恋文が苦手な代筆屋のウラ事情~心を汲み取る手紙~ 3章(4/6)
三章 ナポリタンとワンピースと文字
「貴之さん、お腹が空きました。なにか作ってください」
貴之の自宅兼事務所に入ってくるなり、美優は応接間の黒いソファにコートのまま寝転がった。三人掛けのソファに美優の小柄な身体はスッポリとおさまる。
「また食いに来たのか。ここはおまえの食堂じゃないんだぞ。帰れっ」
美優は銀婚式夫婦の依頼で会った後から、頻繁に貴之の家に押しかけてくるようになった。しかも、出来心で手料理を食べさせてからは、食事をねだってくるようにもなった。
自宅を知られているので逃げられないのだが、セキュリティがあるので、鍵さえ開けなければ美優は入れない。居留守を使ったほうがいいのだろうか。
「だって貴之さんの家のほうがわたしの家より、病院から近いんです」
「知るか。通勤が面倒なら近場に引っ越せよ」
貴之は向かいのソファに座りながら、常温のミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いてやる。
「追い出さないでください。また夜勤を代わってほしいと頼まれてしまったので、夜勤明けなのに、今夜また夜勤なんです」
「だったら尚更、家に帰って寝たほうがいいだろ」
美優は頼みを断るという言葉を知らないのだろうか。
「……一人になりたくないんです」
美優は赤子のように丸まりながら、力なく言った。
「今朝、担当の患者さんが亡くなりました。そろそろだってわかっていたんですけど。看護師ですから、わたしは何人も患者さんを看取っています。でも、いつまで経っても、死には慣れません」
美優は目を伏せた。長い睫毛が揺れている。今にも泣きだしそうに見えた。
こうなると、貴之は弱い。
確かに、いつでも愚痴を聞いてやるとは言ったが、ナースが愚痴だらけだとは思わなかったのだ。
「別に、慣れなくてもいいだろ。看護師にとっては数ある死の一つだとしても、故人にとっては一度きりの死なんだ。ミュウくらいは毎回、メソメソと死を悼んでもいいじゃねえか」
「メソメソしてません」
「してるだろ」
「仕事中は毅然としていますよ。今は、ここにいるから……」
美優は肩をすぼめて、ますます丸くなった。捨てられた子犬のようだ。
「……なにが食いたいんだ?」
しぶしぶと貴之は尋ねた。落ち込んでいる美優は、食事をすれば大抵元気を取り戻す。
「作ってくれるんですか?」
パチリと開いた美優の瞳が潤んでいる。貴之には、子犬が「拾ってくれるの?」とすがってくる目に見えた。
「ミュウが作れと言ったんだろ。簡単なのにしろよ」
「はいっ! 貴之さんは、やっぱり優しいですね」
ひょいっと美優は上半身を起こした。
貴之は長い足を組んで「現金なやつ」と苦笑する。
俺はいつからこんなに甘い人間になったんだ。
そう考えてみるが、貴之は友人が少なすぎて、社会人になってからはプライベートで頼みごとをされた記憶がなかった。
これでは、頼まれたら断れないたちだった、小学生の頃のようではないか。
「じゃあ、ナポリタンを作ってもらいたいです」
しばらく考えていた美優がそう言った。
「日曜日はパパ……、父が家事をする日だったんです。母に休んでもらおうという意図だったんですけど、父は料理が本当に下手で。母は美味しいって嘘を言っていたけど、わたしはいつも文句を言っていました」
美優は「わたしも美味しいって、パパに言ってあげたらよかったな」と独り言のようにつぶやく。
「そんな父の得意料理が、ナポリタンだったんです。ちなみに、ほかの料理よりましなだけで、麺はゆるゆるだし、ケチャップの味しかしませんでした。そんなナポリタンが、無性に食べたいです」
「子どもの頃の記憶って、結構、鮮明に残ってるよな」
貴之も、ふと両親の思い出がよみがえることがある。それは当然、事故のあった中学一年の十二月で止まっている。もっと両親との思い出を作っていればよかったと考えることもあった。
「その父親の味を再現してほしいのか? 俺が作ると、普通に美味いと思うけど」
「貴之さんの美味しいナポリタンが食べたいです!」
美優がビシッと手をあげた。
「はいはい、待ってろよ」
貴之は立ち上がり、美優の頭にポンと手をのせてキッチンに向かう。
「あっ」
後ろから声が聞こえて、貴之は足をとめる。
「どうした?」
「今の、もう一度してほしいです」
美優は自分の頭に手をのせている。
犬か。
貴之がワシャワシャと頭をなでると、美優はきゃっきゃと喜んだ。髪が乱れるのは気にならないらしい。
「ナポリタンね」
キッチンに立つと、貴之はスマートフォンで作り方を検索する。
一人暮らしの長い貴之は、以前は自炊をしていた。ここ数年は効率主義になり出前が多くなったが、美味いと思った料理は余暇に再現することがある。つまり、料理はちょっとした趣味ともいえた。
だから貴之にとって料理はそれほど苦ではなく、むしろ作り始めると凝る方だった。
「ナポリタンって、日本で創作された料理なのか」
てっきり南イタリアの港町であるナポリが発祥地なのかと思っていた。レシピを調べたら雑学が身についてしまった。
もともとナポリタンの麺は、アルデンテではなく柔らかめにするようだ。しかし、加減に失敗するとブヨブヨになりすぎて食感が悪くなる気がする。
貴之は鍋で湯を沸かしながら、ニンニク、ニンジン、ピーマン、ベーコン、タマネギなどを手際よく刻んでいく。
ソースに使う野菜を炒め、ホールトマトとケチャップをかけて煮詰めてナンプラーを入れると、威勢のいい音と共にナポリタンらしい匂いが漂った。
「うわあ、美味しそうです!」
テーブルに完成品を運ぶと、美優は顔を輝かせた。いつの間にかコートを脱いでいて、パンツスタイルの白衣姿になっている。また着替えないで病院から出てきたのだ。
「ミュウ、それで食う気か」
「白衣ですか? はねないように食べるから大丈夫ですよ」
初めて会った時にも思ったが、美優は案外、横着だ。
「麺類は気をつけていてもはねるんだよ」
エプロンなんてものは貴之の家にはない。
「まだ食うな、ちょっと待ってろ」
仕方がないと、貴之は寝室のクローゼットに向かった。
リビングダイニングに戻ると、盛大に眉を下げた美優が見上げてきた。
「待てをされたワンちゃんの気持ちがわかりました。早く食べたいです」
「情けない顔をするな。ほら」
貴之は黒いタートルネックのセーターを美優にかぶせた。美優の白いハイネックのインナーまですっぽりと隠れる。
「それなら汚れても構わないから、気にせず食え」
「……ありがとうございます」
美優は袖に腕を通しながら、驚いたようにセーターを見下ろした。体格が違いすぎて袖があまって垂れている。美優はその袖に顔を当てた。
「これが貴之さんの匂い……」
「違う。芳香剤の匂いだ」
なんて恥ずかしいことを言うんだと呆れながら、いささか顔が火照ってしまう。これではまるで、初めて泊りに来た恋人に服を貸したときのような会話ではないか。
そういえば事務所を兼ねているとはいえ、ここは一人暮らしの男の家だ。美優はよく入り浸れるものだと、今更ながら警戒心のなさに驚く。
相手が貴之だからだろうか。男として見られていない証左か。
今度脅かしてやろうかな、などと意地悪なことを貴之はチラリと考える。
貴之としても、噛みついてきた子犬に懐かれたような感覚になっているので、あまり気にしていなかった。同じ事故での遺族として、仲間意識のほうが勝っているせいかもしれない。
