファニーで朝食を」
「誕生日の子どもたち」などを
ずっと書いていてくれたなら
アメリカ文学を代表する名作が
何作も増えたでしょうに、
死刑囚のルポルタージュ「冷血」に
手を出した辺りで、
心身ともにボロボロになり、
まるで自滅してしまった。

それにしても、
作家には、いくつもの分岐点があり、
それをどっちに曲がるか、
どっちの選択肢をつかむかは、
本人しかわからないことですよね。

後からアレコレ言う私は卑怯か。

そういえば、
森羅万象に関心が旺盛だった
宮沢賢治は、
いつも、その時その時の分岐点を
精一杯、選択した人ですね。

あ、中原中也もだ。

波乱万丈な生き方だし、
創作もマンネリズムにならない
文学者でしたね。

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