自己紹介 FP鈴木淳也/札幌ファイナンシャルプランナー
2021年8月9日より、情報発信の場を増やしたい、note仲間を作りたいと考え本格的にnoteに取組むことに致しました(8/9より連続投稿中)。
私の自己紹介のプロフィール記事です。是非読んで下さい!
※随時更新しています。
🌈ステータス
✅名前:鈴木淳也(すずきじゅんや)
✅性別:男
✅年齢:37歳
✅血液型:A型
✅家族構成:妻と息子4歳児
✅趣味:料理、健康的な生活、マラソン
✅見た目:温和
✅性格:活動的、やると決めたらやる
🌈略歴
✅小学校時代:アメリカ帰国子女
✅大学時代:ロシアのモスクワ大学留学
✅就職:銀行
✅転職:生命保険会社の営業
✅独立:FP事務所を設立(今ここ!)
🌈得意分野
✅保険の新規加入・見直し相談
✅資産運用相談(つみたてNISAやiDeCo他)
✅住宅購入相談
✅家計相談(家計簿の添削・支出改善)
🌈鈴木淳也FPのSNS
✅instabaio(全てのSNSが閲覧できる)
✅Twitter
✅Instagram
✅YouTube
✅FP事務所ホームページ
✅個別相談メニュー
✅LINE公式アカウント(お問い合わせ・個別相談)
✨鈴木淳也FPのSNS(ロシア人向け)
✅ YouTube
✅Instagram
🌈私の仕事一覧
✅自己紹介動画
幼少期
東京都世田谷区で産まれました。
小学校2年生まで東京で生活をしていました。
東京に住んでいた時は、都会と言う印象より静かで穏やかな印象でした。特に夕焼けがとても好きでした。
また近くにレストラン「ジョナサン」があって、たまあの御馳走は家族でジョナサンに行くことでした。ジョナサンってお店、まだありますよね?
父の会社の都合で転勤となり、アメリカのニューヨーク州に3年間住んでいました。
アメリカに住み始めた頃は、現地校に通っていたました。
ただ英語が話せなかった事親の判断で日本人学校に転校することになりました。
日本人学校では友達の家で寝泊りしたり、誕生日会をしたりととても楽しい日々を過ごしていました。
ショッピングは決まってウオハンという日本人向けのお店に行っていました。
本場のディズニーワールド(ディズニーランドの事)や、ワールドトレードセンター、自由の女神等、アメリカ全盛期の時に行けたことは、今でも良かったなと思っています。
中学~高校時代
その後学業の事も考え、父の会社の本社がある北海道に引っ越しました。
アメリカに3年間住んでいたことから、日本語を流ちょうに話せなくなりました。またアメリカと日本の文化の違いにより、日本の文化や日本人に馴染むのに相当時間が掛かりました。
特に
①時間通り
②体育座り
③皆一緒に行動
が理解できませんでした。
むしろ今でも日本に馴染めている感じがしないのは、アメリカに住んでいたころの名残なのかもしれません。(笑)
大学時代
高校を卒業と同時に特にやりたいことも無く、当時流行っていたフリーターになろうと思っていました。
しかし親からの強い反対を受け、大学へ進学することとなります。
因みに当時親が強く反対してくれて、今ではとても感謝しています。
余談ですが、最近少し有名なYouTuberのゆたぽんという子が、
「大学なんか行っても意味が無い」
と言っているのを目にしたことがあります。
確かに会社員として就職する事が目的ではなく、あなたが事業を始めるとかであれば、大学に行く、行かないはあまり関係が無いかもしれません。
しかし全ての人が器用に事業を始めて成功するわけではありません。大抵の人は事業を始めても上手くいきません。
中小企業白書の調べでは、
個人事業主の廃業率は
1年で37.7%
3年で52.4%
5年で74.4%
企業の廃業率は
1年で20.4%
3年で37.5%
5年で47.3%
誰もが成功できるというわけではないことが、こちらの廃業率を見るとお分かりになると思います。
廃業率を見ても、結局殆どの人は会社員として働くという働き方となる為、会社員として働く場合、大卒と高卒では生涯賃金に大きな差が生まれます。
「生涯賃金が約8000万近く変わる」
ということなんです。これは相当手痛いですよね。
もしあなたが大学に行けるような環境にある方であれば、行かないよりは行った方が絶対に良いです。生涯賃金だけでは無く、将来の選択肢が広がります。
話しが脱線しましたが、大学選びで一つだけ拘っていたことがあります。
それは
「人と違うことをする」