「いただきます」
美優は手を合わせてナポリタンを食べ始めた。何度も折った袖は手首でかなりの厚みになっている。
「麺はレシピよりも少し、柔らかめにした」
貴之も美優の正面に座ってナポリタンを口に運ぶ。予定どおりの触感だと、貴之は満足した。
麺を茹でる時にオリーブオイルを入れて、表面をコーティングしたのだ。するとたんぱく質であるグルテンをあまり壊さずに済み、柔らかくもコシのある麺になる。
「茹ですぎた言い訳ですか?」
「取り上げるぞ」
「やめてください、冗談です!」
美優は慌てて皿を抱えた。
「……すごく、美味しいです。父にお手本として食べさせてあげたい」
美優の目元が光る。
「ずっとナポリタンを食べたかったんですけど、家族の食卓を思い出してしまって、どうしても一人じゃ食べられなかったんです。懐かしい。本当に美味しいです」
美優は涙をこらえるような顔をして、うつむき気味に食べている。
だから、そういう顔をするなというのに。
「これくらい、いつでも作ってやる」
その表情にほだされて、また貴之は余計なことを言ってしまった。
「はい。ありがとうございます」
美優は笑顔になった。
そんな様子を見ていると、いつも「まあ、いっか」と思うのだ。
食後に皿を片付けた美優は、本格的にソファで仮眠態勢に入ってしまった。出勤時間までここにいるつもりだろう。
こうなると追い出すことも難しいので、音を立てないように貴之は仕事部屋にこもることにする。
本業のライター職はもちろん、最近は副業の代筆屋の依頼も増えていた。
そのため、代筆には時間がかかる可能性と、緊急の際はその旨を明記してほしいと、ホームページに注意事項を追加した。
そんな代筆屋用のメールボックスに、「緊急」の依頼が入っていた。三十九歳の女性のようだ。
自分は移動ができないので、ご足労をかけるが話を聞きに来てほしい、と書いてある。
メールを読み進め、貴之はマウスを動かす手をとめた。
「ここは……」
依頼人のいる場所は、ホスピスだった。
あいにく太陽は厚い雲に隠れているが、十一月下旬のイチョウ並木は黄金色に輝いていた。
「ホスピスって、終末期のがん患者が最期に行く場所なんだろ?」
貴之は車のハンドルを切りながら美優に尋ねた。依頼人の水谷志津(しず)恵(え)が入院している千葉県の病院に向かっている。
「おおむね、そういう理解でいいと思います。手術や抗がん剤治療をされて、その先の治療が望めなくなったとき、苦痛を最小限にして穏やかに過ごす場所です」
助手席に座る美優はうなずいた。
「細かく言うと、初期治療から苦痛を伴う化学療法ではなく緩和ケアに切り替える方がいて、そういう患者さんも医療機関の条件によってはホスピスにいらっしゃるので、全員が末期ともいえないんですけどね。それに、緩和ケアで心身ともに落ち着いたら退院して、また抗がん剤治療などを再開する患者さんもいます」
細かい条件なんてどうでもいい。
問題は、これから会う依頼人の寿命が長くない可能性があるということだ。貴之の母親は事故当時、依頼人と同じ三十九歳だった。
貴之は表情をゆがめた。
若すぎるだろ。落ち込んでるんだろうな。どんな対応をすればいいのか、わかんねえよ……。
緊張でハンドルを握る手が汗ばんだ。
貴之は珍しく弱気になっていた。
両親が早くに亡くなっているので、死には敏感なのだ。
それは美優も同じだろう。だから患者が亡くなると、あんなに落ち込むのだ。それでよく命と向き合う仕事をするものだと貴之は感心する。自分では身がもたない。
目的の総合病院に着き、車を駐車場に停める。
暖房がきいていた車内から出ると、さすがに寒く感じた。貴之はグレーのリブニットの上にレザージャケットを羽織った。美優も薄桃のコートを着ている。
ホスピス病棟のある五階でエレベーターを降りると、貴之が思う病院のイメージと違うフロアが広がっていた。
ナースステーションはあるのだが、まるでホテルのロビーのように感じる。壁の一角がガラスになっていて明るく開放的だからか、いくつもソファが置かれて待合室のようになっているからだろうか。
貴之たちはメールに記載されている病室に向かう。木造りのドアをノックすると、内側から「どうぞ」と女性の声が聞こえた。
貴之は名乗りながら引き戸を開けた。
個室の部屋も広かった。
十二畳ほどあるだろうか、机やソファ、棚や冷蔵庫まであり、キッチンやバス、トイレもついている。棚には写真やぬいぐるみなどの私物が飾られているため、うっかり個人宅に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こした。
「わざわざお越しくださって、ありがとうございました」
窓際のベッドには、赤い寝間着を着たショートヘアの女性が上半身を起こして座っていた。華奢で色白だが、貴之が思っていたほど不健康には見えず、胸をなでおろした。むしろ、満面の笑顔を浮かべていて元気そうだ。美優が説明していたように、一時的に緩和ケアを受けているのかもしれない。
「まあ、氷藤さんってこんなにお若い男性だったのね。寝間着で恥ずかしいわ」
「お構いなく」
貴之と美優はコートを脱いで、ベッドサイドにある椅子に腰を下ろした。美優はお見舞いの果物をテーブルに置く。
「依頼内容をお聞かせください」
少々雑談を交えたのち、貴之は本題に入った。メールを打つのもつらいため、内容は会ってから話すと書かれていた。
「夫と子どもたちに手紙を残したいんです。私が死んでからも、何年か先まで届くように」
志津恵は穏やかな表情で言った。
死んでからも。
やっぱり末期の患者だったのか。こんなに元気に見えるのに。
そう思ったが、貴之は極力、表情に出さないように意識した。
「書くのにどれくらい時間がかかるのかしら。二人の子どもには毎年の誕生日に十年分。夫は二年分でいいかな、さっさと再婚したら、むしろ手紙なんて邪魔でしょうしね」
「旦那さんがそんなに早く再婚してしまってもいいんですか?」
思わずという様子で、美優は口を挟んだ。
「いいのよ、私はいなくなるんだから。大事なのは、生きている人の幸せなのよ。私が生きている間は私が一番じゃなきゃ困るけど、死んでまで束縛したくないわ」
「……素敵な考えだと思いますけど、わたしはそんなに割り切れないかもしれません」
美優は複雑な表情になった。
「あなたは若いんだし、健康なんだから当然よ。私の闘病生活、何年だと思ってるのよ。悟っちゃうわよ」
志津恵は朗らかに笑った。
「だからね、合計二十二通の手紙をお願いしたいの」
「その数になると、今日だけでは難しそうですね」
志津恵が家族に伝えたい言葉はいくらでもあるだろう。どれだけ草案に時間がかかるのか、想像もできない。
とことん付き合うつもりだが、貴之はできるだけ事務的な態度に徹しようと、膝の上で拳を握った。
子どもを残して親が先立つ。
自分の境遇と重ねてしまって、ともすると感情的になりかねないと考えたのだ。
志津恵には、どれほど時間が残っているのだろうか。
ふとよぎった貴之の思いを読み取ったように、志津恵は小さくうなずいた。
「先生に、クリスマスは家族で過ごせないだろうと言われています」
一か月もないのか。
貴之は表情がかげるのを隠せなかった。
家族構成を尋ねると、十一歳の長女と九歳の長男、そして四十一歳の夫だという。
