絶筆

お題:キス 枷 花嫁 制限時間:1時間

 あなたはいま、書斎にいます。
 作りつけの書棚にはぎっしりと、文学全集や豪華な装丁が施された本が詰まっており、天井にぶら下がった瀟洒なシャンデリアが室内を照らしています。
 あなたの右手に握られている世界的文学賞のトロフィーは、ぼたぼたと鮮血を滴らせています。
 そう、編集者であるあなたは、目の前の作家を殴って殺害してしまったのです。



 事の始まりは、いまから三時間ほど前の夕方四時すぎ。
 あなたは、大御所ミステリ作家の原雲井丈造氏からの電話が取れませんでした。
 会議を終えスマホを見ると、原雲井氏からの着信が五件も入っていて、こんなことは初めてだったので、大層驚きました。
 急いで折り返すも、原雲井氏が電話を取ることはなく、留守番電話サービスに繋がってしまいます。
 あなたは手短に、電話が取れなかった謝罪と、一時間後にまた掛け直す旨を告げて、電話を切りました。
 そしてきっかり一時間後に掛け直すのですが、また不在。
 なんだか嫌な胸騒ぎを覚えたあなたは、原雲井氏の自宅へ赴きます。

 原雲井丈造は、作家歴五十年、八十二歳のベテランです。
 大御所でありながら気取ったり偉ぶったりは決してしない、謙虚な人物。
 若手の後進を育成するために講演を精力的にこなし、新しいデジタルツールも進んで取り入れるので、連絡も原稿もメールでやりとりします。
 そして、親子ほど年が離れた若い編集者であるあなたにも、対等に接するのです。
 ――年も歴も関係ないから、遠慮せずに、編集のプロとして思ったことはなんでも指摘してほしい
 初めての顔合わせ、簡易なホッチキス留めの原稿を受け取りながら言われたこの言葉に、あなたは勇気づけられ、ここまで仕事を頑張ってきました。

 満員の特急電車に乗り込み、窓際でぎゅうぎゅうと押しつぶされながら目をつむると、どうしても不穏なことばかり考えてしまいます。
 御年八十二歳、快活な人物ではありますが、やはり年齢のことを思うと、体調に何かあったのではないかという心配が頭を占めます。
 つい先月上梓した『仮首の花嫁』は六百頁超えの大作で、執筆期間一年半のうち、過労により三回ほどドクターストップがかかりました。
 原雲井氏本人は、休養中も書きたいとよくメールを送ってきていて、あなたも本当は一読者として早く読みたい気持ちでしたが、心を鬼にして、休んでくださいとそっけなく返事をしたのでした。

 会社を出て約一時間後。あなたは千葉県にある原雲井氏の自宅の前にたどり着きます。
 山の中に建つ立派な洋館。
 門扉の横に据付のインターホンを鳴らしてみるも、応答はありません。
 あなたは焦って門を開け、手入れされた芝生を突っ切るように、玄関に向かって一直線に走ります。
 玄関横のインターホンを押しても応答なし。ドアノブを引くと、なんと、鍵がかかっていないではありませんか。
 あなたは「先生! 先生!」と叫びながら、広い家の中を走ります。
 一階の部屋を全て覗いても、原雲井氏の姿はありません。
 二階もひと部屋ずつ見ていきますが、やはり居ない。
 残すは書斎――いや、本当は最初から書斎だろうと、あなたは思っていました。
 だって原雲井氏は、生活のほとんどを書斎での執筆に充てているのだから。

 書斎の扉を開くと、部屋の電気はついていました。
 ドアから真正面の位置にある大きなデスクには、パソコンの周りに本が山積みにされています。
 これはいつもの風景……ですが、奇妙なことに、革張りの椅子が、こちらに背を向けるように回転しています。
 あなたは小さく「先生」と口にします。しかし、返事はありません。
 嫌な汗を拭いながらデスクの向こう側へ回ると、なんと、原雲井氏が、椅子からずり落ちるようにぐったりしていました。
 顔はすっかり血色を失っており、目の焦点が合っていない。呼吸はゼェヒュゥという雑音が混じり、口の端から少し泡を噴いている。
 肘掛けに腕が引っかかっているせいで、体の半分が中途半端に椅子の座面に乗ってしまっているような状態です。
 あなたは大声で原雲井氏の名前を呼びながら、体を持ち上げようとします。

 ……しかし、そこで。
 あなたの目の端に、パソコンの画面に映し出された、書きかけの原稿が映ります。

  「君の足枷になりたくないから、もう別れよう」
  「いや! お父さんなんて、お母さんなんて、どうでもいいの! あなたがいれば!」

 あなたは、持ち上げかけていた原雲井氏の体を放しました。
 ドサリと音を立てて、老体が赤い絨毯の上に転がります。
 稀代の大作家は相変わらず雑音の混じった呼吸を繰り返しているだけで、もはや言葉を発することはできないようです。
 あなたはパソコンのキーボードにそっと手を添え、デリートキーを長押ししました。
 駆け落ち直前の男女のセリフが消えていきます。
 ずっと押していると、一段、二段と、行が消えていく。
 あなたはその様を見守りながら、書きかけの作品を逆再生で読み続けます。
 そして、最後まで消し切ったところで、あなたは決めました。
 ふたりで作った『仮首の花嫁』を、原雲井丈造の"遺作"にしよう……と。
 あなたは、ガラスのショーケースの中に入っていたトロフィーを手に取ります。
 そして躊躇いなく、原雲井氏の頭に叩きつけました。



 あなたは書斎の灯りを消し、裏庭に出ました。
 元々は貧しい家庭に育ったという原雲井氏は、十年ほど前に世界的文学賞を獲ったのを期にこの洋館を買いました。
 それも決して財力を見せつけるためではなく、『推理小説に出てくるようなクラシカルな書斎を、金欠の青春時代を送った若き日の自分に贈ろうと思った』――笑顔で雑誌のインタビューに答える写真をあなたも見て、じんわりと胸が熱くなったのでした。

 偉大なる大作家、あなたの永遠の憧れである原雲井丈造の"未完の遺作"が、あんな陳腐なセリフの羅列であってはいけない。
 本当は、あのひとにはもう、物語を書く力は残っていなかった。
 それを見抜けず書かせ続けた自分が一番の罪人なのだと、あなたはもう理解しています。

 あなたは敷地の端にある倉庫を開け、灯油のタンクを建物に向かってぶちまけ、自分の体にもかけます。
 そう、原雲井丈造の絶筆は、あなたひとりが見届ければいいですね。
 ジャケットの内ポケットから、ライターを取り出します。
 そう。あなたはそれを堅く握りしめ、小さなホイールを回せばいいのです。

(了)

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