DO NOT Watch XXXXXX's Window
二〇二〇年の春の話をする。
疫病が蔓延していた。
そして、ステイホームを強いられる僕ら人類を憐れんだのかように、神様がとんでもない乱数をぶっ込んできた。
部屋に窓が現れるようになったのだ。
窓は突然、空中にぽっと現れる。
ベッドの上とかトイレの中とか、進行方向に現れるので、頭をぶつけることがよくあった。
ひとりあたり1日1回現れて、自分の前に現れた窓は他人には見えていない。
自分専用の窓は自由に開けられる。そのまま入れる。
窓は他人の家に繋がっていた。
他人の人生に土足で踏み込める窓だったのだ――正確には靴下かスリッパだが。
当時高校一年生だった僕が最初に入ったのは、佐賀県の老夫婦宅だった。
おじいさんは詰め将棋をしていて、おばあさんは布マスクを作っていた。僕がいることには気づいていなかった。
その次の日に入ったのは、埼玉県の小学生がいる三人家族だった。
お父さんがZOOM会議をしている横で、男の子がフォートナイトで遊んでいて、バカデカ声でボイチャするのを叱るお母さんがイライラしていた。
その次の日は、奈良県の若い女性の家だった。ツイッター(現X)で知り合った異性と、通話でいけないことをしているようだった。
通話だけでそんな行為ができるなんて知らなかったから、衝撃だった。
窓から出て家に戻るといつも、自宅以外の場所に行けた開放感と、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と、またあしたも現れてほしいという願いを抱いていた。
窓の中の人は、入ってきた人間の存在に気づかない。
ということは、いままさに誰かが窓から入ってきて、僕を見ているかもしれないと思っていた。
僕はいつ誰に見られても恥ずかしくないよう、模範的な手洗いや消毒をしていた。
その一方で、誰かに見てほしいと思いながら、恥ずかしい自作の曲を弾き語りしたり、十八歳以下が見てはいけない動画サイトを見たりしていた。
ニュースでは毎日毎日、感染者数と、死者数と、ステイホームと、ソーシャルディスタンス。
ウイルスだから仕方ないと分かっていても、嫌になってくる。
他人の窓を開けてはいけないことも、盛んに報道されていた。
でも、窓の中では濃厚接触を気にしなくていいし、マスクをつけずに他人を見られる貴重な機会で、誰にとっても最適の気晴らしだったはずだ。
多くの人は、自分が他人の窓を見ている低俗な趣味だとは言いたくないから、窓には入っていないと言っていた。
でも、他人の窓の中の様子をネットに書いたり、それでお金を儲けようとしたりしている人もたくさんいた。
厳罰に処すべきと言いながら、みんな窓に入っていたと思う。
僕も、女子相手には見ていないと言っていたけど、男友達とは毎日通話で、何を見たかで盛り上がった――刺激的な女性の何かを見た奴はその日の勇者だった。
疫病の流行が去り、死者数が減っていくのと同じペースで、窓はなくなっていった。
毎日のように現れていた窓は、今年に入ってから数回しか見ていない。
その後の研究で、あの窓は、疫病の症状としての幻覚や妄想だと結論づけられている。
しかしこの結果には懐疑的な意見も多い。
「当時ステイホームしていて検査も陰性の人々が、幻覚症状だけ出るのはおかしいのではないか」
と、窓に実際に入った人ほどこの研究結果に異を唱えたくなるわけだが、それを強めに言うと当時窓に入っていたことがばれてしまうため、有耶無耶になっている。
あれは神様が、接触せずに他人を『見る』チャンスをくれていたのだと思う。
もし誰もあの窓に入らなかったら、他人の素顔を目にすることがほとんどないまま、数年間を過ごしただろう。
でも、人は他人の人生にアクセスしたい。当たり前のことが満たされるのが、あの窓だった。
窓の中で僕が見た衝撃的な美女に会いたくて、いま奈良県に向かっている。
大丈夫、マンションの住所と部屋番号は、四年かけて割り出した。
(了)