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シーシュポスの神話 カミュ著⓵

シーシュポスの神話のメモ

カミュの根本的な思想は「不条理」と「反抗」

不条理とは絶対的に還元不可能な世界と、世界を還元し、統一することを試み続けざるを得ない人間の関係、相容れなさを表している。

そもそも人間の認識は、自己の言語感と見聞きした現象の「統一」によって果たされる。あれは青い箪笥だ、綺麗な空、醜い街と言ったように、目に見える事物を、言葉で捉え直すこと、すなわち認識の統一によって、現実というものを作り出している。

しかし、世界は本来、認識によって統一できるものではない。一つのコップ、一つの本を手に取り、匂いを嗅ぎ、これは何々だ、と口にしても、私たちはそのもの自体を理解することはできない。私たちは、言葉によって、世界を分別、限定し、生きてゆく他ない。というか、生きていくということ自体が、不条理を生み出し続けている、虚無と混沌に覆いを被せているということである。

世界は認識からこぼれ落ちる、しかし、私たちは生きている限り世界を汲み尽くそうと躍起にならざるを得ない。このなんとも辻褄の合わなさ、虚無的な背反関係が、「不条理」そのもの。

本書の中では、死と生についての不条理、すなわち、永遠性を希う人間と、圧倒的な死、全ては無に帰するという不条理についても語られている。

荒唐無稽で混沌とした世界を、必死に限定し、秩序づけようとする人間たちの儚さ、ここに不条理の摩擦、苦痛がある。

不条理に目覚めた人間は、通常、二つの道を迫られる。
一つは虚無主義的な態度。意味のないこの世界に絶望し、生きながらにして死ぬということ。
次に飛躍。あらゆる意味、あらゆる価値が根本的にないのであるならば、それを覆い隠すために、人間が意味を作り出すということ。例えば、宗教、イデオロギー、実存哲学などがこれに当てはまる。

しかし、カミュは、それらを批判的に捉え、不条理に対する唯一の誠実な態度は「反抗」であるとする。

反抗とは、虚無と不条理を眼前に保ちつつ、それゆえに反抗的に、行動する人間の態度である。

カミュは本書の中でこのようにいっている。
「以前は、人生を生きるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ることが問題だった。ところがここでは反対に、人生は意義がないだけ、それだけ一層よく生きられるのだろうと思えるのである。一つの経験を、一つの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。ところで、この運命は不条理だと知っている時には、意識が明るみに出すこの不条理を、全力をあげて自分の眼前にささえ続けなければ、人はこの不条理な運命を生き抜いてゆくことができないだろう。」

そして、この態度が、シーシュポスという古代の英雄の神話につながる。

シーシュポスは、神々を怒らせてしまったがために、大岩を山上へ運ぶという労苦を強いられた。さらに、その岩は山上まではこばれると、たちまち転げ落ちてしまう。シーシュポスはその行為を無限に繰り返さねばならなかったのだ。

この神話は、一見シーシュポスを絶望の人のように、悲しき罪人のように思わせる。しかし、カミュは「我々は幸福なシーシュポスを思い浮かべねばならぬ」という。

シーシュポスは、この岩という不条理に賭けている。この辻褄の合わない行為の中に、彼は自分の人生を感じている。彼にとっては岩は唯一の世界と自分を繋ぎ止める関係、不条理そのものなのだ。

人間は生という無限の労苦を強いられ続け、また、根本的には原因のない(知覚することのできない)労苦、災害、病、などの苦しみを生きてゆかなければならない。無意味な人生の中で打ちひしがれる毎日であるが、それでも、その中にこそ、その闘争の中にこそ、人生の儚さと輝きが、美しく見える。







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