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あらためて、サリンジャー
ドストエフスキー、カフカ、カミュと並んで、サリンジャーはいつか向き合うべき作家だと思っていた。しかし、最初に『ライ麦畑でつかまえて』や『フラニーとズーイ』を読んだ際、筋が明確ではなく、また、当時は読みにくさ、とっかかりにくさゆえ、深く響くことなく放置していた。
その後、深い思考が必要な哲学や心理学の本を読むようになり、戦争や近代アメリカの問題に興味を持ち始めたことをきっかけに、再びサリンジャーの作品に向き合おうと思った。きっかけは、クラブイベントでサリンジャーに心酔していた若い女性と話していて、その魅力を熱意を持って切々と聞かされたことだった。
彼女は無意識ながらアイデンティティーについての野望と課題を抱えているように感じられ、サリンジャー作品にその応えがあるように思われた。そうしたことから、世代を超えて受け容れられ、評価される彼の作品の核心に迫りたいと思うようになった
『キャッチャーキャッチャー・インザ・ライ』再発見
「本当にいい本ってのは、読み終わったあと、著者がすごく親しい友達で、自分が電話かければいつでも話せそうな気がしてくる本なんだ。」
再読は村上春樹の翻訳『キャッチャーキャッチャー・インザ・ライ』を手することにした。作中で主人公ホールデン・コールフィールドホールデンは語った。
この言葉は、ホールデン自身が抱える孤独感と、他者とのつながりを求める心情を象徴している。彼は親しい友人や家族に対しても本音が明かすことができない一方で、本を通じて著者、書き手に心を開いている。「心を開く相手はどこにも居ないけれど、誰かを求めている」という矛盾した心境は、ホールデンの内面そのものであり、そうした矛盾や欠如の感覚は僕の中にも存在する。
物語の中盤でホールデンが妹フィービーと話す場面で、作品のタイトル「キャッチャーキャッチャー・インザ・ライ」という言葉の核心が語られる。彼は「ライ麦畑で子どもたちが崖から落ちないように捕まえる役割を果たしたい」のだと。
「俺ってのは、崖っぷちで捕まえ屋をやってるんだと思うんだ。ライ麦畑でね。子どもたちがどんどん走ってきて、俺が崖のそばに立っててさ、もし誰かが崖の方に行きそうになったら、俺が捕まえるんだ。」
ホールデンの反抗心や社会への不満が根底にある一方で、無垢で純粋な子どもたち(若者、あるいは読者)を守りたいという彼の優しさや使命感を吐露している。大人社会への不信感と無垢さへの憧れが交錯する中で、その言葉には深い孤独感と救済の願望が込められているようだ。
ホールデンの視点から世界を見ると、彼が拒絶する「大人の世界」は虚偽と偽善に満ちており、その中で孤立する彼の姿がより際立って見えてくる。再読を通じて、ホールデンが著者に加えて、「たち読者」にも自分の本心を語っているいるように読めてきたのだ。彼にとって「私たち」は唯一信頼できる存在であり、彼の孤独を共有できる仲間であり、世界に対して抵抗する正しき共犯者なのだ。
『フラニーとズーイ』の深層
『フラニーとズーイ』についても、再読でやっとその核心に触れられた。この作品では、グラス家の末っ子であるフラニーが自己の迷いと向き合い、兄のズーイが彼女を導こうとする物語が展開される。最初に読んだ際には、彼らの会話が抽象的でとりとめがなく感じられたが、再読で気付いたのはその言葉の奥に潜んでいた普遍的なテーマだ。
たとえば、フラニーが繰り返し唱える「イエスの祈り」についての描写は、彼女の自己否定感や精神的な疲弊を象徴している。
「これはただの祈りじゃないの。ただの言葉でもないわ。それはもっと…もっと深いの。」
フラニーは祈りを通じて内面的な救済を求めているが、その根底には現代社会の表面的な価値観への反発が横たわっている。グラス家の兄妹であるズーイとフラニーは、サリンジャー作品の中でしばしば描かれるように、知的であるがゆえに社会や自己と葛藤を抱え続ける存在だ。その中でズーイがフラニーに語る『舞台で演じる理由』のエピソードは、フラニーだけでなく現代を生きる読者にも示唆を与えるものだ。
「お前が舞台に立つのは、ただ観客に見せびらかすためじゃない。お前がやることには、もっと大きな意味があるんだ。それは、神の目にかなうように全力を尽くすことだよ。」(野崎孝訳)
ズーイのこの言葉は、フラニーが直面している「自己の存在意義」という問題に対する答えを提示している。同時にそれは、ズーイ自身の矜持であり、現代人にとっても共通する、自己の内面と外界との葛藤を解消するヒントなのだろう。
サリンジャー作品の魅力の核心
これらのシーンを通じて再発見したのは、サリンジャーが描くテーマの普遍性だ。『ライ麦畑でつかまえて』で描かれる孤独や反抗、純粋さへの憧れは、若者の成長過程で必ず直面する問題であり、『フラニーとズーイ』の兄妹が語る言説は、自己探求と救済というテーマを深く掘り下げている。
また、サリンジャーの作品は、時代や国境を超えて読む者の心に響き続けている。それは、彼が描く「孤独」と「共感」というテーマが、どの世代にとっても避けられない普遍的な問題だからだ。サリンジャーを読むことで、読者は自らの中に眠る思春期の葛藤や迷い、未解決の感情に向き合わざるを得なくなる。
そして、その結果として、サリンジャー自身が隠棲を選び、作品への解説を加えることを拒んだのは、読者一人ひとりとダイレクトに個別に向き合い、作品の中で直接対話することを望んだからだろう。
こうした視点で改めて彼の作品に触れると、サリンジャーが生み出した「特別な空間」に私たちが招き入れられていることを強く実感する。それは、世代や国境を超え、読者にとって深い意味を持つ普遍的な空間なのである。
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