恋文が苦手な代筆屋のウラ事情~心を汲み取る手紙~ 1章(2/6)

  一章 キライをスキになる方法


 スマートフォンの振動音で、貴之は目を覚ました。

 頭の奥が重い。

 昨日、飲みすぎたか。

 貴之は目をすがめ、ボリュームのある黒髪をかき上げた。

 いくらアルコールを飲んでも酔わない体質なので、つい深酒をしてしまう。それなのに翌日には、しっかりと頭の回転を鈍らせるのだからタチが悪い。

 いや、酔いだけではない。痛みも、喜びも、悲しみも、あらゆる感覚や感情や鈍くなった気がする。


 ――あの日から。


「電話か……」

 貴之はゆっくりと上半身を起こした。

 かけ布団がなくなった上半身から体温が下がっていくのを感じたが、九月下旬の朝はそれほど寒くはない。ブラインドの隙間から日が差しているので、天気はいいようだ。

「まだ九時台じゃねえか。しまったな、スマホの電源を切るのを忘れてた」

 貴之はベッドサイドの時計をチラリと見る。仕方がなく、スマートフォンを手に取った。

「はい」

 寝起きのため、声が掠れてしまう。

「代筆屋の氷藤貴之さんですか?」

 若い女性の声だ。

「そうです」

 返事をすると、電話の先で息をのむ気配がした。

 客か。

 貴之はベッドで胡坐をかいた。固定電話の回線を引いていないので、仕事もプライベートもすべてスマートフォンで受けている。

 といっても、かかってくるのは出版社の編集者ばかりだ。代筆屋のほうはホームページに電話番号を載せておらず、契約後に教えるくらいだから、こちらの関係者からかかってくることはほとんどない。

 なんの用だろう、文面が気にくわなかったのか。そういう連絡はメールでくれと伝えてあるのに。

「あなたの書いた手紙について、言いたいことがありますっ!」

 なぜか女性の声がひっくり返った。怒っているのか、慌ててるのか、緊張しているのか、少々早口でもある。

 思わぬ大音声に、貴之はスマートフォンを耳から離した。

 クレームか? 誰だ。

 貴之の頭がやっと動きはじめた。

「お名前を伺ってもよいでしょうか?」

「あとで伝えます。あと十分くらいで到着しますから。三十分ほど前にも電話をしたのですが、出なかったのでタクシーで出発したんです」

「到着するって、どこに?」

「渋谷にある、あなたの事務所です」

 なんだって?

 貴之は素っ頓狂な声をあげそうになった。

 急に自宅兼事務所に来ると言われても困る。なんの準備もしていない。

 あと十分なんて、着替えるだけで精一杯じゃないか。

 いや、アポイントもなく急に来るあっちが悪い。待たせればいい。

 クレームだぞ、時間がかかれば余計に怒らせるだろう。

 いろいろな思いが一気に頭を駆け巡った。ちょっとしたパニック状態だった。

「今、事務所にいらっしゃるんですよね?」

「まあ……」

「よかったです。では、後ほど」

 電話が切れた。

「しまった」

 携帯電話なのだから、外出しているとでも言えばよかった。

 貴之は頭を抱えた。口先だけでごまかすのは得意なのに、起き抜けなうえに混乱していて、頭が回らなかった。

「……仕方がない」

 後悔しても後の祭りだ。

 とにかく着替えだと、クローゼットを開けた。寝間着代わりのジャージから、Vネックの白いサマーセーターと黒いスラックスを身に着ける。

 貴之は一LDKのマンションに一人で暮らしている。リビングダイニングを応接間代わりに、もう一室を寝室・仕事部屋として使っていた。

 といっても客なんてほとんど来ないので、リビングダイニングはただの休憩室になっていた。雑誌やDVDが散乱している。

 とりあえず、リビングダイニングの荷物を全て仕事部屋に押し込んで、フローリングワイパーをかけていたところで呼び鈴が鳴った。モニターを見るが、わざとなのか、顔が見えない。薄手のコートを着た女性だとわかるくらいだが、さきほどの電話の主で間違いないだろう。

 マンション一階にあるエントランスの扉を開け、掃除道具を片付けて、玄関に来客用のスリッパを置いたところでドア前の呼び鈴が鳴った。

 わざわざ足を運ぶなんて、どれだけ怒っているのだろう。文句があるなら、あのまま電話でも済んだはずだ。

 貴之は覚悟を決めてドアを開けた。

 モニターに映ったものと同じ、薄桃色のコートを着た女性が見上げてきた。

「あなたが、氷藤貴之さんですね?」

 そう確認してくる女性の頬は、コートと同じ色に染まっていた。逆に、ハンドバッグを握る手は力みすぎて白くなっている。

 女性と目が合った貴之は瞠目した。

「……高校生か」

 思わず口に出た。

 声から若いと思っていたが、これは予想外だ。

 肩に届くくらいの黒髪を首の後ろで結わき、耳の前に後れ毛がたれている。丸みを帯びた輪郭に、くりっとした二重の大きな目や色づいた唇などがバランスよく配置されていた。美少女と呼んで差し支えないだろう。

