データフィケーションと教育政策:海外の動向と日本の研究への示唆
はじめに
この記事は2023年7月9日に鹿児島大学で開催された日本教育政策学会で報告したものです。報告の内容は次の3つです。
(1)データフィケーションの教育政策の研究動向の把握
(2)データフィケーションの教育政策研究の枠組の検討
(3)今後の研究の方向性
本記事は論文化しました。論文はこちらです。
私の報告では、2022年に出版された「データフィケーションとともに生きる:世界各国の教育のケーススタディと政策」を中心に紹介いたします。ルーシー・パングラッツィオとジュリアン・セフトン・グリーンが編集しました。二人はオーストラリアのディアキン大学でデジタル教育を教えています。
まずデータフィケーションの定義を明確にしたいと思います。この本はデータフィケーションを「あらゆる行動がデジタルデータとして記録・分析・活用されるプロセス」と定義しています。つまり、データフィケーションは単なるデータ化やデジタル化ではありません。
私たちがスマートフォンを使えば、その情報はプラットフォームを通じてデジタル化され、蓄積分析され、広告などに利用されます。そのプロセス全体がデータフィケーションだと考えれば良いでしょう。
データフィケーションと教育政策の関係を考えるにあたっては、二つの側面を考慮する必要があります。
一つは教育現場におけるデータフィケーション技術の導入です。日本の場合は、GIGAスクール構想によって一人一台のタブレット端末が配備されると同時に、教育向けのプラットフォームが導入されました。こうした状況を指しています。
もう一つは、データフィケーションという社会的現実や技術に関する教育の導入です。それはタブレット端末やプラットフォームの活用を超えた内容である必要があります。パングラッツィオらの著書もこの二つの観点から書かれているといってもいいでしょう。
この本は全部で13の章や序文および後書きで構成されています。章のタイトルを見ると、プラットフォームやアルゴリズムという用語が多く見られます。プライバシーという用語が多いことがわかります。
また、デジタルリテラシーやデータリテラシー、そしてアルゴリズムリテラシーといった用語を見ることもできます。欧米以外に南米やアジアでは韓国や中国の事例が取り上げられています。しかし、残念ながら日本の状況を検討した章はありません。
データフィケーションと批判的研究
学校におけるデータフィケーションの問題は日常的なものであると同時に、グローバルな現象です。この本では次のように書かれています。
つまり、日本で起こっていることは世界で起こっていることであり、研究においてもそのことを考慮しなくてはなりません。
そして、次のように指摘されています。
データフィケーションについては別の本も参照する必要があります。そのうちの一つはズボフによる『監視資本主義の時代』です。ズボフによると「データフィケーションとは、政府や企業が人々を少しずつ形成・操作できる新しい形の権力行使ツール」だとされています。そして次のように指摘しています。
この一文にデータフィケーションの本質的な問題が表現されているように思われます。
もう一冊取り上げたいのはノブルの「抑圧のアルゴリズム」です。この本はアルゴリズムが持つバイアスを指摘しています。ノブルはこのように述べています。
つまり、社会的弱者に与える影響を問わなければならないと主張します。
そして、「データがいかに偏り、人種差別や性差別を永続させるかを示す最も説得力のある方法のひとつ」だと書いています。さらに、次のように指摘しています。
AIはアルゴリズムとデータセットで構成されますが、データセットが偏っていれば、結果も偏ります。つまり、差別や不平等がAIによって再生産されます。
こうした事態は現実に起こっています。2021年11月9日のアムネスティ・インターナショナルの記事をご覧ください。この記事によると、2013年オランダの税務当局は、児童手当の不正請求や詐取の検知にアルゴリズムを導入しました。そして、その当初から人種や民族に基づく差別が、アルゴリズムを設計する上で重視されたと述べられています。
その結果、不正請求や詐取と無関係な人々が社会福祉システムから排除される事態となりました。「差別的な設計は、人の目が入らずにアルゴリズムが経験からの学習により自動で改良を重ねる自己学習メカニズムとなっているため、欠陥が再生されてしまう」とアムネスティ・インターナショナルは述べています。
データフィケーション研究の課題
こうした実例から言えることは、データフィケーションには政治性があるということです。パングラッツィオらは、次のように書いています。
つまり、AIはそのままでは平等や公正といった人権の実現に寄与しないということになります。
パングラッツィオらはデータフィケーションの教育政策には3つの対応があると述べています。一つ目は規制的対応です。個人を脆弱な関係に置く不公正で不平等な力関係に陥らない法制度の確立であり、そして子どものデジタル権利の擁護です。これには子どもの保護と参加の両面が含まれます。
二つ目は、技術的・戦術的対応です。これは社会的対応といってもいいでしょう。市民自らがデータを保護するためのさまざまなテクノロジーを活用することやデータ処理の透明性や個人情報の暗号化・匿名化、そして「プラットフォーム共同運営主義」や「アルゴリズム公正性」によるビジネスモデルへの対抗などがあります。