「もっと早く思いついていれば自分で書けたのだけど。もう握力があまりなくて、字がよれよれになっちゃうの。天国からの手紙がヘナチョコじゃ、格好つかないでしょ」
志津恵は苦笑した。
「でもね、数か月前までは治そうと必死だったのよ。子どももまだ小さいし、絶対に病気に勝ってやると思って、どんな治療も我慢した」
手術は成功したのだが、無情にもすぐに転移が見つかった。それでも治そうと、自費治療も行ったが、高い医療費がかかるだけだったと、志津恵は淡々と語る。
「ホスピスなんて来たくなかった。ここに来たら終わりだと思ったの。私は死ぬわけにはいかない、まだやれる治療があるはず、病気を治さなきゃいけないのにって」
まるで死刑を求刑されて、刑務所に入るような気持だった。
絶望している志津恵を、ホスピスの担当医は温かく迎えた。
「お疲れさま。よく頑張ったね。治療はつらかったね。まずはゆっくり休みましょう。あなたの痛みやつらさを取り除くのが我々の仕事です。ここは最期の瞬間まで、あなたが自分らしく生き切るための場所なんですよ」
そう言われた志津恵は、すとんと憑き物が落ちた気がした。闘病生活に入ってから、自分らしい日などなかった。
志津恵は治療に費やしていたお金と時間を、自分のしたいことに使うと決めた。
そう、志津恵はカラリと話す。
「抗がん剤をやめたら、また髪が生えてきたの。ちょっと元気になっちゃった。見た目はメンタルにも重要なのよ」
残された時間をどう生きるのか。
そして、死ぬ前に家族になにを伝えるのか。
動けるうちは外出許可を取り、家族で旅行にでかけた。思い出をたくさん作った。
外泊ができなくなって、志津恵は家族に手紙を遺そうと思いついたのだと言う。
「どんなことを書いてもらおうかしら。頭の中で二十二通分考えておいたんだけど、いざとなると変えた方がいい気がしてきちゃう」
貴之はいつものように、許可を取ってからICレコーダーを回し始めた。
話を聞きながら要点をまとめて、その場で志津恵に草案を確認してもらう。
余命は一か月弱だと言っていたが、言葉通りには受け取れない。もっと長く生きるかもしれないし、……もっと短いかもしれない。
しかも、いつも今日のように調子がいいとは限らないだろう。できるだけ早く作業を進めたほうがいいと思われた。
「……こんなにしゃべったのは久しぶりかも。ちょっと休憩」
一時間ほどすると、志津恵は立てたベッドに体重をかけた。息が切れている。
話すだけでも体力を消耗するのか。
貴之は薄い唇をかんだ。いつ消えてもおかしくない灯火を見ているようでつらくなる。
美優は志津恵に確認をして、キッチンで温かいお茶を入れてきた。
「酸素をもらいますか?」
美優が志津恵に尋ねた。
「大丈夫よ、休めばすぐに治るから」
「今日はこのあたりにしましょうか。ここは個室ですし、調子のいい時にこまめに電話で作業を進めませんか?」
さすがに千葉まで頻繁に通うことはできない。それに志津恵としても、対面で話すよりも電話のほうが体力を消耗せずに済むのではないだろうか。
「そうですね、お会いできて、手紙を任せられる方だと安心しましたし。こうして見ると本当に字が綺麗で、お願いしてよかったわ」
志津恵は微笑んだ。
「なんだかその音声、もったいないですね」
「……音声って?」
美優の言葉に、志津恵は首をかしげた。
「録音の声です。手紙を完成させるのに、いろいろな思いを語っていたじゃないですか。それも聴いたら、ご家族は喜びますよ」
「そんな、適当にしゃべっていただけだもの。恥ずかしいわ」
「そうだ!」
美優は表情を輝かせて、パチンと手を打った。
「手紙と一緒に、ビデオレターもつけましょうよ!」
「映像を送るということ?」
「そうです。最近増えているんですよ。わたし看護師なんですけど、遺言書にビデオレターをつけるからって、業者さんが病室に撮影に来たりするんです」
「そんなの遺言書につけてどうするんだ」
貴之は素朴な疑問を抱く。
「もちろん映像の言葉は遺言書としての効力はないようですけど、家族に感謝の気持ちを伝えたり、遺産分割で揉めないように、こういう理由であなたにあげるんですよ、みたいな説明を入れるそうですよ」
「なるほど」
遺言書でも付言事項で家族にメッセージを伝えることができるが、紙だけで知らされるよりも、本人が映像で説明していたほうが、相続人たちも納得感がありそうだ。
「話がそれちゃいましたけど、わたしが水谷さんにビデオレターを勧めたのは、声です」
美優はICレコーダーを指した。休憩に入ってからは録音をとめている。
「わたしが小学四年生の時に、両親は他界しました」
突然の美優の告白に、志津恵は眉を下げて骨ばった細い指で口を押えた。
「写真があるので顔はわかります。でも、もう両親の声を思い出せないんです。親の言葉を脳内再生することがあるんですけど、おそらく、実際の声とは違うと思います。それが、とても残念で……」
ああ、と貴之は声が漏れそうになった。
両親の声を忘れたわけではないのだが、かなりぼんやりとしている。記憶の声が正しいのか、今となっては確かめようもない。
「それにやっぱり、写真と映像ではインパクトが全然違いますよ。お子さんの五年先、十年先の節目のメッセージだけでも、ビデオレターを作りませんか? 水谷さんは綺麗ですもん、この姿をお子さんたちに残してあげましょう!」
「そうかしら……」
志津恵は頬を擦りながら、嬉しそうにする。
「水谷さんは、立って歩けるんですか?」
ベッドの近くの車椅子を見ながら美優が尋ねた。
「ええ、少しなら。車椅子は離れた検査室に行くときに使うの」
「そしたら、おしゃれもしましょうよ! お化粧をして素敵な衣装を着て。撮影はスマホでもかなり画質がいいですよ。どうですか水谷さん」
「……そうね、いいかも」
志津恵は乗り気になってきたようだ。
「ですって貴之さん! ビデオレターも作りましょう!」
ですって、じゃねえだろうと貴之は苦笑した。もはや代筆とは関係ない。
「話すだけでもそんなにお疲れなのに、大丈夫ですか、水谷さん」
貴之は志津恵に意思確認をした。美優に押し切られているようにも見えるからだ。純粋に、志津恵の身体が心配だ。
「ええ。ビデオレターという発想はなかったけど、とても素敵なご提案だと思いました。協力していただけるのですか?」
貴之は、指の背を顎に当ててしばし考えた。貴之は取材で撮影も兼ねることがあるので、撮影機材については問題ない。メイクや衣装担当も心当たりがある。ビデオレターは難なく作成できるだろう。
最大の問題は、志津恵の体力だ。
「主治医とご主人の許諾を得られたら、ビデオレターも進めさせていただきたいと思います」
「ありがとうございます」
志津恵はぱっと表情を明るくして、頭を下げた。貴之の隣りでは、美優が驚いたように見上げてきている。
「なんだ?」
「いえ、貴之さんのことだから『代筆と関係ないだろ』とか言ってごねると思っていたので、意外です」
そのとおり、代筆と関係ないとは思った。以前の貴之なら一蹴していただろう。
美優の無茶振りに慣れてきたのか。それとも、貴之の中でなにかが変化しているのだろうか。
不思議なことに、ビデオレターの提案を断るという発想は浮かばなかった。
ともあれ、主治医の許可がおりなければ始まらない。
担当の看護師経由で主治医に確認すると、案外とあっさり許可が出た。
