デジタル時代のリテラシーとシティズンシップ

この記事は2022年3月12日に行われた「法政大学教職課程センターシンポジウム  学校の組織と学習環境をデザインする-民主主義・シティズンシップ・本質的な問い-」でのプレゼン用に書いたものです。ただし、この記事の通りに発表したわけではありません。内容については以下の文献もご参照ください。(『メディアリテラシーを学ぶ』大月書店、2022年

シンポジウムの様子

はじめに

 都立大学の大学院生時代に、高野研究室で三上和夫、小玉重夫、大田和敬といったメンバーで月一回程度の研究会をやっていた記憶がある。どういう経緯でそのような研究会が始まり、どうして僕が参加するようになったのか定かではないが、チャータースクールや学校選択制についていろいろな議論をした。その頃、東大の佐伯胖ゼミにも参加していた。記憶を辿るとLPP(正統的周辺参加)の理論を中心に、Jean Laveの論文を読んでいた。人類学や心理学からマルクス主義まであらゆる概念が飛び交う研究の場で大いに刺激を受けたことを思い出す。美馬のゆりさんが在籍だったころで、コンピュータ教育についてもいろいろな影響を受けた。当時書いた論文が「『情報教育』と生活主義」である。佐伯先生にお見せしたら絶賛され、もっと目立つところに投稿した方がいいと言われた。

 しかし、大学院時代に特に関心を持って取り組んでいたのは、当時欧米で流行っていた再生産論や批判的教育学であり、アルチュセールやブルデュー、アップル、ジルー、サラップらの著書であった。これは修士時代に学んだ海老原治善先生の影響である。しかし、世の中は情報教育に傾きつつあり、周りからはどことなく情報教育の論文を書かなくてはならないという雰囲気があったように思う。

 法政大学に赴任し、図書館司書課程を担当するようになったのは学部改編のあおりを受けて、たまたま図書館司書担当教員の補充ができなくなったためである。高野先生から情報教育と図書館は近いのでやったらどうかと言われてそうすることにした。学校図書館の情報リテラシー教育にも強い関心があった。現在では、ユネスコのメディア情報リテラシー活動につながっている。図書館はこの活動のステークホルダーの一つだからだ。

 私の研究活動は、高野先生の「研究キャリアの素描」の中ではアクターネットワーク理論(ANT論)に関する叙述に重なることになる。それはモノと人間の関係が社会にどのように影響をもたらすのかという観点であり、学習環境デザイン論に関わる。イリイチの脱学校論やコンヴィヴィアリティもこの問題につながる。今日のデジタル時代にはこうした論点がどのように活かされるのか、あるいは読み替えられるのだろうか。メディアリテラシーやデジタル・シティズンシップをめぐるさまざまな議論は過去に追ってきた多様な理論をすべて包括している。一見すると、批判的教育学と情報教育は直接的に結びつかないようにも思えるが、むしろ今日のデジタル時代ではより強い理論的な接続が求められつつある。それは今日の世界がまさに危機的だからだ。

クリティカルな時代のクリティカルなリテラシー

 ロシアによるウクライナへの侵略戦争は、同時に膨大な偽情報とプロパガンダの戦争である。ソーシャルメディアはその偽情報やプロパガンダの伝達装置であるとともに、現地からの生の情報を世界に届ける装置でもある。ウクライナの市民はスマホを使って現状を世界に発信し、また世界各国の市民もまた反戦デモの様子をソーシャルメディアに投稿して、反戦を訴えた。一方、ロシアはソーシャルメディアを遮断し、政府が認めない情報を流布させた者に刑罰を課す法律を施行し、独立系報道機関は沈黙を余儀なくされた。

 もちろん問題はこうした戦争だけで見られるわけではない。2020年1月6日には陰謀論を信じた市民たちによってアメリカの議会議事堂が襲撃される事件が起こった。この事件はアメリカの分断化を象徴している。残念ながら、1980年代から90年代にかけて育まれたデジタルユートピア主義は完膚なきまで破壊されてしまった。この巨大な複雑系をそのまま放置すれば、誰かが核ボタンを押すまでコントロールできないかもしれない。

「タイム」2021.1.21

 この大きな変化を私たちに最初に実感させたのはいうまでもなく2016年のアメリカの大統領選と「フェイクニュース」問題である。メディアリテラシー研究者として世界的に著名なデイビッド・パッキンガムは2018年に法政大学で講演を行った。彼は『マニュフェスト』と題する本を書き、デジタル資本主義を批判し、今まで以上に自分は批判的になったと宣言した。このときの講演は図書館司書課程が発行する『メディア情報リテラシー研究』第1巻1号に収録されているのでぜひお読みいただきたい。

バッキンガム講演会(2018年10月6日)

  このように、メディアリテラシーをめぐる環境は2016年を経てまったく変わってしまったと言ってよい。この問題は世界では国防の問題として捉えられている。アメリカの偽情報問題にロシアが絡んでいたことが次々と明らかになったからだ。

