もらわずに済んでいたら

制限時間:1時間 お題:嘘 聖人 毛布

「ただ幸せになりたかっただけなのにな」
 彼はそう言って笑いながら、引き金を引いた。
 パンという乾いた発泡音と、噴き出した血液が砂利の上に飛び散る音がして、その少しあとに、彼の体がドサリと倒れた。
 舞い上がる砂ぼこりが、彼の皮膚を無遠慮に汚す。
 潔癖症の彼は、生きていたらきっと、こんなことを許さない。
 ペシとも払わないのを見て、『ああ、彼は死んだのだ』と思った。

 私が彼と出会ったのは、二年前の夏。
 当時付き合っていた元彼と別れ話をした、その帰り道だった。
 嘘まみれの三股交際、しかも私は本命ではなく、このままでは『本当の本命彼女』に慰謝料を請求されるとかなんとか……。
 既婚者じゃあるまいしそんなわけはなく、また嘘かと思ったが、もうその嘘を指摘するほどの気力もなかった。
 はいはいと言ってサンマルクカフェを出て、夕焼けを見て少しだけ泣いた。
 インスタのストーリーに嫌味のひとつでも書いてやりたくて、その背景に敷くための、とびきり美しい空を撮ろうとしていた。

 プラタナスの樹からカラスが飛び立った、その絶好のシャッターチャンスを遮ったのが、彼だった。
 ファーストインプレッションを自覚する間もなく、この世の美貌の全てを集めたみたいな男の横顔が撮れてしまって、愕然とした。
 ぼーっとする私に、彼は笑顔で、「その写真を買い取る」と言った。
 金を払うから消してくれという意味だと気づいたときには、もう手を握られていた。
 彼の手は氷のように冷たくて、真夏のサンセットに全くふさわしくなく、ロマンチックでもなかったので、私は無料で写真を消した。
 あのときの彼の、私の目を見つめるその眼差しが、まるで奇跡の聖人を見ているかのようだったのはなぜなか、そのときは分からなかった。
 私は不要な写真を消しただけだった。
 それなのに彼は、「君と生きていきたい」と言った。当然ながら断った。
 彼の死体を見下ろしているいまなら分かる。
 金銭的対価無しに何かをお願いすることができない人生を歩んでいたのだろうな。

 彼はたまに私の家に来て、一緒に夕食をとったり、ネットフリックスをだらだら見たりするような仲になっていた。
 あまりにも顔が美しすぎて、私は彼を恋愛対象として捉えることができず――人間なのかも怪しんでいたくらいだ――彼は彼で、私の髪に触れようとするたびに、ハッと手を引っ込めて、財布を取り出そうとしていた。
 千円札をピラリと渡そうとしてきても、当然私は受け取らないので、彼が私の髪に触れることはなく、男女がワンルームの部屋でひと晩を過ごすということを二年も続けながら、肉体的な接触は一切なかった。

 一度だけ、私が先に寝てしまった日に、彼が私のベッドサイドまで来たことがある。
 いつも壁の方を向いて横向きに寝ている私は、背後に気配を感じて目を覚ました。
 彼は黙って立っていて、私が起きているとは気づかなかったのか、毛布の上から、肩のあたりを指でちょんちょんと叩いた。
 私は寝たふりを続けた。
 彼はベッドサイドにアルファベットチョコを置いて、アパートを出て行った。
 カーテンの隙間から入ってくる白い街路灯に照らされて、その表面に、私のイニシャルであるRが刻まれていることに気づいた。
 ビニールの包みを左右に引っ張ると、くるりとチョコレートが回転して――私が彼から対価を受け取ったのは、これきりだった。
 寝起きのチョコは、舌や歯にねっとりと絡みついた。

 先月、突然彼が、もうすぐ殺されるのだと言い出した。
 組織に狙われていて、重大な秘密を知ってしまったため、自分は消されるのだという。
 その言いぶりがあまりにもネトフリのB級映画すぎたので、私は笑い飛ばした。
 元々あまり人間味のないひとだから、いつか宇宙人だとか言い出しても不思議はないと思っていたし。
 世界中のどの俳優よりも美しいであろう彼の赤い唇から紡ぎ出される言葉は、どれもフィクションめいていた。
 しかしその後よーく聞いたら、組織はただの暴力団で、彼は友達の口車に乗せられて銀行口座を売ってしまい、二度と日本中の銀行で口座開設できない人生詰んでるだけの男だということが分かった。
 顔が紛らわしいと言って怒った。
 彼の顔が中の下だったら、あんなに懇切丁寧な説明を受けずとも、アホな大学生だと理解できたはずだ。
 無駄にドラマチックに出会うから。
 私は笑いながら、「あの写真、消さなければよかったな」と言った。
 オレンジと紫色が複雑に混じり合う空を背負い、背後ではカラスが飛び立つその写真は、きっと美しい彼の遺影にぴったりだったはずだ。

 そして今朝、彼は組織から運ぶよう命じられたジュラルミンケースを受け取った後、私を連れて逃げた。
 財布にありったけのお金で鈍行切符を買い、なるべく遠くの、もはや自分たちがどこにいるのかも分からないような田舎の駅で降りて、なるべく何もないところを目指して彷徨い――
 
 拳銃には、もう一回分の弾が残っている。
 私はこれを使って、後追いすべきなのだろうか?
 薬指にはまった、ちゃちな指輪を眺める。
 私は彼から、対価を受け取ってしまっている。

(了)

いいなと思ったら応援しよう!