そして三つ目は教育的対応です。これは規制的対応と技術的・戦術的対応の土台に位置づきます。データフィケーションが生活、学習、仕事に影響を与えることに対する知識と批判的思考能力の教育を実施する政策です。
パングラッツィオらはこれまでの研究は、政府やグローバル企業の政策の波及効果を分析する、いわば権力の側から下を見る傾向が強かったと指摘します。しかし、こうした研究は学校や地域で何が起こっているのか、十分に理解することができません。またこうした動向に対する対応策も生まれません。そこで、広い社会的アクターによる導入や活用、意味づけの影響を調査する必要があると彼女らは指摘しています。
そして、「単一の権力的な視点からの影響だけではなく、監視の方法やデータ化の形態が若者やその家族、教師や学校、学校教育一般に与える影響を明らかにすることができる」と述べています。
具体的には、学校内では、生徒、教師、管理者がデジタルインフラとの関わり方をエスノグラフィーによる説明を通じて学校内から検証する研究や、学校外では、テクノロジーのデータポリシーやガバナンスの批判的分析による研究が行われていると書いています。
パングラッツィオらはもう少し具体的な課題についても述べています。学校への導入については、学校は自分たちのデータフィケーションのやり方が従来のやり方に与える影響について、何を知るべきなのかという課題を挙げています。
また、教育ついては、プラットフォーム社会で生きるという課題を持つ生徒自身にとって、求める市民的・社会的アイデンティティに対して、データフィケーションはどんな影響を与えるかという課題を挙げています。データフィケーションは教職員の価値観に影響を与えるだけではなく、カリキュラムや評価にも影響を与えます。
そして、学校現場では、データフィケーションという社会の現実に対してどのように対応しているのか、もしくは、しようとしているのか検討する必要があります。こうした課題については学校現場を観察しなければ答えることはできないでしょう。
オランダの事例
この本にはたくさんの章がありますが、今回の発表ではその中の2つの章を紹介します。一つはケルセンスとデ・ハーンが書いた章で、オランダの事例を検討しています。オランダでは、公教育におけるデジタル・プラットフォームの統合が進められつつあります。
その政策はパフォーマンス・ベース・アプローチと呼ばれ、学校が継続的な評価を通じて生徒の学習進歩に関するデータを体系的に収集し、評価データを解釈して個々の生徒の学習プロセスを向上させることをめざすというものです。日本の「個別最適な学び」と重なる政策だといえます。
ケルセンスらは、批判的研究の視点として、教育のプラットフォーム化について教育の価値の立場から歴史的に考えることを挙げています。そして、教育の価値観に基づくテクノロジーの専門家の行動モデルを作成すること、そして教育の価値観に基づくプラットフォーム化のための制度的視点を重視することを対抗政策として提起しています。
これはいわば教育のプラットフォーム化に対する公的コントロールを取り戻すための試みだと言えます。この研究は、政府の政策の批判だけをしているわけではなく、教育の価値観に基づく対抗政策を検討している点に注目すべきでしょう。
子どもの権利の視点からの研究
もう一つ紹介するのは「子どものプライバシーの権利とデジタルリテラシー」をテーマとした章です。これは国連子どもの人権委員会一般的意見第25号「デジタル環境に関する子どもの権利」を中心に書かれており、この章の著者のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのリビングストーンらはこの一般的意見をまとめました。
この章は、デジタル世界における権利を行使する手段としての子どものプライバシーに対するデジタル技術の影響を検討しています。そして、子どものプライバシーを守るための政府の責任、デジタル時代のインクルージョン、そして平等、その他の権利のためのデジタルリテラシーの重要性について検討しています。
ここでいうデジタルリテラシーとは、単なるデジタルツールを活用する能力ではなく、デジタルツールを使って市民社会に参加する能力、すなわちデジタル・シティズンシップとほぼ同じ意味だと考えてよいと思います。
国連子どもの人権委員会一般的意見第25号「デジタル環境に関する子どもの権利」は2021年に発表されました。この文書は、27カ国の9歳から22歳までの700人以上の子ども・若者による、デジタル技術と生活に対する意見を集約して作られたものです。まとめたのはファイブライツ財団であり、その中心的研究者がこの章を書いたソフィア・リビングストーンです。
この一般的意見の一般原則は、3つの原則から成り立っています。一つは差別の防止、二つ目が子どもの最善の利益、そして三つ目が子どもの意見の尊重です。この文書は大変長いのですが、大事な部分だけをかいつまんで紹介します。
学校に対しては、学校のインフラへの投資、十分な数のコンピュータの配置、デジタル技術の活用の必要性が指摘されています。子どもたちは学習にデジタル機器を使いたいと望んでおり、その権利を保障する必要があると述べているわけです。ただし、学習に活用できればいいというわけではありません。