夫はあと数時間で面会に来るはずだと志津恵が言うので、貴之たちは草案を作成しながら夫を待った。
「水谷さんは、どうしてそんなに強いんですか?」
何度目かの休憩中に、美優が志津恵に尋ねた。
子どもへの手紙には、どのように成長しているだろうか。有意義な一年であったか。自分はその年齢でこんな壁にぶつかったが、こんな対処が有効だったと、成長を見守りながら、将来へのヒントや気づきを得られるメッセージになっていた。
どれも愛情溢れる言葉ばかりだ。
草案作成の間、志津恵は貴之たちにも愚痴や泣き言を一切言わなかった。
「強くなんてないですよ」
ベッドに寄りかかっている志津恵は、目を閉じたまま答えた。呼吸が浅い。臓器が弱っていて、深い呼吸ができないのかもしれない。
「人生のリミットが決まっているんです。刻一刻と死が近づいている。怖くないはずがありません。毎日、夜になると一人で泣いています」
「……すみません」
美優は声を落として謝罪した。志津恵は「いいのよ」と微笑む。
怖くないはずがない。当然だ。
美優が質問したとき、貴之も浅慮な問いだと、志津恵に申し訳なく思った。
ただ、美優の気持ちもわからなくはない。
志津恵は見た目は筋が浮くほど痩せ細っているのに、大樹のようにどっしりとした雰囲気がある。つい尋ねたくなるほど、慈愛に満ちて余裕があるように見えるのだ。
しかしそれは本人が語っていたように、生きようと足掻いて苦しんで闘ったからこそ、たどり着いた境地のはずだ。
「……私、考えるんですよね」
志津恵は薄く瞳を開く。睫毛も眉毛も薄い。抗がん剤で毛が抜けたせいなのかもしれない。
「突然事故で亡くなるのと、こうして病気でじわじわと死んでいくのと、どっちがいいんだろうって」
ドキリとした。
志津恵の年齢と貴之の母親の享年は同じなのだ。
「事故の場合は突然のことだから、死に向かう恐怖がないですね。そこはメリットと言えるかもしれない。でも、伝えなければいけないことがあったかもしれないのに、意思を残せない。そして遺族も突然の死に戸惑うでしょうね。もっとああしておけばよかったと後悔するかもしれない」
確かに、そのとおりだ。貴之の中に後悔はたくさんある。
「病気の場合は、だんだん体力がなくなって、痛みに苦しむことになる。毎晩、明日は目覚めないかもしれないという恐怖にも襲われる」
だけど、と続ける志津恵の瞳に光がさした。不思議なことに、彼女の結膜は生まれたての赤ん坊のように純白で澄んでいる。
「残された時間で思い出を作ることができるし、死を迎える心の準備も整えられる。必要事項の引継ぎもできるわね。家族も同じで、限られた時間の中で後悔しないように行動できるし、死と向き合う覚悟ができる。とにかく時間があることが最大のメリットね」
志津恵は温かいお茶を口に運んだ。
「どちらがいいかなんてわからないけど、家族に愛され、こうして家族のために言葉を託すことができる。最期まで自分らしくいられる私の人生は、そんなに悪いものじゃないと思えるんです」
志津恵の静かな笑みは、どこかで見た菩薩と重なった。
「水谷さんから毎年、思いのこもった手紙が届くお子さんたちは幸せだと思います。わたしも欲しかったです……」
志津恵は美優の手に、そっと細い手をのせた。
何度も点滴の針を刺されたからだろう、志津恵の腕から手の甲にかけて、内出血で紫色に変色していて痛々しい。
しかしそれは、志津恵が病魔と闘ってきた証でもある。
「空想の手紙ってどうかしら」
「空想の手紙?」
「毎年、母親から届くのならどんな手紙なのだろうと想像するの。そして、母親に胸を張れるように行動するのよ」
美優は大きな瞳を見開いて、またたかせた。そして前のめりになる。
「わたし、両親ならどうするかなって考えて行動しています。それで、両親ならこう言ってくれるかなって、想像することもありますっ」
「なら、もうしているのよ、空想の文通。ご両親とずっと心の中で対話しているのね」
「はい、対話しています。虚しくなることもあったんですけど、それ以上に救われました。……空想の文通……。なんだか、いい響きですね」
胸を押さえながら呟く美優を、志津恵は微笑みながら見つめた。
そこに、ノックの音と共に引き戸が開いた。
「調子はどうだ。あっ……、すみません、来客中でしたか。出ていようか」
入ってきたのは四十歳前後のスーツ姿の男性だ。志津恵の夫だろう。後半は志津恵に話しかけていた。
「いいえ、この方たちは、あなたを待っていたのよ」
志津恵は貴之たちが代筆屋なのだと説明し、ビデオレターを撮影する予定だが構わないかと夫に尋ねた。
「先生は、病室で撮影するなら急変しても対応できるから構わないと言ってくれたの。いいでしょ?」
「そんな計画を立てていたのか」
夫は貴之たちとは反対のベッドサイドの椅子に腰を下ろす。中肉中背で目鼻が大きく、愛嬌のある顔をしている。
「手紙は子どもたちの励みになると思う。ビデオレターもさっと撮るだけなら構わない。でも、着替えるだのメイクするだのと、そんなに大掛かりにしなくてもいいんじゃないのか」
夫は渋い顔をする。
「こんな寝間着姿が映像に残るなんてイヤよ。子どもたちに、自慢のお母さんだと思ってもらいたいじゃない」
「普段とあまりに違うことをするのは賛成できない。着替えの時に怪我をしたら、それがきっかけで寝たきりになるかもしれないし、変に興奮して体調が悪くなるかもしれない」
「あなた」
志津恵は口調を改めた。
「私がどんなに大人しくしていても、一か月程度の命なの。そのなかで、あなたや子どもたちに残せることはなにかって、いつも考えてるのよ。数日命が削れたっていいじゃない。残したいかたちを見つけたからお願いしているのよ」
「命を削るって……」
志津恵は絶句する夫を見上げた。
「こうなってから私、考えるの。産まれは選べないけど、死に方は選べるんだって。私はやれることはやり尽くしたと思って死にたいのよ。子どもたちにも、私たちの間に生まれてよかったと思ってもらいたいの」
夫婦はしばらく見つめ合い、志津恵の意思が固いことを確認すると、夫はため息をついた。
「わかったよ。おれも立ち会う」
「ありがとう、あなた」
志津恵は夫の背中に両腕を回した。
「おいおい、随分熱が高いぞ」
夫は志津恵の額に手をのせた。
「そうかしら。考えながら随分としゃべったから、知恵熱かしらねえ」
「すみません、家内を休ませますので、ビデオレターの件は改めて連絡します」
「はい。長居をしてしまってすみません」
貴之たちは謝罪をして部屋を出た。
夫は志津恵が代筆を頼んでいることも知らなかったようだ。ビデオレターの話が出るまでは、志津恵は夫にも、死後に定期的に手紙が届くことを内緒にしようとしていたのかもしれない。
「水谷さん、ものすごくパワフルな方でしたね! ……あと一か月の命だなんて、嘘みたいです……」
感嘆したような美優の声は、だんだん小さくなった。
「そうだな」
死の間際だからといって、誰もがあれほど達観できないだろう。正反対の行動をする者もいるはずだ。
死にまつわる代筆を頼まれるのは初めてではないが、貴之の心は大きく揺さぶられた。
「貴之さん、手紙もビデオレターも、最高のものを作りましょうね! どの仕事も全力が大前提ですけども!」
美優が拳を握りながら見上げてくる。
「わかってるよ」
言われなくても、貴之もそのつもりだ。