ということでした。何かの爪痕をこの世に残してみたいと常日頃思っていた為、人と同じことはしたくないと思っていました。
特に語学が好きだったこともあり、
「ロシア語」
を勉強しようと思いました。なぜロシア?と思うかもしれません。
恐らくほとんどの日本人はロシア語を勉強していないと思っていました。
「誰もやっていなさそうだったから」
が最大の理由です。あなたなら「ロシア語」を勉強しようと思いますか?きっと思う方はとても少ない無いと思います。
この考えは今のビジネスのマーケティングに活かされています。
大学時代はロシア語にのめり込み、猛勉強をしていました。それでは何者かになりたかったためです。
そして努力の甲斐もあり、学校内でトップクラスの成績を収めることができました。
学校からの推薦を貰い、ロシアの首都モスクワ大学文学部に学費を全額免除(留学中に在学している学費のこと)で留学することができました。
留学時代はロシア語を更に伸ばそうと考え、ロシア語を覚えるなら筆記よりネイティブと話した方が良いだろうと考え、友達になってくれそうなロシア人を探しました。
そんなある日、同じ寮で知り合いになった韓国人から、日本人と友達になりたいと言っているロシア人女性がいると紹介をされました。
その子の名前はアーニャと言う子で、アーニャと友人になったことで、私はロシアの事やロシア語を教えてもらい、アーニャには日本のことや日本語について教え合い、お互いに異文化交流をしました。
アーニャの友人とも仲良くさせてもらい、旅行したり、クラブにも行ったり様々な体験をすることができました。
ロシア在住の終盤では、ほぼネイティブの言葉を理解できるようになっていました。
また現地に住んでいた日本人とも交流をしていました。その時に出会ったある大手商社の部長さんが印象的でした。
彼は慶応義塾大学卒で、商社に勤め、年収2000万近くだと本人が言っていました。
彼は「ロシア語は勉強したことが無いけど、ロシアに住んでちょっとしゃべっているのを聞いたらしゃべれるようになった」と言っていました。
真意は分かりませんが、当時はこんな人が世の中に存在するんだなと、世の中不公平なんだなと学生ながら理解しました。
その後留学も後半に差し掛かったころ、実家の事情で仕送りが途絶える事態となり、極寒の地で極貧生活を経験します。
本来はこのまま数年ロシアに住み続け、いずれはロシア語の通訳士になるという漠然とした夢があったのですが、諦めることになったのです。
はじめて就きたいと思った仕事だったので、とても辛かったです。
銀行時代
日本に帰国後もロシアに関連する仕事にどうしても就きたいと考えたのですが、中々見つかりませんでした。
今なら起業も考えれるのでしょうが、当時はそこまでの知恵も感情もなく、ロシアに少しでも触れられそうな仕事に言及しました。
また私と同じ様にお金に困って夢を諦める人の助けにもなりたいという思いもありました。
そこでロシアに少しでも関連しそうで、且つお金に関わりそうな仕事が良いかなということで、絞り切って地元の地方銀行に就職。
その地方銀行では、ロシア語ができる人間を採用していたわけではありませんでした。
しかしこれからロシアビジネスを広げていこうという思惑がありました。もしかしたらロシアビジネスに携われるのではと淡い期待も含めて就職を決めました。
銀行に入行後、初任地が稚内支店でした。稚内市は北海道の最北端に位置し、ロシアのサハリン州と行き来ができる街です。
1年目の時は個人融資係として業務を担当する傍ら、ロシア人や中国人の外国送金業務や外貨両替業務も兼任していました。
私はロシア語や英語に精通していた為、
「銀行でロシア語も英語も話ができる銀行員がいる」
という噂を聞きつけた外国人が私のところに殺到し、外国送金の為に列になってお待ちされることが度々ありました(笑)
稚内支店の後、住宅ローンのみを専門に行う住宅ローンプラザというところに転勤となります。
住宅ローンプラザでは、主にハウスメーカーの営業マンへの住宅ローンの営業活動から審査業務まで、仮審査から正式審査、融資実行までを一通り学ぶことができ、1年間で200世帯程度のお客様の住宅ローンの仮審査から融資実行(融資を行う)までを行いました。
銀行員時代では、
「住宅ローンの実務経験約10年」
と、元銀行員の男性行員では非常に珍しい経験を積みました。
ファイナンシャル・プランナーへの道