 貴之が長身なこともあるが、見下ろすほど小さい。百五十五センチないくらいか。

「なっ……、なんてことを言うんですか! 失礼な人ですねっ」

 女性はショックを受けたように一歩引き、真っ赤になって眉を吊り上げた。

「わたしは新田美優、二十四歳! 立派な成人です。最近は間違われなくなっていたのにっ」

 つまり、今までに何度も間違われていたってことじゃないか。

 美優の理不尽な攻撃に貴之は眉間にしわを寄せる。

 どうやら美優は童顔を気にしているようだ。元々クレームで来ているうえに、貴之の第一声が癪に障ってしまったらしい。まずい展開だった。

「失礼しました。どうぞ、中へ」

 貴之はつとめて誠実な声を出し、美優を事務所に招きながら、新田美優なんて名前の依頼人はいたかな、と記憶を探った。最近でも若い女性の依頼人は何人かいたが、基本的には会わないので、容姿は知らないのだ。

 時間があればスマートフォンの着信履歴と依頼者リストを照合することもできたが、来客を迎えられるくらいに事務所の体裁を整えるのに手いっぱいだった。

 急に押しかけてきた望まぬ客だとしても、客は客だ。貴之は美優をソファに促すと、温かいお茶をテーブルに置いて、美優の向かいのソファに座った。

「ご用件をお聞かせください」

 そう言って顔を上げた貴之は、また目を見張った。

 コートを脱いだ美優は、パンツスタイルの白衣を着ていた。防寒対策か、ハイネックのインナーも着ている。

 看護師なのかと聞こうとした貴之は、また怒らせたら面倒だと口をつぐむ。

「看護師ですよ。服のことは気にしないでください。着替えずに、コートを羽織ってそのまま帰ることにしているんです」

 貴之の表情に気づいた美優が説明した。だから、まだ暖かいのにコートを着ているのかと貴之は納得した。

 結構、横着者じゃないか。

 貴之は少しだけ気が緩む。

「この手紙の件で来ました」

 美優は鞄から手紙を取り出して机に置いた。深みのある薄青の封筒だ。貴之はいつも、この露草色のレターセットを使っていた。

「三井節子様……、ああ、入院中の老婦人に宛てた手紙だ」

 思い出した。

 依頼人は大学生の孫だったはずだ。入院している祖母を励ましたいという内容だった。

「そうです、あなたのせいで節子さんが気落ちしてしまったんです」

「きみは三井節子さんの孫?」

「違います、看護師だって言ってるじゃありませんか」

 では、客ではないのか。

 貴之は事情を察して、どっと疲れる。美優を追い出して二度寝したくなる気持ちを抑えた。

 美優は三井節子の担当の看護師なのだろう。おそらく、節子宛ての手紙を読んで、自分勝手な義憤にかられて事務所に押しかけて来たのだ。それで睡眠時間を削られたのではたまらない。

「その手紙の内容は依頼人が確認している。了解を得て郵送したんだ。もう終わった仕事だ、帰ってくれ」

 貴之はビジネスモードを解除した。ソファに寄りかかって足を組む。

「なんですか、その態度は」

 貴之の態度の急変に、美優は大きな目をキリキリと尖らせた。

「あなたが考えた文面なんですよね。もらった相手が喜んでいないのに、申し訳ないと思わないんですか?」

「思わない。おかしな文章を書いた覚えはないし、あくまでも俺の客は、金を払う依頼人だ。依頼人が伝えたい手紙を書くのが俺の仕事だ」

 あとは当人同士の問題だ。アフターケアなんて請け負っていない。もし必要があるのなら、追加料金をつけねばなるまい。

「さあ、わかったら帰ってくれないか」

 貴之が再度お帰り願うも、美優は俯いたまま動かなかった。

「ここで帰るわけには……。想定していた最悪のケースだけれど……。ちょっと強引だけどプランDに……」

「なにをブツブツ言ってるんだ?」

 プランがどうとか聞こえたが。

 やっと美優が顔を上げると、眉を寄せる貴之にキッとした視線を向けた。

「氷藤さん、これを見てください」

 美優は封筒から便箋を取り出した。

「拝啓、秋桜や虫の音に秋の到来を感じ……という時候のあいさつはどうでもいいですね。ここです」

 美優はテーブルに置いた便箋の一部を指さした。

「“天寿をまっとうしたおじいちゃんも、まだ来るなって言っているはずです”って文章が問題です」

「フランクな言葉遣いは、あえてだぞ」

「天寿をまっとうって、まるで“こんなに長く生きたんだから、もう死んでも仕方がないよね”、みたいな響きじゃないですか」

「そんなことねえだろ。夫が亡くなったのは九十三歳だったか、大往生じゃねえか。そうそう、孫から祖母に対しての手紙だからいいかと思ったんだが、一応“往生”って言葉は避けたんだ」

 少しずつ、この手紙を書いていた頃の記憶がよみがえってきた。

「節子さんは九十五歳です。その“天寿”を過ぎているんですよ。もうあの人のところに行った方がいいのかしら、孫や子どもたちも私は長生きしすぎだと思っているんだわって、弱気になっているんですよ」

