たとえば、鮭なら死んでるし、
最初にそう思ったきっかけがなんだったのか、もう忘れてしまった。
いや、きっかけなんてなかった気もする。
長女を出産してわりとすぐ、まだ退院前だったかもしれないし、もう少し後だったかもしれない。
自分が子どもを産んだという事実に、ふと、
「そうか。私が鮭ならもう死んでるんだな。」
と思った。
「だから私が生きてることは素晴らしい」
とか、
「だから我が子の顔も見られない鮭はかわいそう」
とか、
「だから生きている私はがんばらなきゃ」
とか、
そういった感情や感想はなにもないままに、ただ、
「鮭なら死んでるんだな」
と思った。
それからもよく、たいていはあまり脈絡もなく、鮭のことを思い出した。
そのたびに、昔、NHKスペシャルかなにかで見た、息絶えてボロボロになって、川の流れに静かに揺られている産卵後の雌の鮭たちの姿が浮かぶ。
しかし、それでなにかを思うことは、やはりない。
鮭はただ事実として、その生態として、死んでいる。
鮭と私は違う。
私が鮭より幸せとも限らない。
でも、
もしかしたら、と考える。
もしかしたら、私の中のなにかが、あのとき鮭のように死んでしまったのかもしれない。
そして、それは私の心の中の、あの川のような場所で、ボロボロになりながら今も静かに揺蕩っているのかもしれない。
あるいは、それは単なるイメージで、私は変わらず100パーセントの私のままであるのかもしれない。
いずれにせよ、鮭の一生が幸せなものであるといいな、と願っている。
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