 2016年の大統領選直後にスタンフォード大学歴史教育グループがアメリカの中学から大学までの若者を対象に行ったオンライン情報評価能力の調査の結果、デジタルネイティブと言われる若者たちはオンライン情報評価能力に大きな問題を抱えていることが判明した。こうしてスタンフォード大学はファクトチェックの手法を取り入れた新たなデジタルリテラシー教育を提案し、普及させつつある。中心となったワインバーグ教授は、民主主義の危機だと主張する。同様に元新聞記者のアーサー・ミラーが立ち上げたニュースリテラシー・プロジェクトは大きな組織となり、同様に全米でニュースリテラシー教育に取り組んでいる。もっとも速い動きをしたのはアメリカの図書館協会であった。すでに学校でスクールライブラリアンたちが情報を評価する情報リテラシー教育を行っていたため、急遽オンライン情報についてもカリキュラムに組み入れたのである。

 こうした動きはヨーロッパにも波及している。EUや欧州評議会はもちろんのこと、イギリスは2021年7月に「デジタル・メディアリテラシー戦略」を発表し、学校教育や図書館などのさまざまな社会教育機関でのメディアリテラシー教育計画を進めつつある。ここまで話せばお気づきのように、こうした世界的な民主主義の危機に対応した動きが日本ではほとんど見られない。

デジタル・シティズンシップ教育の登場

 2021年1月、中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」が発表された。この答申では、「明治から続く我が国の学校教育の蓄積である「日本型学校教育」の良さを受け継ぎながら更に発展させ、学校における働き方改革とGIGAスクール構想を強力に推進しながら、新学習指導要領を着実に実施すること」が謳われた。ICTの活用がこの政策には不可欠なものであると主張する。

 一見すると、伝統的な日本型教育に新しいテクノロジーを組み合わせたものに見えるが、ここには致命的な欠陥がある。ICTはもはや活用するだけのものではなく、同時にグローバルなデジタル世界に参加する環境である。そのために必要になるのはICTの活用能力ではなく、デジタル世界に参加するための知識や能力である。この答申にはその視点が欠けており、テクノロジーの導入が教育の質の向上を可能にするという楽観論に満ちている。一方で世界では、デジタル世界と教育の問題は別次元で大きな課題となっている。それがデジタル・シティズンシップやメディアリテラシーをめぐる問題である。これらの視点が欠けた不完全な答申を背景にGIGAスクール構想が進められれば、問題が噴出するのは当然のことだといえるだろう。

 2019年11月、法政大学で「デジタル時代のティズンシップ教育」をテーマとしたシンポジウムを開催した。これは私と小玉重夫さんが企画したもので、二人が問題提起者となり、のちに大月書店から共著者として本を出版することになる豊福晋平、芳賀高洋、今度珠美がシンポジストとして参加した。また、法政国際高校、お茶の水大附属中の教員や文科省からも社会科の教科調査官が参加した。教育工学からシティズンシップ教育関係者まで幅広い参加者で教室が満杯となった。この記録は『メディア情報リテラシー研究』第1巻2号に収録されている。

 たまたま参加していた編集者が書籍化を提案し、そしてできたのが2020年12月に出版された『デジタル・シティズンシップ 1人1台PC時代の善き使い手をめざす学び』である。この本は出版社の想像を超えて売れ、著者グループには全国の教育委員会や教職員組合、学校などから講演や研修の依頼が舞い込むこととなった。教育委員会の中には教育計画にデジタル・シティズンシップ教育を取り入れるところも出てきた。文科省の政策にはないにもかかわらず、である。2022年4月には第二弾の『デジタル・シティズンシップ・プラス やってみよう! 創ろう! 善きデジダル市民への学び』を出版する予定だ。

 この本のタイトルはハーバード大学の同名の報告書「Youth and Digital Citizenship+ (Plus)」からとったものである。ただし、この本は決して同報告書の解説書ではない。ちなみに、この報告書は簡単に言えば、デジタル・シティズンシップはシティズンシップの概念を拡大すると主張している。報告書は次のように述べている。「主に先進民主主義国で起きている社会的・経済的変化とデジタル・テクノロジーの利用拡大に対応して、今日の若者が前世代に特徴的なシティズンシップの概念とは異なる方法で市民活動や政治に関わっている。」「若者の間で市民や政治への関与が不足していると見られがちなのは、むしろ若者が受け入れているシティズンシップのタイプが『従順』から『実現』へと変化している可能性がある。」「「ソーシャルメディアが友人との付き合いや、自分の関心事を共有する人々との関わりに使われることで発達する参加型のスキル、規範、ネットワークは、政治の領域に移行することができ、また移行しつつある。」

 実際、若者たちはスマホを使って市民社会に参加し、次々に新たな文化を生み出している。それはすでに新しいシティズンシップの形成であり、既存のシティズンシップの拡大だとこの報告書は指摘する。そこでデジタル・シティズンシップに「プラス」が付け加えられた。

 一方、2022年4月に出版する第二弾は、第一弾をより実践的に拡大し、わかりやすくするとともに、シティズンシップ教育の要素をより明確にしている。そのことがわかるようにサブタイトルには「善きデジダル市民への学び」という表現が含まれている。