「そんなの、解釈の問題だろ」

「どうやってもネガティブな解釈ができないように書くのが、プロじゃないんですか? 相手は落ち込みやすい入院患者ですよ」

 ぐっと言葉に詰まる。それは確かに正論だ。

「それに、すごく内容がペラペラです。この手紙でお孫さんは本当に納得していたんですか?」

「……当然だろ」

 貴之は美優から視線をそらす。

 思い出した。

 草案を出したとき、依頼者の三井萌々(もも)香(か)の反応は芳しくなかった。

 しかし当時、本業であるライターの仕事が詰まっていて時間がなかった。そちらを断ろうとはしたのだが、貴之が担当している連載ものの追加取材だったので、断り切れなかったのだ。

 そこで、「病人が長文を読むのは大変だから、ゴチャゴチャと書かないほうがいい」「孫から手紙が届くだけで祖母は喜ぶ」などと萌々香を丸め込み、作業を進めることを承諾させてしまった。

 そんなことをしたのは初めてで、しばらく罪悪感があったのを覚えている。

 ――あの手紙だったか。

 苦い思いがふつふつとこみ上げた。

「氷藤さんは、きちんとお孫さんの話を聞いたんですか?」

「部外者には関係ないだろ」

 貴之の声が荒くなる。対応が雑だったという自覚があるので、踏み込まれたくないという思いが声に表れた。

 美優は眉を上げたまま、唇をかみしめた。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。

「わたしは今朝、氷藤さんのホームページを見ました」

 貴之はハッとした。美優は潤んだような大きな瞳でじっと貴之を見ている。

「相手の話を丁寧に聞き、奥底の心まで汲み取って手紙を綴る。素晴らしい仕事だと思いました。きっとなにかの間違いで、うっかりしてこんな文章を書いたと思ったんです。なのに……」

 美優は一度言葉をとめた。そして重々しく唇を開く。

「あなたにはがっかりしました」

「……っ」

 言い訳をしようとして、口を閉じる。

 貴之は返す言葉がなかった。

 あの時は急いでいたし、第一そんな悪い文章じゃねえだろ。繰り返すが、依頼人はあの文面でオーケーを出したんだよ。今更文句を言われたって、言いがかりにしか聞こえない。百歩譲って依頼者にクレームを言われるなら考えるが、おまえはそもそも他人じゃねえか。

 そんな言葉が胸に沸き上がって、むなしく消える。

 勝手に期待をされて勝手に幻滅されただけだというのに「がっかりしました」という言葉がズシリと堪えた。

 確かに、最近は効率に走りすぎていたきらいがある。依頼人の気持ちをおろそかにしていたつもりはなかったが、結果として受け手に喜ばれない手紙になってしまったのかもしれない。

 よく考えてみれば、草案を清書して依頼人に渡す、もしくはポストに投函してしまえば、貴之の仕事は終わりだ。貴之の考えた文章で、受取手がどんな反応をしているのか、一度も見たことがなかった。

 クレームがなかっただけで、今までも歓迎されない手紙を生み出していたのだろうか。さすがにそれは貴之の本意ではない。

「……三井節子さんは、そんなに落ち込んでいたのか」

 貴之は組んでいた足を元に戻し、顔を俯きぎみにして、美優をうかがうように尋ねた。

「はい、それはもう。お孫さんの手紙だから繰り返し読みたいけれど、読むと落ち込むって感じです」

「まいったな……」

 貴之はくしゃりと左に流している前髪を掴んだ。

 そんな貴之の様子を見て、美優は留飲を下げたようだ。つり上がっていた眉を元の位置に戻して口を開く。

「お孫さんに話を聞いたんですよね。なんと言っていたんですか?」

「別に、たいした内容じゃなかったよ。祖母が入院している病院までは遠くて見舞いに行けないから、手紙で励ましたい、ってだけだ。盛り込みたい内容を尋ねたが、特にないと言われた。だからまあ、当たり障りのない文面になったんだ」

 それは認める。おそらく節子に書いた手紙は、少し変えただけで誰にでも送れるような無個性な内容だろう。節子のためだけの手紙になっていなかったかもしれない。

 手紙を出したいとは言いつつ、祖母にそれほど思い入れがないのだろう、楽な仕事だ、と思ったことも思い出した。思いが強いほど話は長くなるし、草案のリテイクも多くなりがちだが、あっさりと草案は通った。

