見出し画像

脳幹出血からの帰還 急性期 回想(1)

2019年06月03日 
バイクロア(自転車の運動会のようなもの)行って、出張を終えて月曜出社の朝、ここ最近は週末を実家で過ごすことも多く、この日も実家から元気?に出社する、会社の更衣室で着換え、ここで近くで着替えていた上司と挨拶。
後にこの上司から聞いたのが少し顔色が妙だったとのことだった。
予兆にめまいや吐き気がってみるけど、そんなのはなかったな。
着替えが終わり職場へ、朝礼までに各々の担当装置の“ウオームアップ”をして時間を待つ。
8時20分、朝礼が始まる。
ちょうどこの日はちょっと製作手順の大事なプレゼンテーションでもあった、制作資料に目を通して朝礼が始まる。
朝礼開始数分後、輪になって順に色々と報告事項を述べていく、その時に体の力が抜けてだらんと倒れる、声がかすかに聞こえる、「動かしたらアカン!」とか「救急車!」とか。
数分後だろう救急車が来て“シニアスタッフ”の方と共に滋賀の病院へ担ぎこまれた。
そのとき着ていた服は切り刻まれたようで、ストレッチャーから手術台に移された様子、なんかかろうじて意識がある。
でもそれからの意識はない。
それから覚醒するまでは夢を見ていたようだ、後日改めてワイアードのテキストを読むと、この“三途の川”の様子は脳の記憶整理“夢”と同じ原理の様なものだと・・・、どうりで自分の知ってるもので構成されている訳だ。


その時の夢は大きく3つ4つ見たかな、順不同だけどこんな感じ。、
・一つ目は実家のベッドに横たわっている、どうやら動けないにしても今ほどというわけではなさそう、ベッドからは見えるはずのない景色、近くにある森が見える。
物凄く低い窓だな・・・、しかも寝ながらにして外側がまる見えとは。
こんな感じで自分の見たことのある景色なんかが出てくるようだ。
実際の実家の寝室は当然すりガラス。
それにしてもベッドのある部屋で窓の外が見える・・・、何とも昔の映画的というか・・・。
これは自分の記憶でインパクトあった映像作品”ライフサイクルズ”の1シーンで黄金色の麦畑だったかな、そこを自転車が飛ぶシーン、それがでてきたのだろう。

・二つ目は実家の勝手口の板間の段で横たわっている、冷たくて気持ちいい。
これも多分担ぎ込まれて手術室が寒かったとかそんなのが理由かな。

・三つ目は実家のリビング、雨が降ってて実家の軽自動車である、これが誰が運転しているのかわからないが、「カリオストロの城」ばりに庭から畳の和室を砕いてリビングルームに侵入してくる(笑)。

・四つ目がそこからリビング~和室にかけて横たわっている自分が呼吸困難で苦しんでいる、そこへ、ドクターヘリがやってきて、「ある自転車選手の父が」が駆けつけ僕を助けたようだ。これはその自転車選手の人がシクロクロス会場でも会い、その人が救命関係と聞いていたからだ。

ワイアードにのってたテキストにもあったかも知れないがやはり自分の見たり聞いたりしたものが出てくるようだ。


https://wired.jp/2018/10/14/near-death-experiences-psychedelic/?utm_medium=social&utm_source=facebook&fbclid=IwAR1oikx9geTTi7AKQ0O2qP_mDR9B_-h96SbIyYn8o0e7Uo_-SaPnkHiISzo

ワイアードから



一週間ほど意識不明が続き、覚醒した時はかなり混濁していた、何しろ声も出ないし、息が出来ないみたいで人工呼吸器がつながれている。
近くの機器は時折精神状態によくなさそうな警告音が鳴り響く、これは自分の呼吸がダメな時に鳴るみたいだ、もちろん身体は動かない。
この時は右手もさほど動いてなかったかも。
 
意識がもう少しハッキリしてきた2週間後くらいだろうか、ここで両親から何があったか説明を詳しく聞く。

脳幹出血、それも橋と呼ばれる部位の出血で脳の信号を身体に伝達する大事な部位らしい。
生存率20%〜30%だって、改めて運がいい。
それ故に嚥下、呼吸、声、フィジカルが失われたけど、今後1ヶ月は要介護でかなり酷く、先生からはこのまま寝たきりかもとまで言われていたようだった。それほど橋の出血は脳幹出血でも外科的な手術も出来ず大変なのだそうだ。


橋といわれる部位で僕の場合は手術できない部位だったらしく、緊急でおこなったのは喉に呼吸のための気管切開を行い人工呼吸器をつなぐことしかできなかったらしく、脳幹出血自体の手術が出来なかったのは仕方がない。
そのかわりといっては何だが再発率は詰まった人よりかは出血の人の方が低い傾向らしい。

