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#11 理学療法士の中国リハビリ記録【脳性麻痺のリハビリ−回復への切なる願いと医療の限界】

彼らと初めて出会ったのは、春の終わりがけだった。施設のリハビリ室には、柔らかな午後の日差しが差し込んでいたが、その明るさが不釣り合いに感じられるほど、彼らの表情は暗かった。

扉が静かに開き、四歳の男の子とその両親が入ってきた。男の子は脳性麻痺による痙縮タイプで、筋肉の緊張が顕著だった。その身体は小さく華奢で、動きのぎこちなさが目立つ。一歩一歩が重そうだった。

「この子を早く普通に戻してください」

父親の第一声は、挨拶よりも早く飛び出した。その声には焦りと切実な願いが混ざっており、まるで僕を試すかのようだった。

隣の母親は、無言で男の子の手を握りしめていた。その手が、かすかに震えているのが見えた。

健常にならなければ意味がない

僕はまず、病院の見解を伺い、それから脳性麻痺という病気の一般的な経過について説明した。リハビリを通じて筋肉の柔軟性を高め、生活の質を向上させることはできるが、全てを正常に戻すのは難しいという現実を、慎重に言葉を選びながら話した。

しかし、説明が進むにつれ、父親の表情は険しくなり、母親は視線を落としたままだった。

「このままでは、学校に行ってもいじめられるかもしれない」

父親がぽつりと言ったその言葉は、リハビリ室の静寂を一瞬にして張り詰めさせた。その声には、彼自身の不安と後悔が滲んでいた。

僕は胸が締め付けられる思いだった。幼い子どもが障害を抱えることで直面する未来の困難。それを目の当たりにする親の苦悩。どう言葉を紡げば彼らに届くのか、僕は迷いながらも伝えた。

「できることを一緒に考えませんか。病気を抱えながら就学できる方法を、一緒に探してみましょう」

リハビリは身体の機能を改善するだけではなく、家族と歩調を合わせ、共にその子を支えることが重要だと、今も僕は信じている。それにそうやって臨床を歩んできた。

しかし、その言葉は彼らには届かなかったようだ。父親は険しい口調で言い放った。

「歩けるようにならないと、学校は考えられません」

その一言に、僕は言葉を失った。身体機能の回復に対する期待と執着。それは彼らにとって、子どもの未来そのものを賭けたものだったのだろう。母親も視線を逸らし、父親の言葉に無言で頷いていた。

彼らがリハビリ室を去るとき、僕はただその背中を見送ることしかできなかった。どんな言葉をかければ良いのか分からず、無力感だけが胸に広がった。扉が静かに閉まる音が、リハビリ室残った。

正しい対応とは何か

その後、僕はしばらくその場に座り込んでいた。頭の中には、男の子のぎこちない歩き方と、父親の焦燥、母親の沈黙が繰り返し浮かんでは消えていった。リハビリがこの家族にとってどんな意味を持つのかを考え続けたが、答えは出なかった。

この出会いが最初で最後になることを、僕は薄々感じていた。

彼らが望む「回復」を提供できる可能性は限りなく低い。だからこそ、彼らは別の道を探しに行くだろう。それが正しい選択なのか、それともまた新たな失望を生むのか、僕には分からない。ただ、彼らの背中を見送りながら、何もできなかった自分への無力感に苛まれていた。

小さくても確かな一歩を探す

その帰り道、僕はふと考えた。この国で障害を持つ子どもたちは、どのように生きているのだろう。地域で受け入れられ、共に成長する場があるのか。それとも、家族だけで支え合い、社会から孤立して生きているのだろうか。その答えを知りたいと思った。

とはいえ、僕一人がそれを担うことはできない。僕はただの一理学療法士であり、広い世界の中では微力でしかない。それでも、この一件を通じて気付いたことがある。それは、たとえ些細なことであっても、目の前の現実に目を向けることの重要性だ。

橋の向こう側では、夕暮れの光がまだ柔らかく注いでいた。しかし、その暖かさとは裏腹に、僕の心の中には冷たく硬い何かが残っていた。それでも、その気持ちを忘れずにいようと思った。自分にできる範囲で、何かを変える小さな一歩を、これからも探していこうと。

帰り道の夕日。これにどれほど明日の元気をもらえることか。

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JUNYA MORI
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