「なんだかチグハグです」

「なにが?」

「わざわざお金を払って手紙を渡したいと考えたんですよ。伝えたいことがないなんて、おかしいです」

「だから、励ましたかったんだろ」

「なぜ励ましたいんですか?」

「祖母が入院しているからだろう」

「だったら電話でもいいじゃないですか。節子さんの近くにいる親戚にショートメールを送って、伝言を頼んでもいいと思います」

「伝えたいことが大してなくても、代筆屋を利用する依頼人はいる」

「だからそういう人は、氷藤さんに気持ちを引き出してほしいから依頼をしてきたんだろうと思うんです。ホームページにそう書いてあったじゃないですか」

 貴之はハッとする。


 まずはお気軽にお問い合わせください。

 わたしと話しているうちに、自分自身でも気づかなかった思いが掘り起こされて、驚かれる方も少なくありません。心の整理にもつながります。

 大切な人に、あなたの気持ちを届けましょう。


 代筆屋の紹介文を思い出した。

「――まあ、そう書いたな」

 ホームページは昨日リニューアルしたばかりだが、文言はそれまでと大して変わらない。

「確かに、俺に気持ちを引き出してもらいたかったのかもしれない」

 組んだ指に視線を落として、貴之は呟くように言った。あのときは、相手の気持ちを汲み取る時間がなかった。申し訳ない気もしてくる。

「じゃあ、依頼はまだ未達成ですね」

「えっ?」

 驚いて貴之が顔を上げると、ずいっと身を乗り出した美優の真剣な瞳とぶつかった。

「もう一度、きちんとお孫さんの話を聞きましょう」

「いやいや、なんでだよ」

「今度こそ、お孫さんも節子さんも喜ぶ手紙を書いてください」

「なんでループしてるんだ。この仕事は終わったんだよ」

「そんな中途半端な仕事をしていたら、SNSで噂になって叩かれますよ。指が滑って、わたしが広めてしまうかもしれません。心を汲み取ると言っている代筆屋としては、大ダメージでしょうね。氷藤貴之って本名を出してるから、本業のライター業にも響くかもしれんませんよ」

「……脅迫か」

「いえ、きちんと仕事をしていただきたいだけです」

 美優がにっこりと笑う。

 脅迫以外の何物でもなかった。

 なぜライターをしていることを美優が知っているのかと思ったが、わざわざ代筆屋のホームページを見ていたのだ。貴之の名前で検索をかけたのかもしれない。ライター業も本名で仕事をしているので、調べればすぐにわかるだろう。

 なんと面倒なクレーマーだろうか。居留守を使わなかったことが悔やまれる。

「氷藤さん、今日のお仕事は忙しいですか?」

「まあ……、仕事はあるよ」

 嘘ではない。一週間以内に入稿すればいい、ゆるい締め切りの原稿がある。

「わたし、氷藤さんの口癖を一つ発見しました」

「ん?」

「仕事はあるけれど、急ぎではないんですね?」

「えっ」

 思わず貴之は口を押えた。

 なぜわかったんだ。俺に口癖なんてあったのか。

「じゃあ時間はありますね。せっかくですから、お孫さんに会いに行きましょう」

「はっ? 確か孫は首都圏住みじゃなかっただろ。百歩譲って孫の話を聞くとして、会う必要はねえだろ」

 貴之は慌てる。

「電話より、直接会ったほうが気持ちを汲み取りやすいですよ。オンラインで、なんて手抜きもだめです。氷藤さんは一度失敗しているんですから、二度目はありません。心配ですから、わたしもついて行きます」

「どうして決定事項みたいになってるんだよ……」

 貴之は額を押さえると、天井を仰いだ。

 なぜ美優はぐいぐいと介入して来るのだろう。節子の担当の看護師だとしてもやりすぎだ。貴之には理解できない。

「肝心の孫にだって都合があるだろ。平日の昼間だぞ」

「お孫さんは就職活動中だそうですから、たぶん、大丈夫だと思うんですよね。節子さんに連絡先を聞いているので、確認してみます」

「連絡先を知ってるのかよ」

 初めから孫に会いに行くつもりだったんじゃねえだろうな、と貴之は訝しんだ。

 それにしても、孫の萌々香が就職活動中なんて初めて知った。電話で節子の話を聞いた時には、自分のことは話していなかったはずだ。

 大学四年だったよな。九月にまだ就活してんのか。難航しているようだな。

 そう貴之は思った。それでは祖母の見舞いどころではないかもしれない。

「氷藤さん、萌々香さんオーケーでした!」

 美優がスマートフォンを振って報告した。やけに古い地蔵のストラップが揺れる。

「マジか」

 貴之は青くなる。

 そこは断ってほしかった。

「名古屋なので、新幹線で一時間半くらいですね。近い近い!」

「名古屋って……。これじゃあ赤字だな」

 貴之は力なく首を振った。

「あら、渋谷にこんな立派な事務所を構えているのに、お金がないんですか? なぁんて意地悪は言いませんよ。初めから、わたしが新幹線代を出すつもりでしたから、安心してください」

 美優がさっそくスマートフォンで新幹線チケットの予約購入をしようとしているので、手で制した。

「……いい。自分の分は自分で払う」

 貴之はため息をついた。

 これは逃げられそうもない。

 SNSで悪い評判を書き込まれないためだ。風評被害対策だ。

 貴之はそう割り切ることにした。


 品川駅から新幹線ののぞみで約一時間半、二人は名古屋駅に到着した。

 事務所に来た時の形相と打って変わって、美優はご機嫌だった。きょろきょろと顔ごと動かすたびに、首の後ろで結わかれた髪がピコピコと跳ねる。

「家と病院の往復ばかりなので、新幹線に乗るのは久しぶりです。ドクターイエロー見れないかなあ。あっ、駅弁食べようっと」

 ドクターイエローとは、「見ると幸せになれる」とも言われる、電気設備などを検査する新幹線電気軌道総合試験車のことだ。運行は十日に一回程度とレアなため、一部で四つ葉のクローバーや流れ星などのような扱いをされている。