それからは夫が窓口になり、手紙の草案やビデオレターの打ち合わせを進めていった。ただし、夫宛ての手紙についてだけは、引き続き志津恵と直接やりとりをしていた。
そして迎えた、ビデオレター撮影の当日。再び貴之と美優は志津恵の病室に来ていた。志津恵は一週間ほど前に会った時よりも血色がよく元気に見える。
今回はスタイリスト兼メイクアップアーティストとして、代筆屋の客でもあった上杉冴子を呼んでいた。
冴子を車で自宅まで迎えに行くと、シンプルなパンツスタイルで、大荷物を持って現れた。相変わらず美人でスタイルがいい。
大型のキャリーバッグが二つに、そのほかにも折り畳みのハンガーラックなどがあり、貴之が車に詰め込んだ。
「すっごい量ですね! スタイリストのお仕事って、いつもこうなんですか?」
美優は目を丸くしている。
「いつもよりちょっと多めかしら。水谷さんの写真は事前に見せていただきましたけど、会うとまた印象が違うかもしれませんから。亡くなってから子どもたちに届くビデオレターですから、水谷さんに百%納得してもらわないといけません」
冴子はかなり協力的だった。ありがたい。
車を走らせると、後部座席に座った冴子はバックミラー越しに、茶目っ気を含んだ瞳で貴之を見た。
「あの日の取材が偽物だったと主人に聞いて、びっくりしましたよ。おかげで銀婚式に素敵な手紙をいただけましたけど。あの手紙は仕事部屋の一番目立つところに、額に入れて飾っています」
「それはどうも、ありがとうございます」
貴之は少々ばつが悪く、控えめに礼を言った。夫婦のセンシティブなところをつついた自覚があった。
「その後、お二人の関係はいかがですか?」
「悪くなっていたら、手紙を飾っていません」
冴子は口元に指先を当ててコロコロと笑う。
「倒れる前の主人は、家族なんていてもいなくてもどちらでもいい、という態度でしたから、手紙を読んで驚きました。こんなに感謝されていたんだって。もう主人は私から離れないだろうと安心して、主人に甘えられるようになりました」
おっと、のろけられてしまったか。
自分の書いた手紙でますます仲が深まっているのなら、代筆屋冥利に尽きるというものだ。貴之もミラー越しに冴子に笑みを返した。
それにしても、こんな美人妻に甘えられるなんて、ご褒美以外の何物でもないだろう。
「貴之さん、いま、変なこと考えましたね?」
隣りに座る美優が、なぜか目をとがらせている。
「変なことってなんだ」
「なんだか、いやらしい目をしていますっ」
「言いがかりはやめろ」
そんなやりとりをしながら、志津恵の病室に大量の荷物を運びこんだのだった。
貴之も撮影機材がそれなりにある。美優が言っていたようにスマートフォンでも撮影できるが、可能な限り美しく仕上げたいという思いがあった。
「なんだか、ファッション誌のモデルになった気分」
志津恵は大量の衣装と撮影機器に囲まれて、照れ笑いを浮かべた。
まずは衣装の選定だ。
ビデオレターごとに衣装を替えるので、複数選ぶ必要がある。志津恵が冴子と相談しながら選んでいった。
服が決まってから、ヘアメイクを始める。ショートヘアを活かし、フェイスラインを引き立てる。ベースメイクで肌に透明感と明るさが加わっただけでも印象が変わるのに、パーツが立体的になることで華やかな相貌になる。
「これが、私……」
鏡の前で志津恵が確かめるように頬に手を添えた。
「あなた、どうかしら」
一着目の衣装を身に着けた志津恵が、はにかみながら夫に尋ねた。
白いスリーブニットで細すぎる身体をカバーし、指先のみ露出させるいわゆる“萌え袖”で甲の内出血を隠していた。トップスにボリュームがあるので、ボトムスは黒いスキニーパンツで締めている。
「よく似合ってる。綺麗だ」
夫の言葉に、志津恵は満足そうに微笑んだ。
「水谷さん、どうぞこちらへ」
撮影場所もビデオレターごとに変える。とはいえ、志津恵の体力的に移動するわけにはいかないので、部屋の中での話だが。
一か所目は窓際だ。白い遮光カーテン越しに、淡く光が差し込んでいる。
貴之は設置した頭上のライトを点灯させて、三脚にカメラをセットした。
「ミュウ、これで照らしてくれ」
折り畳み式の丸レフ板を渡す。広げると四倍ほどになり、女性の両手いっぱいほどの大きさになる。
「おおっ、広がりますね」
本格的な撮影セットに、美優は胸躍っているようだ。
一つ目のビデオレターは、五年後の長女に向けてのものだ。
志津恵は夫に支えられながら移動して、椅子に座って姿勢を正す。筋力が弱っている志津恵にとって、背筋を伸ばした状態を維持するだけでも体力を消耗するだろう。
「回します。どうぞ」
貴之が合図をした。志津恵はカメラに向かって、長女の名前を呼びかけた。
「高校入学、おめでとう。新しい生活と出会いに、胸をときめかせていることでしょうね」
手紙は全て誕生日に宛てたものだったので、ビデオレターはそのほかの特別な日に向けてのメッセージにしたようだ。
「高校生活の三年は大切よ。部活やアルバイトもいいけれど、志望の大学に行くために勉強をしっかりしてね。つまらないかもしれないけれど、大事なことよ。大学では同じ志しの人が集まっているんだもの。一生付き合うことになる人とたくさん出会えるのよ。なにを隠そう、お母さんも……」
志津恵はフレーム外の夫に目を向けて笑った。
「お父さんとは大学で出会ったの。素敵な人と出会えたときのために、付き合うための必勝法を授けましょう」
志津恵は持っていたノートをカメラに向けた。
「ジャン。お母さんのマル秘レシピノートよ。料理のコツがいっぱい書いてあるから、今からちょくちょく料理を作っていれば、大学生になったときには料理上手になっているわよ。相手の胃袋を掴めばこっちのもの」
そう力説する志津恵に、夫は苦笑している。
「説得力がありますね。わたしはもう、貴之さんに胃袋を掴まれていますから」
美優が背伸びをして、小声で話しかけてくる。
「バーカ、黙ってろ」
貴之は人差し指でつむじを押しながら、美優を元の位置に戻した。撮影中になにを言い出すのか。
志津恵はいくつか高校生活でしておいた方がいいポイントを話し、締めの言葉に入る。
「次は誕生日に手紙を送ります。ビデオレターは五年後ね。じゃあ、またね」
志津恵は手を振った。
カメラをとめると、志津恵は笑顔のままぐったりと椅子に寄りかかった。
「少し横になったほうがいい。お時間をいただいてもいいですか?」
夫は志津恵をベッドに運びながら貴之に確認する。
「もちろん、そのつもりでスケジュールを組んでいます。無理だと思ったら、遠慮なく言ってください。また別日にセッティングすればいいだけですから」
「ありがとうございます。でも大丈夫。昨日から撮影が楽しみで眠れなかったくらいなの。それに今日はすごく調子がいいのよ」
志津恵はベッドに横たわりながら、首を横に振った。
「横になったら、髪がつぶれちゃうかしら?」
「すぐに直せるので、心配しないでください」
冴子が次に着る衣装にスチームアイロンをかけながら微笑んだ。
――休憩を取りながらも、無事に六本の動画を撮り終えた。動画自体は一本五分にも満たないが、一日がかりの大仕事となった。
志津恵の夫も、自分宛てのビデオレターの撮影や志津恵の着替えのたびに廊下に追い出されたりしながらも、ビデオレター作成を楽しんでいるようだった。
それは終始、志津恵が笑顔だったからだろう。本人がこのイベントを一番楽しんでいた。