基礎教育へのデジタルリテラシー教育の導入と子どもの安全とプライバシーの保護がもう一つの重要な柱になります。デジタル世界への参加と安全やプライバシーの保護という二つの要素があることを意識することがここでは重要です。
さて、リビングストーンの書いた章にはデジタルリテラシー教育についても書かれています。その内容を紹介します。まず、デジタルリテラシー教育とデータ保護規制は相互に代替するものではないとされます。つまり規制も教育も両方とも必要なものです。
現実は、国内外における社会経済的、資源的な不平等にもかかわらず、デジタルリテラシーのスキルを獲得し、維持し、発展させることは個人の責任と見なされることが多いのです。しかし、リテラシーは市民のエンパワーメントと参加の問題であり、公共サービス、公益ジャーナリズム、企業の社会的責任など、他の規定と並行して推進されるべきだと彼女は指摘します。
そして、「単に情報を伝えるだけでなく、子どもたちが自分たちの使うテクノロジーに介入できるような、知識を含む参加型の道筋を作ること」が必要だと指摘します。その上で次のように述べています。
結論と今後の研究への示唆
では、この本の結論を紹介します。パングラッツィオらは、「データと共に生きる」という有意義な教育的視点をさらに発展させるための重要な原則は、データフィケーションの物質的背景をどのように概念化し続けるかということだと指摘します。
ちょっとわかりにくい表現ですが、言い換えると、データは目に見えないものであると同時に物質的なもの、例えば格差の拡大といったことであることを理解し、いかにしてそれを教育学や教育政策の課題にすることができるかということなのです。
そして彼女は主張します。
その上で、データフィケーションに対する戦術的、教育的、規制的な対応を統合することが必要だと述べています。
最後に、パングラッツィオらの著書から日本における教育政策研究への示唆をまとめたいと思います。まず、最初にお話ししたように、教育政策における二つの側面、すなわち技術の導入と教育の導入という側面を意識することが必要です。どちらか一方ではなく、両方必要なのです。
そして、国家政策や経済界の政策分析だけではなく、学校や自治体におけるデータフィケーションの実態をエスノグラフィーの手法によって調査し、実態を明らかにすることが求められます。日本では、GIGAスクール構想によって一人一台のタブレット端末が小中学生に配布されましたが、その結果さまざまなことが起こっています。それらをエスノグラフィーの手法によって記録観察することが必要です。
日本の教育政策研究では、パングラッツィオらが指摘したように、権力の側から下を見る傾向が強いと言えます。そのため、学校や自治体で何が起こっているのか、具体的に理解することが難しく、対抗政策を見出すことは困難なものとなります。
そして、デジタル世界における子どもの権利の視点を明確にすることが求められます。これまでの日本の教育政策研究にはこの視点が欠けており、例えばGIGAスクール構想が子どもの人権とどのように関係するのかといった視点からの研究が求められるでしょう。そして、何よりもデータフィケーションに対する戦術的、教育的、規制的対応を統合的に把握することが必要です。
教育は規制の代わりではない。このことは世界中のメディアリテラシー教育研究者の共通理解となっています。ただし、残念ながら日本ではいずれの対応も十分とはいえません。例えば、文科省は生成系AIに関するガイドラインを発表しましたが、活用という視点に限定されたもので、デジタルリテラシーやデジタル・シティズンシップ教育の観点が十分ではありません。
私はこれまでいくつかの自治体でデジタル・シティズンシップ教育政策が導入され、学校現場でこの教育のために教職員が努力している様子を見てきました。デジタル・シティズンシップ教育には、データフィケーションの本質である、AIやアルゴリズムがどのように日常生活に影響を与えているのか、批判的に考えるためのアルゴリズムリテラシーやメディアリテラシーを含んでいます。
法政大学図書館司書課程ではオンラインジャーナルを年に2回発行していますが、もうすぐ公開される第4巻2号はこうしたデジタル・シティズンシップ教育の最前線の取り組みを自治体の教育委員会職員や学校の教職員に書いていただいています。おそらくこうした情報は今後の教育政策研究に役立つことでしょう。
その中には、人権教育の観点から、いじめ防止教育に取り組み、その延長線としてGIGAスクール構想に対応するためにデジタル・シティズンシップ教育を導入した吹田市のような自治体もあります。また、学校の使用ルールに対して子どもたち自らが意見をまとめ、校長にアポイントを取ってプレゼンを何度も行い、子どもの提案によるルールを作った実践を描いた長野県南森町の実践例もあります。この実践では学校司書が大きな役割を果たしています。
今後のデータフィケーションの教育政策研究はこのような教育現場におけるさまざまな葛藤や実践を研究の中心に置くことが求められると思います。パングラッツィオらは「データと共に生きる」を著書のタイトルにいれましたが、これはすでにデータフィケーションがグローバルな社会のインフラとなっており、その現実に批判的に向き合い、よりよくデータと共に生きるために何が必要なのかという問題意識の表れだと思います。そして私自身もその問題意識を共有しています。