身に覚えのない交通系IC - 『雨月先生は催眠術を使いたくない』スピンオフSS
(ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください)
有楽町線・桜田門駅というのは、名前の華やかさとはうらはらに、あまり存在感のない駅である。
日本の中枢、官公庁舎が集められたこの場所には、千代田線・丸ノ内線・日比谷線が乗り入れる絶対王者の霞が関駅があり、わざわざ乗り換えがだるい有楽町線に乗る理由があまりない。
それは、桜田門と呼ばれる警視庁本部に出勤する者も例外ではなく、捜査二課の刑事である不破修平も、当然のごとく霞が関駅ユーザーであった。
これからもずっと、霞が関を使うと思っていた。
なんで俺はいま、クソだる有楽町線に乗っているんだ……?
不破は深いため息をつき、地下鉄の黒いガラスに映った自分の顔を見た――我ながら、覇気のない顔だと思う。
事の発端は、今朝、四月一日午前九時に送られてきたメールだった。
「クソ……ふざけんなよマジで……あとでシメるあとでシメる……」
警察官にあるまじき呪詛を口の中で繰り返しながら、つり革の輪にかけた手を強く握る。
たった四行のメールで回避不能の呼び出しを寄越した謎の人物『Z』――どう考えても該当者はひとりだった。
警察庁特別捜査官の、アレ。
大変不本意ながら、警察庁は国家機関であり、警視庁刑事という東京都の地方公務員が、その呼び出しを無視するわけにはいかない。
ガンダムとは、お台場にあるユニコーンガンダムの立像のことであろう。ならば、お台場に行かなければならない。
お台場へ行くには、りんかい線に乗らなければならない。
りんかい線に乗るには、新木場駅で乗り換えなければならない。
新木場駅で乗り換えるには、桜田門駅から有楽町線で向かうしかない。
……という経緯で、午前九時二十六分現在、クソだる有楽町線に揺られている。
アレの存在は警察内でも極秘事項なので、上長に事情の説明をすることもできず、不破は新年度の出勤早々『市民から通報があった』という苦しすぎる言い訳(という名の真っ赤な嘘)を口にする羽目になったのだった。
東京湾の埋立地エリアを結ぶ、りんかい線に揺られ、東京テレポート駅に降り立つと、空は雲ひとつない晴天だった。
味気ないビルだらけの霞が関と違って、ここは空が開けているから、春の陽気を感じられる。
少しだけ気を取り直して巨大ロボットを目指して歩いていると、遠目にも分かる派手な金髪の男が、腕組みをしながら広場を見つめていた。
不破は不機嫌を全身で表現しながら、詰め寄るように一直線に向かう。
「おい、あんなメール寄越してなんのつもりだ」
真正面で足を止めると、深緑色のMA-1に身を包んだ男は、いけ好かない笑顔を向けた。
「久しぶりだね、不破警部補」
有島残月。不破にとって唯一無二の親友である有島雨月の、双子の兄。
「あいさつは要らねえ。用件を言え。応援ってなんだ」
「出向だよ。書いたじゃん、任期は半年って」
「はあ? そんな辞令出てねえぞ」
「君にはきょうから半年間、警察庁に出向してもらいます。でも、本庁舎に勤めるわけじゃないよ。俺と一緒に、ヤバイ事件を追う」
「だから聞いてねえって。いくらお前でも、人事権は握ってないだろ。勝手なこと抜かすな」
不破はイライラした内心を隠すこともなく、もう一歩距離を詰める。
しかし残月はその態度にも意を介さない様子で、余裕の笑みを浮かべながら言った。
「俺は警察の秘蔵っ子だからね。基本単独行動で、公安とは別ルートで激ヤバ案件を任されたりするんだけど……今回はちょっとひとりでは手に負えなさそうでさ。誰かひとりつけてもらえませんかって上に聞いたら、好きに選んでいいって言われたんで、信頼に厚く仕事熱心でガタイも実績も申し分ない、警視庁捜査二課の不破修平殿にお願いすることにしたわけ。聞いたよ? 君、捜査二課に異動早々検挙率があまりに高いんで、反社のスパイ疑惑かけられたんだって?」
「うるせえ」
この件は不破にとって、ただの黒歴史である。
「まあさ、勉強だと思って付き合ってよ。半年なんてすぐすぐ。フェイクの新居も用意したんで」
手品のように残月の手元に現れたのは、東京テレポート駅と桜田門駅を結ぶ定期券だった。
付き合ってよ、なんて白々しい。こんなのはお願いでもなんでもなく、外堀を埋め済みの回避不能な決定事項である。
「……何をやらされるんだ、俺は。さっちょーの特別捜査官様直々のご指名なんて光栄極まりねえから、先に教えろ」
「いやあ。とりあえずさ、海を見に行こうよ。ド平日の朝からこんな眺めの良い場所に来るなんて、東京都の地方公務員として馬車馬のごとく働く警視庁捜査二課の刑事さんには、なかなか無いイベントじゃない?」
