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「古事記」に触れてアボリジナルの民を想う
記憶を保存するのが、子供の頃から好きでした。
カーステから流れる曲(特に洋楽)の収録アルバム名、ミュージシャン名、曲名。
漫画の作家名、作品名、セリフやシーン。
お気に入りの駄菓子屋さんやそこに通じる道。
学校ではやった友達の口癖。
海水浴場のお気に入りのテトラポッドの位置。
いつも大きなザリガニがいる沼のスポット。
などなど。
「楽しかった記憶」は、何度も再現したいから。
だから、すぐに再生できる形にしておきたかった。
もちろん100%の再現は期待していない。
ただ、思い出すきっかけのようなものがないと、いつの間にか忘れ去ってしまう。
だから記憶を引き出す「きっかけ」みたいな形で残すようにしてきた。
それは、音楽だったり、絵だったり、写真だったり・・・
これらは、記憶の断片だったり、抽象性であったり、ぼんやりとしているからこそ、思い出させてくれる感じがいいのだ。
だって、正確さにこだわると、記憶がうまく作動しないことがありませんか?
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なので、過去の楽しい思い出は、ぼんやりした感じで手繰り寄せて、そこから新しい記憶と再構築していくのも、またよしみたいな。
そうやって、再生と変性を繰り返して保存していく記憶が、「自分の歴史」になっていくのもありなのかなって
最近思うのです(丸くなりましたね)
さて、オーストラリアの先住民アボリジナルの民は、
基本的に「語り」によって記憶をつないできたと言われています。
いわゆる口伝、や、口承伝承ですね。
どうして、アボリジニーは記憶保存として「口承」を選んだのか。
なぜ世界的潮流である(現時点では)「文書」として保存してこなかったのか。
最初はそう思いました。
でも、
「書き言葉では、自分たちの世界観を表現できないからではないか」
と思うようになったし、更につっこんで、
「そもそも、自分たちの世界観は言葉(音)で表現してきた」
と考えるようになりました。
自分にもそういうところあります。
「楽しい時間」を表現する時、「書く」より、
ビジュアル(絵・写真)、サウンド(音楽や話し言葉)、香りや触感、つまり五感を刺激する表現を、多様に試みると思います。
それはわりと自然な流れですね。
言葉で(のみ)表現しようとすると、むしろ、どんどん遠のく気がするのです。
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さて、YOUTUBEで100分で名著「古事記」という番組を見ました(ずいぶん前に)
あらためて、「古事記」の創造的で、かつ現代日本に影響を与えているストーリーのクオリティに驚かされました。
で、思い出したのが、日本昔話。
子供の頃は、真剣に聞いていたものです。
でも小学生になり、社会の授業で「歴史」というものを知りだすころから、
昔話は単なる「創作」、つまり「作り物」と考えるようになりました。
今思うと、なんか悲しかった。急に色褪せていくように感じた。
だって、昔話は「創作」ではなかった。
もっともっとリアルに色めいて、響いていた。
アニミズム(すべてのものの中に 霊魂 、もしくは 霊 が宿っているという考え方)の考えを持つアボリジナルの民の世界観は、
同じく自然の中に神が宿ると考える古事記、昔話に、共感できる点が多いのではないかと思うのです。
いつか、アボリジナルの方々と、天の岩戸物語や浦島太郎などを通して、お互いの歴史観をお話しできたら面白いだろうなぁと思っています。
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