「まだ昼飯には早すぎるだろ」

「はい。夜勤明けなので、これは朝ご飯のようなものです」

 そういえば、美優は病院から直接来たのだったか。完徹にしては元気だ。

 ちなみに貴之は夜型のため、普段から朝食は食べない。

「お昼は美味しいところに食べに行きましょう! 名古屋は名物グルメが多くて悩みますね。やっぱりひつまぶしかな、味噌煮込みうどんかな、あんかけスパゲッティもいいかも……」

「どれも東京で食えるだろ」

「発祥地で食べるからいいんですよ!」

 そんなくだらないやりとりをしていたら、あっという間に名古屋に着いた。

 こいつ、完全に観光気分だな……。

 貴之は呆れた。

 貴之は仕事で全国あちこちに取材に行くので、新幹線も飛行機も珍しくはない。ベテラン記者たちは、経費で海外にも取材に行けたもんだ、と自慢げに語っているが、貴之は一度も海外出張を頼まれたことはない。不景気というのは世知辛いものだ。

 三井節子の孫である萌々香とは、名古屋駅直結のホテルのラウンジで待ち合わせた。ラウンジは十五階にあり、窓からは名古屋市内が一望できる。

「あっ、あの緑の屋根のお城は名古屋城ですね! ここから歩けるかな? 氷藤さん、あとで行ってみましょうよ」

「なんでだよ、一人で行け。俺は帰る」

「そんな……、冷たいです」

「むしろ、なぜ俺が同行すると思ったんだ」

「せっかく来たんですから、観光しないともったいないじゃないですか」

 貴之は肩をすくめた。意味がわからない。

「こちらはラウンジに着いていると、萌々香さんに伝えてあります。萌々香さん待ちですね」

 美優はショートメールで萌々香とやりとりしているらしい。連絡係は任せている。

「もう着くようです。……あ、あの人かな?」

 美優は立ち上がった。脱ぐと白衣が目立つので、薄桃色のコートのままだ。九月にコートというのも、目立たないわけではないが。

 美優が大きく手を振ると、ラウンジに入ってきた女性も小さく手を振り返した。

「はじめまして、三井萌々香です。わざわざ名古屋まで来てくださって、ありがとうございます」

 萌々香は頭を下げてから貴之の正面のソファに座った。スラリとした細身で、ショートカットがよく似合っている。笑顔を作ってはいるが、薄化粧では隠しきれないクマが浮いていて、疲れが滲んでいるようだ。

 貴之の隣りにちょこんと座る美優と見比べると、大学生の萌々香のほうが美優よりも年上に見えた。

「わたしは新田美優です。節子さんの部屋の担当をしている看護師です。素敵なおばあさまですよね、いつも癒されるんですよ」

「ありがとうございます。嬉しいです。自慢の祖母なんです」

 萌々香ははにかんだ。

「代筆屋の氷藤貴之です。すみません、終わった話を蒸し返すことになって」

 貴之は名刺を渡しながら、萌々香を味方につけようとした。美優のしていることは迷惑行為なのだと。

「萌々香さんもあの手紙の内容、イマイチだって思っていましたよね?」

 美優はずいっと身を乗り出した。

「えっ? ええ……。でもプロが書いたものですし、そういうものなのかと」

 萌々香は眉を下げながらも、遠慮がちに美優に同意した。

 しまった、懐柔に失敗した。

 貴之は臍をかんだ。

「だから萌々香さんの気持ちをしっかりと聞いて、もう一度手紙を書き直すことになったんです。ね、氷藤さん」

「……そうだな」

 依頼人に「イマイチ」と思われていたのなら、書き直すしかないではないか。

 こんなことならばあの時、言いくるめて及第点を取りに行くのではなく、不満な点を聞いて修正しておくのだった。

「三井さん。改めて、おばあさんへ手紙に込めたい気持ちをお聞かせください」

 ウエイターに飲み物を頼んでから貴之は切り出した。

 萌々香に断ってからICレコーダーを回して、音声を録音する。重要な言葉はメモをするが、草案を作る前に音声を聞き直すことにしていた。

「以前、お話したことと変わらないんですけどね」

 萌々香は思い出すように、ゆっくりと話し出した。

「中学生になるまでは毎年、夏休みに東京にある父の実家に親戚一同集まっていたんです。父は末っ子なうえに、私は遅くできた子どもだったので、いとこたちと年齢が合わなくて仲間に入れてもらえませんでした。両親は親戚との付き合いで忙しいし、私は一人で淋しい思いをしていました。そんな時、おばあちゃんが相手をしてくれたのが凄く嬉しくて」

