作家犬と影武者の僕2 無知への焦燥
僕の飼い犬、フレンチブルドッグのぷうは、ミステリー作家だ。
ウェブ投稿サイトに細々と載せていた小説が注目されて、去年の春にデビュー。
僕はその影武者で、ぷうが犬だと知られないように、出版社へ行ったり書店にあいさつ回りをしている――気が弱いので、毎回胃が痛いのだけど。
ぷうが最近、やたらにむつかしい本を読んでいる。
初夏の日差しが射し込む、のどかで正しいゴールデンウィークの昼下がり。
なのにぷうは、ただえさえしわが寄り気味の顔に、さらにぐぐっとしわを寄せて、黒目をくりくりと動かしている。
肉球で器用にページを押さえる姿は一見微笑ましいのだけど、そばに寄ってみると、「むむむ……」といううなり声が、鬼気迫る感じにも思える。
「ぷう、なんか、どうしたの? 最近、やたら読んでない? 前までは、数時間小説を書かずにいると死ぬみたいな感じだったのに。ここ半月くらい、書くより読んでる時間の方が長いような」
書く時間を上回って読んでいるので……端的に言って、死ぬのではないかという心配をしたのだ。
ぷうは、落ちていたスイカの種を本の間にはさんで閉じ、僕に目を合わせて言った。
「無知への焦燥がある」
「……へ? しょ、なんだって?」
「焦燥、焦りだ。書けば書くほど自分のものの知らなさを思い知り、こんな自分ではダメだという猛烈な焦りと、取り戻さねばという強迫観念と、……とにかく読書が足りない」
そう言ってぷうは前足で本をぺちぺちと叩き、表情を曇らせた。
ぷうの言いたいことは、なんとなく分かる。
彼の将来の夢は『生き字引』で、何となく訊かれた程度のことならだいたいは答えられるという状態になりたいのだと、常日頃から言っていた。
と考えると、まあ、読書量が足りないことに劣等感を抱いたり、克服しなければならないことに感じるのかもしれない。
しかし、そんなに焦ることがあるだろうか?
「でもさあ、ぷう。君は、人間の言葉が分かるようになってまだ三年だろ? たった三年ぽっちで、知ってることが多いわけないんだよ。ぷうは知らないことだらけなんだ」
僕が諭すと、ぷうは目を見開いた。
「……おれは、うぬぼれていたのか」
「まあ、そういう理解でもいいよ。とにかく、ものを知らないくらいで焦るようじゃ、生きるのがしんどくなると思うから。リラーックス、リラーックス……」
お腹のあたりをこちょこちょとこすると、ぷうはうっとりとした――ここをマッサージされると、自分の意思とは関係なしに眠気に襲われるらしい。
「本を読むのは楽しいよね」
「ああ」
「たくさん読めるようになってよかったね、本」
「そうだな」
「ぷう、大丈夫だよ。知識を得られるのは、本ばかりじゃない。それに、ものを書いたら書いただけ分からない言葉にぶつかるのだから、そのたびに調べればいい。これからもたくさん小説書いてね。いつか生き字引になれるよ」
「…………」
眠りについたぷうを抱きかかえて、布団に招き入れる。
滑らかな短い毛に頬をすり寄せ、軽く抱きしめると、僕のまぶたもすぐに落ちてきた。
昼寝だ。正しいゴールデンウィーク。
生温かい皮膚を感じて。