ふつうがわからない
ふつうがわからない。
坂本慎太郎の「まともがわからない」のパロディ、とかではなくて。
みんな同じ人間だけど、みんな一人一人違うんだから当たり前じゃん、みたいなありきたりな言い回しで片がつくような単純なお話でもない。
だって、ふつうなんて人によって、家族によって、集団によって、全部違うのだ。
例えば僕は、田舎の公立を小中高と出てそれなりに名のある都内の私学に進学したのだけれど、そこで軽いカルチャーショックを受けてしまった。
僕の学部はそれなりに裕福な人が多いのだが(即ち学費が高いのでこればかりは親に感謝である)、今まで会った、日本にバックグラウンドを持つ学生のほとんどが、首都圏もしくはその他の大都市圏の、所謂偏差値の高い中高一貫、私立、男子校、女子校、又は別学のどれか(多くは二つ以上)を経てここへたどり着いているのだ。
そんな場所にこの環境から辿り着いたなんて凄いだろ、などと自慢をしたいわけではなくて。ある共同体におけるふつうなんて、そこから一歩足を踏み出せばもうふつうとしては通用しないことが、出ない限り実感としては分からないわけで。
だって、田舎の側の人間にとっては一発逆転といえば聞こえは良いかもしれないけど、実際に行く側にとってみれば、自分のゴールだったはずの場所は多くの人にとって通過点に過ぎないのだ。
(この感覚を僕より遙かに丁寧に言語化したものをここに貼り付けておく。僕の文章は読まずともこちらは是非読んでほしい)
ふつうがあるってことは、ふつうじゃない、もある。これだけじゃない。例えば、可愛いがあるってことは、可愛くないもある。これ自体は気持ち悪いけど、それを否定する気もない、それが主体の内部にとどまってさえいれば。
でも、自分のふつう、をそこからはみ出して外に押し付ける人はたくさんいる。冒頭の、坂本慎太郎の「まともがわからない」の歌詞から言葉を借りれば『うそみたいな人たち 悪いジョークなんだろ』って感じの人たち。
しかも今は、人の顔を直接見ていたら絶対に言えないようなことすら言えてしまう、そんなプラットフォームもまた沢山ある、悲しいことに。
もしかしたら無意識のうちに自分もそうしてしまっているかもしれない。生まれ育った環境から受ける影響は大きい、自分の多くを占めているから。
その浸食を出来る限り防いで頭を柔軟に保つために僕は今学んでいる。気配りだけでは十分じゃないから。この辺りのことは話すと長くなるからまた別の機会に書こうと思う。いつになるか分からないけど読んでもらえたら嬉しい。
話が大きくなったけれど本題は、ふつう、についてだ。今はまだこんな世の中だから、ふつうはしばらく存在しなくていいと僕は思う。みんなが自分の”ふつう”を疑った末にそれに自信を持って、また相手の”ふつう”を尊重できるその日まで。