 萌々香は目を細めて微笑んだ。

「中学からは夏休み恒例の親戚の集まりに行かなくなりましたが、淋しかったり苦しかったりした時にはおばあちゃんを思い出して、電話をして励ましてもらっていました。だから今回、入院してしまったおばあちゃんを私が励ましたかったんです」

 節子はくも膜下出血で倒れ、長期のリハビリ入院中だ。幸い軽度で後遺症は残らないと診断されている。

「入院している人に、頑張って、とか、大丈夫だよ、とか言っちゃいけないって言うじゃないですか。調べたら、“消える”とか“枯れる”とかのネガティブな言葉もダメらしいし、“ますます”とか“たびたび”とかの繰り返し言葉は、次もまた入院するみたいな印象を与えると書いてあって。こんなにたくさん使ってはいけない言葉があったら、電話をしたらNGワードを口走っちゃいそうでできなかったんです。じゃあ手紙にしようと思ったら、どう書けばいいのかわからなくて、それで代筆屋さんにお願いしました」

 そうだ、こんな内容を電話で聞いたのだ。特に新しい情報はない。このほかには家族構成などを尋ね、節子の夫が亡くなっていることを知った。

「この内容を手紙にしたら、ああいう感じになるだろ」

 どうだと言わんばかりに、貴之は隣りにいる美優を見た。

 その視線を無視して、運ばれてきたロイヤルミルクティーに口をつけながら、美優は萌々香に顔を向けた。

 貴之は内心、「こいつめ」と思う。

「萌々香さん、氷藤さんの草案は、どんなところが足りないと思ったんですか?」

「はっきり、ここを変えたいというところは思いつかなくて。ただ、なにか違う、としか……」

 萌々香は首をひねる。美優が指摘した“天寿”のあたりは引っかかっていなかったようだ。だからこそ、貴之に進めてよいと許可したのだろう。

「萌々香さん、さっき節子さんが相手をしてくれたのが嬉しかったと言っていましたけど、どんなことをしてもらったんですか?」

 美優の言葉に、貴之は眉をしかめた。

 おいおい、そんなことを聞いてどうするんだよ。

 目で訴えるが、やはり美優は貴之を見もしない。視界の端に映っているはずなのだが。

「おばあちゃんの家庭菜園で、もぎたてのトマトを食べさせてもらったり、あと土遊びもしました。こうして、土に字を書くんです」

 萌々香はテーブルに「あ」と指先で書いた。

「一センチくらいの深さでしょうか、土の硬め部分まで石や枝を使って字を書いて、書き終わったらその上に乾いたサラサラな土をかぶせます。すると、字が隠れますよね。そこまで相手に見えないように作業します」

 それから相手は地面に優しく触れて、柔らかい砂だけを排除し、どんな字が書かれたのか当てる遊びだという。

「一文字から始めて、慣れてくると文字数を増やしました。するとおばあちゃんは、こんなメッセージを書きました」

 ――キライを スキになる ほうほう

「嫌いを好きになる方法、ですか? へえ、気になりますっ」

 美優は前のめりになった。

「はい、私もどういう意味か、おばあちゃんに聞きました」

 それまでに萌々香は節子に、「東京は嫌い?」と聞かれており、「嫌い、つまらないから」と答えていた経緯がある。その解決法だと萌々香は話す。

「東京に来たら、“一日一回好きなことをする”と決めるのよって、おばあちゃんは言いました」

 愛知には東京にないものがたくさんあるが、東京にも愛知にないものがいくらでもある。親に仕方なしに連れてこられたのではなく、愛知では食べられないもの、体験できないことをしに来ているのだと、考えを変換すればいいと節子は話した。

「名古屋の家とこの家の大きな違いは、おばあちゃんがいるかどうかよ。萌々香が行きたい場所をみつけたら、毎日一か所、おばあちゃんが連れて行ってあげる」

 そう言って節子は微笑んだ。


 ぼんやりと過ごすのも一日。

 楽しく過ごすのも一日。


 与えられた条件のなかでも、自分にとって快適な方法を模索するのが大切だと、節子は萌々香に教えた。

 それから萌々香は東京に行くのが楽しみになった。

 節子に原宿、秋葉原、浅草などの特徴的な街に連れて行ってもらったり、テレビ局や博物館を見学したり、東京限定のスイーツを食べまわったりした。

 あくまでも節子は萌々香に計画を立てさせたので、萌々香は年々、積極性や行動力が増していった。性格も明るく逞しくなったように感じた。

「それからも悩みがあるとおばあちゃんに相談したのですが、根本は小学生の時に教えてもらった方法と同じで、解決策は条件付けや置き換え、俯瞰して考えることでした」

 例えば、クラスで気の合わない人がいたら、いつも当たってくるあの人はストレスを抱えて可哀想な人なのだと思ってみる、自分がその人の立場ならどう行動するだろうと置き換えて考えてみる、などを提案された。