銀行での生活ですが、仕事自体に不満は無かったのですが、前述した
銀行でのロシアビジネスに携わる
という夢が10年以上在籍しても叶いませんでした。
因みに私は現在ファイナンシャル・プランナーの仕事をさせて頂きながら、ロシア人向けに日本語を教えているInstagramのアカウントがあります。もしご興味ある方は、気軽にフォローして下さいね。
理由はわかりませんが、現在もあまりロシアビジネスが上手くいっていない(他の銀行はロシアから撤退している)ことからも、仕方ないことだと諦めました。
そこでこのまま銀行に居続けて本当に良いか考えるようになります。元々サラリーマンをやりたかったわけではなく、どちらかというと自由にやりたいという思いがあったからです。
そんなこんなで銀行員として活動する中で、あるきっかけで人生のターニングポイントを迎えます。それは自身の結婚でした。
結婚を機に、たいした保険に加入していなかったこともあり、保険を見直そうと考えたのですが、どこで誰から保険の話を聞こうか悩みました。
その時に
「自分自身で学んで、自分で保険に加入すれば良いんだ」
と考えるようになります。
またファイナンシャル・プランナーとは何かがあまりよく理解できていませんでしたが、いずれ自分は
ファイナンシャル・プランナーになる
と漠然とした目標を立てたことを今でも覚えています。
銀行に在住しているころから、ファイナンシャル・プランナーとしての働き方を模索していました。
そんなある日、ある2社の保険会社の営業所長と言う方からヘッドハンティングを受けることになります。
その一社の営業所長から、
「保険営業はファイナンシャル・プランナーの仕事ができる」
という甘い文句があり、当時保険営業というものがどういったものか理解していなかったことも重なり、転職を決意します。
保険営業時代
右も左も、そもそも保険営業とは?もわからないままの転職です。
知り合いが多いわけでもなく、すぐに行先が無くなってしまいました。
しかしあの手この手と模索するうちに、半年間全く売り上げが上がらなかった私でも、初年度で新人賞を獲得するまでに至りました。
そして保険営業にも慣れ始めた2年目の時、ふと思い出すのでした。
「あれ、俺は保険が売りたくて今ここにいるんだったっけ?」と。
周りの先輩たちを見ても、同僚を見ても、保険を売る為にどうするかを考えている方や、
「保険でお客様を守る」
という使命感で働いている人はいましたが、
「お金全般のことでお客様の力になる」
といった私が漠然と思い描いていた
「ファイナンシャル・プランナー」
とは全く違うものでした。
まあ今思えばそもそも保険屋さんなのに、保険を売らないで何を売るってなりますよね。
そして本来のファイナンシャル・プランナーとは何かをまた模索し続け、ようやくたどり着いたのが現在の働き方です。それは
「一つの商品や提案に固執しないお金のプロ」
本来自分が思い描いていたファイナンシャル・プランナーという働き方を見つけることができ、保険会社を2年3か月と短いながら退職することにしました。
ファイナンシャル・プランナーというと、いまだに保険屋さん?と思われがちな職種ではありますが、多岐に渡る働き方ができる職種だと考えています。
物事に固執しなければ、最もイノベーションが行いやすい職種であると思っています。
現在
そして現在は、ファイナンシャル・プランナーとして、まだまだ小さな会社ではありますが、FP事務所を設立致しました。
FP相談(主に保険、資産運用、住宅購入相談)を行いながら、講演活動、セミナー、記事執筆・監修、メディア出演等、幅広く業務を行っております。
また最近では多くのご縁を頂き、北海道テレビHTBさんのイチオやLOVE HOKKAIDOという番組に出演させて頂きました。
リクルートSUUMOさんから住宅FPとして取材を受けたりと、ファイナンシャル・プランナーとしての活動が幅広くなっております。
情報発信ができる場を設けて頂けて、感謝しきれません。
これからの展望としては、私を通じてより多くの方がお金の知識を付けて頂き、一人でも多くの方がお金に困らない人生を歩んで欲しいと願っております。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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