一生寝たきり「オムツ」のままかも、と言われたそうだ・・・。
命はとりとめたがその後が大変みたいだ。

橋の出血によりフィジカル機能を失い、横隔膜も動かないから息ができないからこの様に人工呼吸器がいるのだろう。
そして息ができないから、喉から気管切開カニューレを挿入してそこから呼吸、耳鼻関係の先生にこの執刀をしてもらい、後に今回の処置は脳の方は外科的治療ができないが、首に関しては気管切開カニューレ挿入、肥えていたがために喉の肉を削ぎ、予定よりだいぶ手こずったことを後から聞いた。
 
意識が回復したとは言っても、まだ人工呼吸器が必要でひっきりなしに「ピーピー」と鳴って看護師さんがよく来たものだ、それだけ安定してなかったのだろう。

数日後はそんな感じで過ぎていった、喉には呼吸の為のパイプ、当然食事もできないから鼻から胃へ直接チューブが入っていた、当然嚥下機能が著しく低下していて、舌の半分も麻痺しているみたいだから仕方がないといえば仕方ないが、鼻からチューブが胃へ入っていてそこから流動食が与えられた。
フルーツジュースの様なパックが2,3パック与えられた。

この時の口腔内の状態は今でも忘れられない、感覚的には歯の並び上下ではなく口の回り360度に歯が生えているような感覚、何とも言えない感じだった。

ここは腐れ縁ですね〜。
倒れたの巨匠から聞いて真っ先に駆けつけてくれたのがマリオ。

口腔ケアは塗り込むタイプの歯磨き(磨かないけど・・・)を看護師の方に塗り込んでもらう感じ、もう肉の塊、そんな言葉があってるのかもしれない。


“急性期”の病院はおおよそ1ヶ月しか居れず、この後はリハビリテーション病院に5ヶ月ほどお世話になることに。
滋賀の病院での1ヶ月も2週間目くらいからリハビリが入ってくる、これは動かして筋硬直させない(緩やかにする)のが目的のようだ。
身体に力がまだ入らないけど無理やりPTさんが起こしに来て車椅子に載せる、身体がまだベロベロの状態故に座っているのも一苦労だった。

 “急性期”は滋賀の病院でお世話になった、覚醒後に両親が友人(巨匠)に知らせてくれ、少し安定したころから知人たちが見舞いに訪ねてくれるように。
関西一円はもとより愛知から自転車で自走で来てくれた、Y、Oなどがそう。

自走帰宅の時に雨にふられたって書いてなかったっけ?。

和歌山や三重と遠いのに来てくれた友人もいる。看護師の人がこれだけ見舞いの多い患者さんは初めてといわれるくらいだった。
かなりの友人が本当に多く訪れてくれた、声が出ないのが残念でならない。まだこの頃は毎週体重測定するけどMAXの時からさほど落ちている感じでもないようだった。
栄養分をとるために食事はパックのフルーツジュースみたいなものは結構栄養補給には優秀な様だった補給食にいいかも(笑)。
2週間くらい掌のカバー、ミトン装着、赤ちゃんが顔をかいたりしないヤツみたいなの外してもらえなかってヤキモキしていたが、今思えばあれは正解なのだろう。
無意識に手で鼻に挿入された管とか首のホースを取ってしまうかもしれない。
意識は2週間くらいハッキリとはしていなかっただろうから。


ここでお笑いごとというか意識がハッキリしてない事がよくわかる事例がある。
倒れる数日前に実家に泊まっていた時に布団に潜り込みながら携帯でAmazon使ってショッピング。
「この素晴」の「めぐみん」の「ねんどろいど」っていうフィギュアをポチっとしてた、倒れてからそれが届き、親が僕に確認したけど、頼んだことも忘れてて知らないって答えた。
倒れた前後のことはこれからも覚醒した直後は結構あやふやのようだ、このポチったことはもう少し後で思い出していきます。
これが何故か海外発送だったがために「どっから送ってきたんだろう?」「自転車の部品か何か?」と家族内で少し騒ぎになる(笑)。


みんなへ連絡できたのは両親の機転だったのだろう。

僕が倒れたことを両親から聞いた「巨匠」・「トーイさん」が来てくれた、
つい先日に「巨匠」とはバイクロア信州にも一緒に行ったからそれは驚いたに違いない。

結構すぐの段階で僕の声が出せない事を聞いて、メッセージボードを作ってくれたのもこの直後だ、このメッセージボードがかなり優秀で、病院が持っているメッセージボードはA4、作って貰ったメッセージボードはB3(A3か?そんなおおきくないよね?)で厚紙に貼ってある。
指差しするには見舞ってる人がボードを持ち、僕が指さしていく、コレが非常に良い、かなりお世話になった。