「みなさん、本当にありがとうございました。こんなに素敵な動画を撮れるなんて、思ってもいませんでした。あの子たち、驚くだろうなあ。どんな顔をするのかしら。泣いちゃうかもしれないわね」
にこやかだった志津恵の表情が沈んでいく。
「見たかったな」
それは貴之たちが見る、志津恵の初めての表情だった。
「あの子たちに直接、お祝いを言いたかった……」
長丁場の撮影で体力が落ち、そして撮影終了で気がゆるんで、表情を繕えなくなったのかもしれない。
そこからはダムが決壊するように、志津恵の表情が崩れていった。涙が落ちる前に、夫がベッドに横たわる志津恵の顔を引き寄せる。志津恵の肩が大きく震えた。嗚咽を漏らさないのは、まだ客人がいるからか。
貴之たちは二人に声をかけて、静かに退室した。
こうして、長いようで短い一日が終わった。
それから志津恵とは手紙の件で数日間電話のやりとりをして、無事に二十二通の草案が出来上がった。
急ぎの作業は終わった。二十二通の手紙の清書と六本の動画編集は、ある程度時間をかけてもいい。一番早いものでも、来年贈るものなのだから。
それらは志津恵の思いのすべてが、魂が込められたものだ。貴之としても、全力で向き合わなければならない。隙間時間で簡単に手を付けられるものでもないので、まとまった時間を作って、集中して作業をしようと決めていた。
ビデオレター撮影から二週間近く経った日の午後。
貴之がパソコンに向かって原稿を書いていると、志津恵の夫から電話があった。
志津恵が亡くなった、という知らせだった。
本日、荼毘に付されたという。
貴之は携帯電話を握ったまま、しばらく動けなかった。
なんとかお悔やみの言葉を絞り出したあと、貴之は「早かったですね……」と呟いた。
あの手紙やビデオレターの作成は、やはり、志津恵の命を削っていたのだ。
「あの撮影のあとの数日間は、かなり体調がよかったんです。それこそ弾んだ心に引っ張られて、免疫力が高まっていたのかもしれません。一時帰宅の許可まで出て、子どもたちとも遊んでいました。あの撮影がなければ、ここまで回復していなかったと思うんです」
夫は心なしか声を弾ませた。
「……それでも、病は消えてくれませんでした。急変してからはあっという間で、苦しまなかったはずだと担当医は言っていました。妻は“自分らしく”を最期まで貫きました。氷藤さんには感謝しています」
電話の向こうで、夫が頭を下げている気配がした。
「ただ……」
夫はそこで言葉を切った。なかなか次の言葉が出てこない。
「どうしましたか?」
「志津恵の両親がビデオレター撮影のことを知って、怒ってしまって」
――志津恵に無理をさせたから早く死んでしまったんだ。
――もっと長く生きられたに違いないのに!
「きちんと説明はしたのですが、理解しているのか怪しい。義父母は遠方から来ているので、もしかしたら今日、帰る前にそちらに寄るかもしれません。ちょっとその、気性が激しいので……。そのお知らせをしようと、電話をしたんです」
なるほど、状況は把握した。
突然、事務所に押しかけてきた美優を思い出す。今度は心の準備ができるだけでもありがたい。
貴之はもう一度お悔やみを述べて、電話を切った。手紙などを納品する際、線香をあげさせてもらおう。
「水谷さんが……」
貴之は両手で顔をおおった。
初めて会った時にも、余命は一か月ないと言っていた。あれから三週間ほどなので、いい表現ではないが、誤差の範囲といえるかもしれない。
いや、医師は親族からのクレームを恐れて、本来よりも少し短めの余命を伝えるケースが多いと聞く。ならば志津恵は予定よりかなり早く亡くなったのか――。
そこまで考えて、貴之は頭を振った。
そんな細かいことは、どうでもいいのだ。
志津恵が亡くなった。
その事実が、胸に重くのしかかった。
志津恵は菩薩のような笑顔の下で、持ち合わせた燃料を全て使い切ろうとするかのように、手紙に心血を注いでいた。
人の生というのは長さではない。どれだけ生きるのかではなく、どうやって生きたのかなのだと、志津恵に教えられた気がする。
短い人生だからと言って、必ずしも不幸になるわけではない。
不意に亡くなった貴之の両親は、志津恵のように思いを引き継ぐことができなかった。だからこそ、どれだけ貴之が親の意思を受け取れるかが重要なのではないか。
改めてそんなことを考えていると、インターフォンが鳴った。
「早速来たか……、ん?」
モニターを見ると、マンションのエントランスには、見慣れた薄桃色のコートを着た女性が立っていた。
「今日はなんの用だ」
一応、美優を玄関に迎え入れてやりながら貴之は尋ねた。
「水谷さんが亡くなったと、旦那さんから伺ったので」
「そうか……」
よく見ると、美優の目の下は赤く腫れていた。今まで泣いていたのかもしれない。
「しかも、ご両親がクレームを言いに来るというので応援に来たんです。せめて二対二にしないと」
「……二対二?」
美優は大まじめな表情だ。
これは数の勝負ではないのだが。しかも、クレームで押しかけてきた第一人者のくせに、どの口が言うのか。
「志津恵さんの強い意志による依頼でしたし、すごく喜んでいたんですから、貴之さんは悪くありません。でも、ご両親は深い悲しみの中で混乱しているはずです。ご両親が納得するのなら、わたしは土下座もいといません!」
美優は拳を握った。
「土下座要員」
そういう意味の応援なのか。
そこに、またインターフォンが鳴った。
モニターには、七十歳前後の男女が映っていた。今度こそ志津恵の両親だろう。
「来ましたね。練習しておきましょうか」
「なんの練習をするつもりだ。いいから、なにか甘いものと温かいお茶を用意してくれ」
貴之は膝をつこうとしている美優の肩を叩いて、仕事部屋に入った。
目的のものを手にして応接間に戻ると、ちょうど玄関の呼び鈴が鳴るところだった。ドアを開けると、髪がほとんど白くなった、喪服姿の老夫婦が玄関に入ってきた。葬儀のあと、そのままここに来たようだ。
「おまえが代筆屋なんてわけのわからない仕事をしている男か」
父親が不快感を隠しもせずにそう言った。
「はい。お話は奥で伺います」
貴之は二人を応接間に通してソファに座らせた。名刺を渡してあいさつをする。父親はチラリと見ただけで投げるように名刺をテーブルに放り、正面に座る貴之を睨んだ。
「手紙なんぞで金が取れるとは、楽な商売だな。昔は汗水たらして働くしかなかったのに、腑抜けた時代になったもんだ」
むっとして前のめりになった美優のひざに手をのせて、貴之は制した。
「先が短くなると、詐欺師がどこからか湧いてくる。老人ばかりではなく、病人にまでたかるとはけしからん。なにがビデオレターだ。金だけでは飽き足らず、命まで奪って、恥ずかしくはないのか」
父親はローテーブルを拳で叩いた。湯呑に入っていた四人分のお茶がこぼれる。隣りに座る母親は黙っているが、同じ意見のようだ。
美優は怒りをこらえるように顔を真っ赤にして、拳を震わせていた。そのおかげで、貴之は冷静になれた。小さく深呼吸をしてから口を開く。
「お二人は、ビデオレターをご存じですか?」
貴之は落ち着いた声で、あえてゆっくりと話した。先方のペースに合わせてしまうとどんどん早口になり、ヒートアップしてしまいかねない。
「バカにするな、それくらいわかるわ。結婚式で流れるような、チャラチャラした映像だろう」