 デジタル・シティズンシップ教育はすでに草の根教育運動だ。しかも国の教育政策にも影響を及ぼし始めている。国の教育政策には問題が多いということでもあるが、同時にデジタル・シティズンシップ教育が今まさに切実さを持って求められていることを意味している。

アップスタンダーとは何か

 今年度の『キャリアデザイン学部紀要』に書いた論文のタイトルが「アップスタンダー教育とは何か」である。アメリカのNPOコモンセンスとハーバード大学のプロジェクトゼロが共同で開発したデジタル・シティズンシップ教育の教材は全米7割の公立学校で用いられている。そのネットいじめに関する教材に登場する言葉がアップスタンダーである。この教材を日本語化して日本で実践するためには、アップスタンダーがいかなるものなのか、理解する必要があった。

 その結果、アップスタンダーとは「不正義に直面した時に立ち上がる人」という意味を持った言葉であり、アメリカの国際開発庁長官でもあるサマンサ・パワーが、2003年に、世界で行われている残虐行為を防止するための講演の中でこの用語を使ったということがわかった。この言葉は正式な英語ではなく、辞書にも掲載されていなかった。しかし、この言葉は#MeToo運動など、女性へのDV防止のための社会運動の中で使われるようになった。さらにホロコーストなどの歴史上の不正義を教育に活かすための活動を行っているNPO「Facing History and Ourselves」がこの言葉を教材化した。このNPOの会議に参加したニュージャジー州にあるウォッチングヒルズ地域高校の歴史教師たちが「人権が意識的もしくは無意識に侵害される微妙な仕組みを変えるために必要なスキルを生徒に教えること」を目的にアップスタンダー教育を導入した「パワー・オプ・ワン」プログラムを始めたのである。

 彼らは次のように述べている。「歴史上、自分たちに影響を与える出来事が展開するのを傍観していた人たちのことを考えた。そこで、生徒に教える教育内容の本質を表現するために、『アップスタンダー』という用語を採用した。そして、すべての生徒が文化的に適切なアップスタンダーのカリキュラムに参加させるための効果的な方法を模索し始めた。そして私たちは『アップスタンダーズ』の文化を創造するプロセスを開始するため、内省的批判的分析、応用を促す歴史の授業を作った」と語っている。「パワー・オブ・ワン」プログラムは、歴史や文学を含むあらゆる教科の中で、互いに敬意を払い、エンパワーメントの文化を創造し、すべての人に対する正義感を育てる教育の土壌を作り上げたのである。

 同校の二人の女子生徒はいじめ防止に取り組んだ。そのためのプレゼンテーションの原稿を書いているとき、ワードがこの単語を正式の英語として認識しないことに気がついた。そこでアップスタンダーという用語を正式の英語にするため、Change.orgを使った運動を始め、ニュージャージー州議会もそれに応えて決議を行った。2015年、オックスフォード辞書はこの単語を辞書に登録した。そこには「大儀を支持するために発言や行動をする人。特に、攻撃されたり、いじめられたりしている人のために介入する人」と記載されている。このようなストーリーのもと、アップスタンダーという用語がいじめ防止教育に使われるようになり、さらにコモンセンスのデジタル・シティズンシップ教材にも採用されることとなったのである。考えてみれば、二人の女子高校生の活動自体がすでにデジタル・シティズンシップ活動であった。

まとめ

 アップスタンダーという言葉をたどっていくと、その本質的な意味が浮かび上がってきた。メタ社が内部調査を隠蔽していたことを告発した元社員の例にも見られるように、アメリカで内部告発が次々に出てくる状況があることもこれでよく理解できる。現代の社会を見ると理不尽なことが次々と起こる。官僚は不正義を隠蔽し、ネットには差別や偏見がはびこり、そしてそのような状況を漫然と受け入れている多数の傍観者によって理不尽な社会が形成されている。だからこそ、一人の力は微々たるものだが、社会は変えることができるという信念を次世代の若者たちと共有しなければならない。デジタル・シティズンシップ教育には、アップスタンダーだけではなく、政治的な立場の違いを超えて対話をするスキルや、自分やまわりの人々、そして世界に対して責任を持つことも教える。クリティカルな時代に私たちは教員として若者たちに希望を語ることができるだろうか。そして若者たちは誠実を胸に刻むことができるだろうか。痛ましいウクライナの情勢はまさに私たちがシティズンとして何をすべきかを問いかけているように思う。問われているのは単なる教育の問題ではなく、私たち自身ではないだろうか。

 私は昨年、日本教育学会紀要『教育学研究』のために「デジタル・シティズンシップの可能性と教育学の再考―『ポスト真実』世界のディストピアを超えて―」という論文を書いた。サブタイトルにつけた「ポスト真実世界のディストピアを超えて」という一文ほど現在の危機的な世界を表しているものはないと思う。ディストピアに向かいつつあるかのように見えるこの世界を確かなユートピアに変えるために、古いシティズンシップの衣を脱ぎ捨てて、新しい時代のための新しいシティズンシップを作り出さなくてはならない。

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