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史上最強のテニスコーチVS史上最弱のテニスコーチ

(原文 2022年06月10日)

異質な考えの2人を結び付けたものは何だったのか?

僕が史上最強のテニスコーチと呼ばれ1978年にテニスの殿堂入りされた故ハリ―ホップマン氏と最初に出会ったのは逝去された1985年の2年前の冬、温暖で湿気が多いフロリダ タンパにあるハリ―ホップマンテニスキャンプだった。その頃、僕は上司と衝突して、サラリーマンを辞めてテニススクールを主体とした事業を始めて数年たち、勢いに乗っていた時であった。折しも、沢松和子選手がアン清村とペアを組んでウインブルドンで優勝し、テニスブームが湧き起こっていた。 スポーツ好き格闘技好きの僕は、慶應義塾時代はレスリング部に所属し、マムシ谷にある暑苦しく汗臭いレスリング部道場の窓から、男女が楽しそうに嬌声を発している体育会テニス部の練習風景やコート整備を羨まし気に眺めていたものだ。(僕は、レスリング部の先輩でアメリカで鉄板焼きチェーン『ベニハナ』を創業して、有名人になっていたロッキー青木にあこがれてレスリング部に入部して、ストイックな生活を送っていた)その時の縁でテニス部部長のN君に世話になりテニススクールを始めるにあたり、初めてテニスラケットの握り方から手ほどきを受け、テニス選手達を紹介されたものだ。さてテニス経験が皆無だった僕は、テニスコーチに招聘した関学や甲南のテニスボーイたちに泥縄で特訓を受けたものだ。僕はテニススクールの繁栄の秘訣は、子育てがひと段落した裕福な主婦をターゲットにする事だと考え、特段テニスが上手でなくても、ハンサムでサービス精神のあるコーチを揃える事だと考えてコーチ選抜を行っていた。このビジネス中心の考えで会社を始めて3年で既に2000人程度5か所で年商3億円、純益5000万円のスクールを抱えて悦に入っていた。僕の考えが正しい事は、コーチ連中よりもテニス経験が乏しい僕がコーチとして1番人気だった事が証明していた。この勢いで当時、世界で一番著名なテニスキャンプ、ハリ―ホップマンテニスキャンプ行ってブロークンイングリッシュを駆使して交渉し、その名前を拝借して、関東圏にテニススクールを拡大しようと野心に燃えて5日のスクール生としてホップマンキャンプに意気揚々と乗り込んだ。

その考えは、キャンプ初日にテニスコートに立った時点に見事に打ち砕かれた。まず、キャンプに参加しているスクール生は僕が抱える調子のいいテニスボーイ達のレベルではなく、世界から選りすぐられた精鋭たちばかりで、僕のジョークやパフォーマンスは全く通用しない。 その上、キャンプ参加者全員に少しばかりラリーを行わせた時点で、僕は隅っこのコートで1人サーブの練習と壁打ちをする様に仰せつかった。この厳しい僕にとって惨めな差配をしたのはホップマン氏ではなく若造のコーチだった事が余計にショックだった。ホップマン氏に会うどころではない。全く場違いな所に来てしまったと後悔しても5日間のキャンプ期間にどうしたらいいのだろうか? テニスキャンプは朝9時から昼の1時間休憩をはさんで午後4時迄延々と続く。フロリダ迄来て、ずっと壁打ちかよ! デイズニ―ワールドにでも遊びに行って時間を潰そうか!日本の30人のコーチ連中にはホップマンのTシャツでも土産に買って帰ってお茶を濁そうか? あーキャンプ費用12万円がもったいない! 思い悩んだ末に、僕は恥を忍んで僕のできる事を徹底して行うと腹を決めた。ホップマンキャンプの欠点はコート数が多くて練習後の整備が不十分なことに気がつぃていたからだ。テニスコートの面数は4種類の土のコート48面。朝7時からコートに入りブラッシングを含めたコート整備を行い、9時からは一人で徹底してサーブの練習と壁打ち。昼休みを挟んで4時迄同じ個人練習。4時からはコートを巡回して清掃とネットの整備。 優秀な選手でも練習後、きちんと整備出来ない選手たちも多く見かけた。これはレスリング部時代に体育会のテニスコート整備にN君も頭を悩ませ、僕が手伝ったのが生きて来た。

