死にゆく僕はなぜ生きる。
たまに、こんなことを考える。
別に心が病んでるわけではないし、むしろ頭の回転がいい日にこういう思考に陥ることが多い。
父親が身体障害者で母親が看護師。ふたりの死生観が結構独特で、それにあてられて僕も「いつか死ぬ」ことを素直に受け入れている。
最近は両親の提案で年に一度、家族写真を撮る。理由は「遺影に使えるから」。照れ隠しだとは思うけど、父72歳、母61歳なので遠くない未来にふたりも死ぬ。
僕も死ぬ。今日かもしれないし、100年後かもしれない。あと80年は生きていたいけど、それは誰にもわからない。だから今日死んでも納得できるように生きてるし、死に対する恐怖はあれど嫌悪感は一切ない。遅かれ早かれって感じ。
じゃあなんで今日を生きるのか?
僕は猫のために生きる。
すこし哲学的な話になっちゃうけど、お付き合いを。
仮に自分の幸せのために生きるとする。タワマンに住んで高級車に乗って綺麗なお姉さんとお酒飲んで。逆に、山奥にこもって動物たちと触れ合いながら朽ちていく。どちらも幸せだろうし羨ましいけど、ちょっと立ち止まった考える。
その幸せを認識するのは自分だよな、と。とすれば、主体も客体も自分。そして自分はいつか死ぬ。ここまで考えて「約分できちゃうなー」って思うんです。悲しいけど。
自分を幸せにするために自分が働いて、時間と労力と地球の資源だけが消費されていく。その循環って、なくても同じじゃない?って。
だから、価値を自分の外に置いてる僕は。自分が生きる意味を他者に委ねることで、自分の一生をかけて「誰かの幸せ」を残す。それが僕にとっては猫であって、僕の依存先でもある。
以上、公開メモでした。
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