「水谷志津恵さんは、残り少ないと自覚している貴重な時間を使って映像を作りました。どれだけの思いが詰まっていると思いますか?」
「だから、おまえらが唆したんだろう。その時間で子どもたちと過ごした方が、どれだけ娘や家族のためになったと思うんだ」
「やはり、見ていただいたほうが早いですね。本当は、一周忌にお二人に渡してほしいと水谷さんに頼まれていたビデオレターです」
「私たちに……?」
母親が口を開いた。
志津恵はビデオレターを六本撮った。
長女に二本、長男に二本、夫に一本、そして、両親に一本。
「まだ編集前のものですが、どうぞ」
貴之は部屋の照明を一段落として、用意していた動画をモニターに映した。
映像は志津恵の顔が大写しになっている。「もうしゃべっていいの?」「どうぞ」というやりとりから始まった。
* * * *
「お父さん、お母さん、元気ですか? この映像を見ている頃には、私がいなくなってから一年経っていると思います。少しは落ち着いたかなと思って、この時期を選びました。でも、一年なんてあっという間だよね」
画面いっぱいの志津恵が朗らかに笑う。この映像から二週間足らずで亡くなるようには、とても思えない。
「一番の親不孝は、子どもが親より先に死ぬことだってよく言うよね。本当にごめんなさい。ここ最近ずっとそう思っていたんだけど、さすがに直接言えなかったから、この場で謝ります。私もできるなら、ちゃんとお父さんたちを看取ってから死にたかったんだけどね、こればかりはどうにもならなかったね」
「志津恵……」
母親が涙ぐむ。
「あまり湿っぽい話をしても仕方がないよね、もう一年経ってるんだしさ。それより、見せたいものがあるの。ジャン。これ、覚えてる?」
カメラが少し引き、志津恵の上半身までが映った。子ども用のライムグリーンのワンピースを手にしている。
「もちろん、覚えてるわよ」
母親がモニターに向かって返事をする。
「私がアニメのお姫様に憧れて、あのドレスが欲しいって駄々をこねていたら、お母さんが手作りしてくれたんだよね。気にいっちゃって、毎日着てた。破いたり汚したりしたけど、そのたびお母さんは直してくれたよね。ボロボロになっても捨てられなくて、ずっと持ってたんだ。お父さんも自転車を改造して馬車みたいにしてくれて。あれもすごかったなあ」
「まだ、持っていたの……」
母親が呟いた。
映像の中の志津恵は立ち上がる。
「それでね、見て、このドレス」
カメラが更に引いて、志津恵の全身が映る。手に持っている子ども用のワンピースと同じデザインのドレスを志津恵は着ていた。
「今日、ヘアメイクとスタイリストを担当してくれた冴子さんが、このドレスを作ってくれたの。すごいでしょ? またこのドレスを着られるなんて夢みたい。お母さんたちに見てもらいたかったんだ。この服を着ていると、あの頃に戻った気がする。毎日、お父さんとお母さんと遊んでもらっていた、あの頃……」
志津恵がよろけた。
「志津恵っ」
画面外から夫が飛び込んできて、志津恵を支えた。
「大丈夫か?」
夫は志津恵をそっと椅子におろした。志津恵は「大丈夫」と返事をする。
「お父さん、お母さん、子どもたちはまだ小さいから、気にかけてあげてください。それから、彼に好きな人ができた時には、応援してあげてください」
「志津恵、なに言ってるんだ」
隣りにいる夫が窘める。
「だって、両親があなたの幸せを邪魔したら嫌だもの。うちのお父さん、カッとしやすいから嫌味とか言いそう。本当にやめてね、お父さん。みんな前に向かって歩いてほしいの。それはお父さんとお母さんも同じだからね」
志津恵はカメラを真っすぐに見つめた。
「お父さんたちも、人生まだ長いんだから。毎日笑って過ごしてくれる方が、私は嬉しい。きっとこの一年、いっぱい泣いたり悔しがったりしてくれたんでしょ? それで充分だから。悲しませちゃって、本当にごめんね」
志津恵は申し訳なさそうな表情を、笑顔で振り払った。
「私は先に行って天国をリサーチしてきます。お父さんたちが来たら、案内できるくらい詳しくなっておくよ。そんな日は、ずっとずっとずっとあとでいいからね。ゆっくり来てください。気長に待ってます。じゃあ、またね」
志津恵は笑顔で手を振った。
* * * *
映像は続いている。
「オッケーです」
これは貴之の声だ。
「これで六本目、すべて終了! 疲れたぁ」
志津恵はそう言って、隣りにいる夫にもたれた。
「お疲れさま。撮影が長引いたな。無茶するなよ」
「娘としては、親にもメッセージを残しておかないとね。特にお父さんが心配なんだよなあ。いろんな人に八つ当たりしてないといいけど。酒量が増えないかも心配。お母さんも、一気に老け込みそうで怖いよ。せっかく綺麗な、自慢のお母さんなのに」
「大丈夫だよ、おれも様子を見に行くし。ほら、さっきより熱が高くなってるんじゃないか? もう寝ろ」
夫は志津恵の額に手を当てた。
「じゃあ、ベッドまで抱っこで運んで。ドレスを着てるし、これが本当のお姫様抱っこね」
「こんなに人がいるのに」
「いいじゃないですか、素敵です!」
美優の声が入る。
「じゃあ……」
夫は志津恵を抱き上げた。志津恵は幸せそうに、夫の首に腕を回した。
映像は、そこで切れた。
「志津恵」
母親は白いハンカチで顔をおおった。今日一日で何度も拭ったのだろう。ファンデーションのついたハンカチはかなりよれている。
貴之はモニターを消し、部屋の明かりを戻した。
「もちろん、家族の時間は大切だと思います。重要な言葉は、直接伝えてもらいたいのが人情です。でも映像ならこうして、生きている水谷さんを半永久的に残します。何度でも繰り返し、この笑顔を見ることができます。水谷さんは家族に、そしてご両親に、それらを残したかったんじゃないでしょうか」
貴之が語り掛けると、二人はうつむいて黙り込んだ。母親のすすり泣きが聞こえる。
「……きみ、さっきは怒鳴ったりして、悪かったね」
しばらくして父親がぽつりと謝った。
「志津恵がビデオで言っていたように、俺はどうにも短気でな。ちょうど今日だよ。元々志津恵に面会に来る予定だった。離れているもんでな、そうそうこっちに来ることができなかったんだ。生きたあいつに会えるものだと思っていたから、その機会を奪われたと、頭に血がのぼってしまった」
父親は背中を丸めて「すまなかった」ともう一度謝った。来た時よりも、随分と縮んで見えた。
「気にしないでください。大切な家族を失う悲しみはよく知っています。ぼくらも両親を亡くしていますから」
「まあ……、そうでしたか。お若いのに大変でしたね」
母親は同情したように白髪交じりの眉を下げた。
「そのビデオレター、持ち帰らせていただけますか?」
「編集前ですけど、いいですか?」
「ええ。お姫様抱っこをされている志津恵の笑顔がとても素敵だもの」
母親はまたハンカチで目元を拭う。
余計なところをカットして音楽をつけるなどの編集をしようと思っていたが、もともと無修正ヴァージョンもセットで渡すつもりだった。
カメラが回っていないと思っている時のほうが、志津恵は自然な動きをしていたので、貴之はあえてすぐに録画をとめなかった。そちらも親族に喜ばれるだろうと考えていたのだ。
「動画はDVDに入れていますが、もし再生方法がわからない場合は、気軽に連絡をください。ちなみに、無料です」
貴之は冗談めかして言った。金の亡者のように言われた仕返しの皮肉ではない。この父親ならば、料金を心配するだろうと思ったまでだ。