この繰り返しが4日続いた夕方、ホップマン氏がカートに乗って、この奇妙なスクール生が何者か見学に来た様だった。ホップマン氏も48面あるコートの整備には頭を痛めていた様だった。溝に落ちていたボールやペットボトルやマックの包装紙を籠いっぱいに一緒に拾って苦笑いしたものだ。そして『明日、センターコートに午後1時半に来い。俺がコーチをしてやる』とウィンクして立ち去って行った。そして翌日、全コーチと生徒の前で史上最強のコーチと史上最弱のコーチとが30分のラリーを行った。ホップマン氏が想像していた以上に僕は我流のテニスだが、ストロークとサーブは上手かった様だ(これは4日24時間一人で壁打ちとサーブ練習に明け暮れた成果だった)が、僕が苦手とするバックハンドを丁寧に指導してくれた。この特別個人レッスンは、他のスクール生やコーチ達にとって羨ましい時間でもあり、僕にとっては至福の時だった。その日の夜に、初めてタンパにあるレストランでゆっくり夕食を楽しんだ。それまでの4日間はコンビニで買ったサンドイッチで朝昼晩と一人で食事を済ませていた。(暑さと疲れと時間の無さでへとへとだった)。そして日本に帰る前日にホップマン氏の自宅に招かれ、奥さんのルーシーさんも交えて会食し様々な楽しい話をした。ホップマン氏はイタリアのボロ―ニアでテニスキャンプを行っている事。日本でもテニスキャンプが出来る場所を長谷川が見つけてきたら応援してあげると言ってくれた。僕は、日本でハリ―ホップマンテニスキャンプを行いたい事なぞ一言も言っていなかったのに、ホップマン氏は、この奇妙な日本人の考えを、おみ通しだった訳だ。

翌年春、僕から日本でのテニスキャンプの候補地の写真と事業計画をホップマン氏に届けにタンパに立ち寄った。この時は3日ほどキャンプに立ち寄ったが、コート整備は相変わらず不完全でホップマン氏の悩みの種だった。僕は初日に徹底してコート整備を行い、キャンプにいる50名のコーチ連中に日本文字の入ったTシャツをプレゼントした。練習の無い週末にボランテイアでバスをチャーターして、デイズニ―ワールドに数十名の生徒たちを連れて行って、すごく喜ばれた。テニスばかりしていると、こんな余興すら珍しかった様だ。爾後、ホップマンキャンプでは有償で週末にバスツアーを始めたと聞いている。

その年の9月に急にホップマン氏から電話がかかって来た。『今,ナリタ空港に居る。迎えに来い』という連絡だ。急遽大阪での予定をキャンセルして成田に向かって、その足でテニスキャンプ候補地に直行した。僕は飛行機代もギャラも何も出していない。ホップマン氏はオーストラリアからアメリカに帰る途中で日本に立ち寄った様だ。僕もホップマン氏の事が気になって居たし、ホップマン氏も僕の事が気になって居たみたいだ。日本庭球協会の面々も僕とホップマン氏との関係が理解できなかった様だ。金銭的な繋がりは全くなかった。敢えて言うなら、共通点は2人ともテニスが好きで完全主義者だった事だろうか。  

さて、ホップマン氏がアメリカに帰られ、僕はホップマン氏との約束のテニスキャンプを翌年開業すべく奔走していた。しかし同年12月27日ホップマン氏がテニスコート上で急死したという連絡が現地のコーチから入って来た。78歳だった。暫く涙が止まらなかった。

仕事も手につかず、ホップマン氏を思い出し僕とホップマン氏が繋がっている絵を描いた。心を落ち着かせてから、僕はホップマン氏の遺志を継いで翌年テニスキャンプを開業した。以降もタンパのホップマンキャンプからは精鋭のテニスコーチ3名が派遣されてきた。

何故かホップマン氏死後でも世界の4大トーナメント開催地に行けば、特別シートを準備して頂いていた。僕たちの夢。ホップマン氏と僕の夢。日本から世界に通用する選手を多数出そうという夢は、元、僕の部下だったS君に引き継がれている。

ハリ―ホップマン氏 
オーストラリア出身 1906年8月12日生まれ 1985年12月27日逝去
1950年~1967年の17年の間にオーストラリアデビスカップ監督として16回優勝
ケンローズオール ロッドレーバー等を擁する。奥さんのネールホップマンと組んでミックスダブルス全豪制覇 奥さんの死後 アメリカに移住 女優のルーシーさんと再婚
フロリダ タンパ サドルブロックでハリ―ホップマンテニスキャンプを開業。
ジョンマッケンロー、ゲルレイテス、ヤニックノア、カプリアテイ等を育てる。

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