 どうしても性格が合わないのなら、極力やり過ごすのも手で、逃げるのは悪手ではないとも言っていた。

 現在、周囲にいる人と合わないのなら、「では、一緒にいると楽しい人たちはどこにいるのだろう?」と考えて、そういう人が集まる学校、コミュニティを探すのも大事だと節子は話した。

 勉強が上手くいかなかったら、一人で悩まないで遠慮せず先生に相談する。勉強法や時間帯を見直してみる。そもそも志望校にその勉強が必要か見直してみる。

 そうやって祖母は長い経験則で、萌々香に気づきやアドバイスを与えた。

 いざというとき、萌々香は祖母を頼った。

 一緒に暮らしている両親よりも、離れている節子のほうが本音や弱みを見せることができて、相談しやすかった。ちょうどいい距離感だったのだ。

「さすが節子さんです。節子さんとの思い出がたくさんあるんですね」

 美優は感心したような表情を萌々香に向けた。

「そういう思い出話や、相談にのってもらった感謝を盛り込むか」

 貴之は大きな手でコーヒーカップを弄びながら、独り言のように言う。さすがにホテルのコーヒーなだけあって、家のものとは香りが違った。

「そうですね。電話で相談の結果報告をしていましたし、その都度お礼も伝えていましたけど、手紙にも入れたいです」

 萌々香はうなずいた。

 どうやら、改稿の糸口は見つかったようだ。ここでお開きでもいいだろう。

「そういえば、三井さんは就活中なんだってね。忙しいだろ。時間は大丈夫?」

 貴之は優しく尋ねた。あくまでも、「こっちは急いでないけど、そちらは違うよね」というニュアンスだ。

 しかし貴之の言葉に、萌々香は顔を強張らせる。気まずげに視線が泳いだ。

「っつぅ……」

 脛の痛みに貴之は小さくうめいた。テーブルの下で美優が蹴ったのだ。

「氷藤さん、デリカシーなさすぎです」

 美優が素早く囁く。

 おいおい、おまえが萌々香は就活中だと言ったんじゃないか。

 そう貴之は文句を言いたくなった。

 しかし言われてみれば、センシティブな話題だった。美優は節子から聞いたのだろう。すると萌々香は、自分から就職活動中だと一言も言っていないことになる。

 つまり、口にしたくないのだ。

 ここで「すまない」と謝るのも、傷口に塩を塗るようで憚られた。

 三人の間に沈黙がおりた。ラウンジにかかる優雅なクラシックがやけに大きく聞こえる。

「今日は特に……予定がないので」

 萌々香がポツリとつぶやいた。

「萌々香さん」

 美優がまた前のめりになり、萌々香を見つめた。

「一番伝えたいことが書いていないから、物足りなさを感じたんですね?」

「私がおばあちゃんに、一番伝えたいこと?」

 萌々香は繰り返した。自分でも祖母になにを伝えたいのか、わかっていないようだ。

 美優は「ありますよね?」と眼力を強めた。

 だからそれは、今まで相談にのってくれた感謝の気持ちだって、さっきわかったじゃないか。

 そう考えた貴之も気づいて、小さく声を漏らした。

 美優は視線を貴之に向けて、すぐ萌々香に戻す。

「萌々香さんは今、すごく悩んでいますよね」

「……はい」

 ためらいながらも、萌々香は認めた。

「その気持ちを、いつものように節子さんに聞いてほしかったんですよね」

 萌々香は瞳を大きく見開いた。

 そのまま固まったようにとまり、何度かまばたきをする。

「そう、かもしれません」

 萌々香はぬるくなった琥珀の液体に視線を落とし、白いカップを両手で包んだ。

「春から就活をしていて、周りはどんどん内定していくのに、私は一社も内定をもらえませんでした。友達に作り笑いをするのもつらくなって……」

 SNSで「第一希望に内定をもらったから、これから遊び放題!」「複数内定とれちゃった。どれも甲乙つけがたい。どれにしようかなぁ」などと書いている赤の他人さえ憎らしくなった。こんな人たちがいるから私があぶれるのだと逆恨みもした。

 萌々香は消え入りそうな声で、そう心情を吐露した。

「よせばいいのに、SNSを見ては傷つくんです。両親も私のことを腫れ物に触るような扱いになりました」

 また祖母に相談したい。

 そう思った矢先の七月、節子が倒れた。

「あんなに大きな病気になってしまったら、おばあちゃんは自分のことで精一杯ですよね。私の心配なんてさせられないと思いました。それに、いままでずっと力になってくれたから、こういうときこそ励ましたいと思いました。でも、お見舞いに行ったら誰にも言えなかったつらい思いを全部吐き出してしまいそうで、会いに行けなかった……」

 萌々香は瞳を潤ませた。

「本当はおばあちゃんに会って、話がしたかったんです」

 美優はカップを握る萌々香の手に、自分の手を添えた。

「自分がつらい時には周りが見えなくなって、人を気遣うことができなくなるものです。それなのに萌々香さんは節子さんを思いやって、手紙を送った。とても優しい人ですね」

「美優さん……、ありがとうございます」

 萌々香はハンカチで両目をおおった。

「この気持ち、おばあちゃんに伝えてもいいと思いますか?」

 おそらく節子は、この時期に就職活動をしている意味を分かってはいないだろう。わざわざ萌々香が窮地にいるのだと教えて心配をかけていいのかと、まだ萌々香は迷っているのだ。