巨匠謹製メッセージボード、めっちゃ重宝する。
 

滋賀の病院に入院して2週間目位に人工呼吸器が外れ、前途に記したようにリハビリ室へ連れて行ってもらい身体を少しでも動かす、毎日これが苦痛だった。
何しろ全く身体が動かないのである、後々わかることではあるが、半身麻痺とはいえ限りなく四肢麻痺に近いようである、それと意識不明の重体から目覚めた身体の重さが余計に身体をグラグラにしていたのだろう。

リハビリの時間は1時間くらい、車椅子に移され2階のリハビリ室へ、これとベッドでEMS(電気治療器)を行った、それくらい筋肉の衰えと麻痺による障害が大きいのだろう。
お風呂はこの頃週1回くらいだったか、数人がかりでストレッチャーに移し変えてもらい行った。
この病棟ではストレッチャーごとバスタブに入れる大きな部屋があった、このおかげで物凄く入浴は小柄な看護師さんでもスムーズだった。

この辺も滋賀の病院みたいなかなり大きいクラスの病院だからあった設備だったことを後々知ることになる。
 
ホントどれくらい多くの人が見舞いに来てくれただろう。
そんな中で今後かなり重要となってくるのが「巨匠」を通じて見舞いに来て下さった「S夫妻」だ、「S夫妻」は旦那さんが烏丸シクロクロスの時に脳梗塞で倒れられ、今や復帰してC1走られてる。
 
友人に東海関係が僕も少なくはないが「S夫妻」は「巨匠」が立ててくれたFacebookのページで呼びかけられているのを見て資料を作成してきてくださったのだ、たまたま僕の東海関係の知り合い(無論それ以外でも)と「巨匠」の知り合いで「S夫妻」とつながったのもよかったのかもしれない。
 
この時に両親がS夫妻に今後のことを聞いていたらしい。
聞けばかなり苦労されているみたい、後々自分も苦労していくのだがこの時はそんなことは気にもできない状態である。
今、色々と障害者関係のサポートしてくれている制度なんかを教えてもらったのもこの時だ。

「クーヤン夫妻」が来てくれた時にも車椅子に座って談笑室的なとこへ行ったがこの頃はまだお尻の筋肉もユルユルだったのか少しの間だったがかなり辛かった。

この写真に掲載された部屋はナースセンター前の4人部屋、みんなが来てくれるまではICUの1人部屋で様態も芳しくなかったっけ。

この1か月でかなりの友達が本当に来てくれた、写真はないけどまだ沢山の友達が見舞ってくれて感謝である。
当然声が出てないから、ボードを使ってのコミュニケーションだった、しかも右側も麻痺の影響で正確さがこの頃は低かったから、指差しも結構乏しかったのではなかっただろうか。
それにしてもこの頃は、見事に力がなかったな。
まず、左半身麻痺でも四肢麻痺に近いのと身体全体にがほとんど動かないのと掲載している写真を見ればわかるが、目が虚ろである。
視点が定まっていないというか、自分では話してる相手を見てるつもりだがずれて見ている感じだが、本人はちゃんと見ている自覚はあったと自負しているのだが・・・。

それにしてもこの頃はよく肥えている、倒れた時の体重が95キロ、これが後々凄いことに。

滋賀の病院では3週間目くらいに部屋にテレビを置いてもらった、バラエティー番組観て少し笑えるくらいにはなれてきた。
それまではずっと天井ばかりを見ていた、「時間がめっちゃ長い」、「手のミトンが邪魔、自分はそんなにかきむしらない」とよく思ったものだ。

この頃は何度もCTを撮った、その度に4人ほどでストレッチャーに移してもらい、1階のCT室へ行ったものだ。

4人がかりで

今思えば何故CTなのかMRIではなかったのか?、これだけの回数ならホントはMRIの方がよさそうだが、考えてみると自分の場合は脳幹出血で出来るだけ超音波などの共振周波数などは避けたほうが良さそうなのだからではないだろうか?、それなら納得できる。

滋賀の病院では結構手を焼いた方ではないかな、夜中の喉の痰とってもらったり、心拍が安定しなかったり。
みんなが来てくれる前は結構大変だった。
この後もそうだけど。
そんな感じの滋賀の病院ではあるが急性期の病院故に滞在できるのは1か月、この次の事を早急に決めていかなければならない。
自分では何もわからず、親に任せっぱなしだ。
両親はいろんなリハビリ病院に下見に行ってくれた。
当然滋賀のリハビリテーション病院をメインに回ってもらった様だが、母曰く「年配者ばかりで、若い人が少ない、雰囲気が暗い」って感じだそうだ。
そこで京都のリハビリテーション病院を見ることにしたそうだ。


こうやって見返すと目がイッてる。

いいなと思ったら応援しよう!