殴りかけた手をとっさに引っ込めた自分は、だいぶ大人になったと思う。
数分歩いて、お台場海浜公園に着いた。
砂浜が見えるベンチに座るまでの間、不破は一度も口を開かなかった。
横を歩く残月はヘラヘラした様子で話を振ってきて、不破が一切返事をしないにもかかわらず、ひとりで雑談を続けていた。
ベンチに腰掛けると、小さな子供を追いかけまわす母親が目に入った。残月は目を細め、愉快そうにその様子を眺めながら言った。
「まー、結論から先に言うと、出向は嘘ね」
「は!?」
「そのくらいの規模の嘘をつかないと、来てくれないと思ったから。まあ、不破くんと一緒に仕事をしてみたいのはほんとだけど」
残月はスマホを取り出し、ロック画面を不破に見せた。4月1日の日付を、爪の先でコンコンと叩く。
「エイプリルフールってことで、許してよ」
いたずらっ子のように舌を出す表情は全く違うはずなのに、こんなふうに全く素直ではないやり方で呼び出してくるところには、血を分けた双子の要素を感じた。
「出向をするのは、俺です。半年間、某国へ」
「ほう。そりゃご苦労なことで」
「ネットもろくに使えないところだから、俺の毎朝ルーティンである雨月の生存確認もできなくなっちゃう」
「なんだその気色悪いルーティンは」
「三井実くんのSNSを見る。楽しそうなゼミの様子を見ると、ちゃんと先生してるんだなって、安心するわけ。でもそれができなくなる」
ちょこっと首をかしげて目を合わせてきた残月の表情は、笑顔でありながら、どこか寂しげな色が滲んでいるようにも見えた。
「不破くん、雨月をよろしくね」
「……んなこたぁ、お前にわざわざ言われなくても」
「うん。分かってる。分かってるよ。でも、出発する前にどうしても君にお願いしたくて……なんか、センチメンタルになってるのかな。こんな気持ちになることなんて、滅多にないんだけど」
本人に直接言えばいいだろ、という言葉は飲み込んだ。
そして、ぎこちなく訊く。
「……そんな危ねえ仕事なの? こんな、遺言みたいなもん。託さないと行けないような?」
不破の問いに、残月は苦笑いを浮かべながら答えた。
「危ないかどうかは、行ってみないと分からないな。なにせ、一見万能な俺たちの能力には、いくつもの欠陥がある。相手の母国語を知らなければ、引き出した記憶がなんなのかも理解できないし、記憶を消す技も使えない。人間の記憶は、言語と深く結びついている。そして残念なことに、今回の出向先は、十二カ国語をネイティブレベルでしゃべれる頭脳明晰な俺をもってしても、全くかすりもしない独特の言語を話すんでね。伝家の宝刀が抜けない場合、俺の任務はシンプルに、一般的な捜査員としての技量のみで遂行することになる」
「ま、平気だろ。お前なら」
不破が短く答えると、残月は空を仰ぎなから笑った。
「雨月は、君のそういうところを気に入ったんだろうなあ。無根拠に励ましてくれるのって、居心地がいい」
残月はさっと立ち上がり、不破を見下ろしたまま、指を立てた。
「君は、有島残月が半年ほど出向することを知らない」
「……ってめぇ、ふざっけんな……」
言いながら、視界がぼやける。
ふらつく頭がガクリと落ち、次に見上げたときには、そこに誰も居なかった。
「すんません。遅刻じゃなくて。市民から通報があってお台場にいたんですけど」
「一度出勤したことは分かっているよ。でも、朝の申し送りをすっぽかして、誰と、なんの話をしてきたんだ?」
「あー……まあ、なんすかね。緊急性が高いと思ったんで、慌てて有楽町線に乗ったんすけど、誰もいなかったんで。普通にだまされました」
人がもっともらしい嘘をつくには、事実を少し混ぜるといいらしい。
「緊急性とは?」
「なんでかは思い出せないんすけど、半年くらいはかかりそうな、なんか」
おぼろげな記憶に残っているのは、ガンダムの足元で、誰かにいけすかない笑顔を向けられたこと。
砂浜に向かって歩くその横で、誰かが、聞いてもいないひとり言をずっとしゃべっていたこと。
そして、雨月をよろしくと託されたこと。
「すんません。気をつけます」
不破は雑に謝って、デスクに戻った。
PCを立ち上げると、送り主不明のメールが一番上にある。
読んだ記憶はないが、これが残月からのメールだと確信して、お台場に向かったことは分かる。
おそらく、うさんくさい笑顔を浮かべていた奴が残月だったのだろうということも、まあ分かる。
しかし、なぜ今朝の自分が、しばらく桜田門駅ユーザーになると覚悟したのか。
それだけが思い出せない。
胸ポケットを探って出てきた、なにも印字されていないSuica――これが何を意味するのかを思い出せる日は、来るのだろうか。
(了)
本編はこちら↓
『雨月先生は催眠術を使いたくない』