「そうだ、さっきは代筆屋のことを散々に言っていましたよね。楽な商売だとか、詐欺師だとか。誤解が解けたなら謝ってくださいっ」
美優は身を乗り出して、ずいっと父親に迫った。
「ミュウ、いいから。もう謝ってくれただろ」
「あれは怒鳴ったことに対してじゃないですか。いいですか、代筆屋というのはですね……」
美優がとうとうと代筆屋について説明し始めた。貴之でさえ呆れるほど美化されている。
「どんなに素晴らしい仕事か、よくわかりました」
キリのいいところで、母親が美優の話を遮った。
「本当にごめんなさいね。お兄さんが侮辱されて、許せなかったのね」
慰めるように、母親が美優の頭をなでた。
「お兄さんって……」
美優は絶句した。
その間に二人は、「そろそろ帰りましょうか」と荷物を持ってコートを着始めている。
「違います、わたしたちは兄妹じゃありませんっ」
「あら、そうなの? お二人ともご両親を亡くされたって……」
「わたしも貴之さんも同じ事故で両親を亡くしていますが、決して兄妹では……」
「ややこしいんだよ。別にどっちでもいいだろ」
貴之は美優の頭を鷲掴みにして、ポイッと後ろに下げた。
「えっ、全然よくないんですけど!」
緊張感がほぐれた途端に美優が騒ぎ出したので、とにかく穏便に志津恵の両親を送り出した。
「やれやれ、コーヒーでも飲むか。ミュウもいるか?」
「ミルクとお砂糖、いっぱい入れてください!」
美優は不貞腐れている。
貴之は苦笑した。美優は下手をすると高校生くらいに見えるので、仕事のパートナーというよりも、兄妹といったほうがしっくりきそうだ。あの夫婦が間違えるのも無理はない。
美優はしばらく機嫌をそこねていたが、ついでに生クリームホイップを乗せてやった甘いカフェラテを飲んで落ち着いてきたようだ。
「それにしても、代筆仕事は時間がかかるようになったな。ヒアリングは会うようになったし、まさかビデオレターを作成することになるとは思わなかった。押しかけて来るクレーム対応もあるしな」
貴之はソファーに深くもたれて、ホットコーヒーで温まった息とともに小言を零した。不平不満というよりも、事実の羅列のつもりだ。
「急に押し掛けるなんて、本当に迷惑ですよね」
美優がうんうんと同意する。
いや、最後のはおまえに対する当て擦りだったんだが。
そう思いながら、貴之は足を組み替えて苦笑する。
「これじゃあ副業じゃなくて、ボランティアに近くなってきたな」
「それを言ったら、わたしなんて完全にボランティアじゃないですか。一銭ももらっていませんから」
言われてみれば、確かにそうだ。
「ミュウが呼んでくれと頼んできたんだろ」
「心配だったんですよ。貴之さんはひねてる感じで、表情も冷たかったし、代筆屋さんとして大丈夫かなって」
「悪かったな」
貴之は眉をしかめた。確かに、少々ドライな対応だったという自覚はある。
「それは表向きの口実ですけど……」
「なんだって?」
「いえ、なんでもありませんっ」
美優の声が小さくて聞き返したのだが、美優は慌てたように顔の前で手を振った。独り言だったようだ。
「貴之さんと初めて会ってから、三か月以上経ちますよね。その間に、貴之さんの印象は随分変わりました。柔らかくなったし、ちゃんと笑うようになりました」
「ちゃんと?」
「はい。貴之さんは初め、作り笑いばかりだったじゃないですか」
そうだろうか。
指摘が正しいとして、親しくもない者を相手にしていれば、誰でもそうなのではないか。
そう考えて、貴之は腹落ちする。
貴之は単純に、美優を他人だと思わなくなったのだ。
「それに、相手に寄り添った、とても丁寧な仕事ぶりになりました。依頼されるかたたちは、安心して貴之さんに代筆を任せていると思います」
美優は感慨深そうに言う。
「じゃあ、もうミュウを呼ばなくてもいいな」
「と思いましたがまだ心配なので可能な限りついて行きます!」
美優は早口にまくしたてた。
結局、来るのか。
ならば、美優の待遇を考えなければなるまい。費用対効果を重んじる貴之としては、いつまでもタダ働きをさせては流儀に反する。
そこで美優は、両手で口を押えながら小さなあくびを嚙み殺した。
「ほら、看護師の仕事だって忙しいんだろ」
「忙しいというより、日勤と夜勤が半々のせいか、うまく眠れない日があるんです。でも、ここのソファだと、なぜかよく眠れるんですよ」
それでよくうちに寄るのか。
美優は早くに両親を亡くしている。人恋しさから、人の気配があったほうが安心して眠りやすいのかもしれない。
「水谷さんが言っていましたけど」
美優は両手で持ったカップに視線を落としながら言った。
「事故と病気、死に方としてどちらがいいかって、わたしも考えたことがあります。やっぱり答えは出ませんが、手紙やビデオレターは羨ましいなって思いました」
手紙で、映像で、時間を越えて親と子の記憶を繋ぐ。
志津恵にとっては、それが思い出のワンピースだった。美優はナポリタンだろうか。
俺の場合は……、やっぱり文字なのかな。
中学に上がるころには父の字にそっくりで、模写をしているんだと言うと、父は照れながらも喜んでいた。母も字を書かなければいけない場合に貴之に頼むことが増え、父にしていたように褒めたたえてくれたものだ。
事故から十四年。
両親の死があまりにつらくて、ずっと目をそらしてきた。いい思い出もたくさんあるはずなのだが、何重にも鍵をかけた箱に詰めて、記憶の奥底にしまい込んでいた。
そろそろ箱を開けて、両親との思い出に浸ってもいいかもしれない。あまりに避けていると、大事な記憶まで薄れてしまう可能性がある。
そう貴之が思うのも、ちょうどいい区切りの日が近づいているからだ。
約十日後。
クリスマスが、両親の命日だ。
これまで周囲が赤と緑に浮かれていても、貴之の心は真っ黒で、楽しむことなどできなかった。
「なあ、ミュウ」
「なんですか?」
飲み干したカップをローテーブルに置きながら美優が返事をする。
「俺たちも手紙を書こうか」
「貴之さんはいつも書いてるじゃないですか」
「だから、ミュウもだよ」
「わたしが、誰に?」
「死んだ両親に」
「……え?」
美優が動きをとめた。
「話しているうちに思い出が鮮明になることがあると思う。だから一人で書くよりも、代筆のほうがいい手紙になる気がするんだ」
「つまり、交換の代筆ですか? わたしは貴之さんの気持ちを聞いてご両親への手紙を書いて、貴之さんはわたしの話を聞いてわたしの両親宛てに手紙を書く?」
「そう。それで命日に墓参りをして手紙を添えよう」
「それって、事故当時の話をしなければいけませんよね……」
美優は動揺した様子で、明らかに顔色が悪くなった。
「ミュウ?」
「すみません、ちょっと考えさせてください!」
美優は荷物とコートを持って、貴之の部屋を飛び出していった。
貴之は眉を寄せる。
「それは名案ですね!」
などと、すぐに同意を得られると思っていたのだ。
予想とはまったく違う反応だった。
いつも明るく元気な美優。
両親だったらどう行動するかと考えて、前向きであろうとしていると言っていた。
とっくに両親の死を乗り越えているように見えた。
それと同時に、無理をしているように感じる場面もあった。
「もしかしてあいつ、俺以上にこじらせてるんじゃねえだろうな」
貴之は閉じた玄関のドアをしばらく眺めていた。