 美優は拳を握った。

「大丈夫ですよ、萌々香さん。ご高齢のかたって、お子さんやお孫さんに頼られると『まだまだ私がいないとダメなのね』って喜ぶことも多いですよ。節子さんなんて、そっちのタイプじゃないですか。むしろ、萌々香のために早くリハビリを終えて家に帰らなくちゃって、張り切ると思います」

「そうですよね」

 睫毛を濡らしたまま、萌々香は笑みを浮かべた。

 萌々香は現状を祖母に伝えたかった。祖母に話せば問題が解決するとは考えていない。ただ知ってほしかった。

 そういうことだろうか。

 貴之は額をおさえた。

 そんなこと、言わなきゃわからねえじゃねえか。

 ……いや、それは言い訳だ。

 美優の言っていたとおり、その本音は貴之が引き出さなければいけなかった。

 ――貴之の本業であるライターに一番必要なスキルは、実は文章力ではない。

 聞く力だ。

 本質を、本音を引き出す力だ。

 自信があったのにな……。

 いかに手を抜いていたのかを、まざまざと突きつけられた気分だ。

 美優にやられてしまった。

 完敗だ。敗北だ。

 貴之は軽く首を横にふった。

 そして、冷めたコーヒーを一気に煽るとテーブルの端に置き、鞄から筆記具を取り出した。

 これ以上、素人にやられっぱなしではたまらない。

「プロの面目躍如といきますか」

 貴之はごく小さく呟いて、ペンケースから愛用の万年筆を取り出し、長い指の上で器用にくるりと回した。

 父の形見でもある、木軸の万年筆だ。

 木目の浮いた木軸はよく手入れがされて、深い艶がある。木材の質感は指に馴染み、握っているだけでぬくもりを感じた。

 貴之はソファに浅く座り、姿勢を正した。

「今、草案を仕上げてしまおう」

 いつもの露草色の便せんにペン先を滑らせた。紙面へのあたりは柔らかくも適度な硬さがあり、紙を滑る感覚が指先に伝わってくる。カリカリとペン先と紙が擦れる音がした。


 おばあちゃんへ


 貴之はそう書き始めた。

 節子と萌々香との関係を聞けば「拝啓」から始めるのは堅苦しすぎた。定型文ではつまらなく、むしろ慇懃無礼だったかもしれない。

「氷藤さん、さすがに字は上手いですね」

 それじゃ「字だけ」みたいじゃないか。

 覗き込んでくる美優に文句をつけたくなったが、貴之は横目で軽く睨む程度にしておく。

 時に萌々香に質問をしながら、貴之は文章を書き進めた。

 そういえば、依頼人の目の前で草案を作るのは、いつ以来だろうか。

 ふと思い、貴之は薄い唇を爪でなぞった。

 代筆屋をはじめた頃はヒアリングに時間をかけていたし、目の前で話しながら仕上げることもあった。

 いつしか慣れて、電話越しでも話は聞ける、更にはメールでも問題ないと、だんだん簡素化していった。

 しかし、こうして対面で話を聞くと、表情や仕草、声の抑揚から気持ちがよく伝わってくる。

 初心にかえるか……。

 筆を走らせながら、貴之はそう考えていた。


   * * * *


 おばあちゃんへ


 二度目の手紙になります。あれから体調はいかがでしょうか。

 リハビリは順調だと美優さんにお聞きし、安堵しています。


 実はずっと、おばあちゃんに相談したいことがありました。

 就職先が決まらなくて、毎日すごくつらかった。

 だから、またおばあちゃんと話をして、元気をもらいたかったんです。

 でもね、既に答えをもらっていたことに気づきました。

 おばあちゃんならなんて言うかな、おばあちゃんがこの状況ならどうするかなって、想像してみました。

 おばあちゃんから教わった「キライをスキになる方法」で、今までたくさんの困難を乗り越えてきました。

 今回も同じだよね。


 せっかくいい大学に入学したんだから。

 お父さんもお母さんも期待しているから。

 だから、一流企業と言われるところしか狙っていなかったんだ。

 でも、今の私にとって、一流企業は必須なのかなって考えてみたんです。

 リストラも転職も当たり前の時代だから、企業の肩書よりも自分にスキルを蓄えることのほうが重要かもしれない。

 そうしたら、今からでも挑戦したい会社がみつかりました。どうして初めから狙わなかったんだろうと思うくらいだよ。

 きっとおばあちゃんに会っていたら「新卒での就職がゴールなの?」と言われていたと思います。


 人生百年と言われている昨今、きっと私は、これから五十年くらいは働かなきゃいけない。

 そんなに長ければ、途中でやりたいことが変わるかもしれません。

 だから今は、自分ができる範囲で、やりたいことを仕事にしようと思えました。

 私が成長したら、私を求める企業だって増えるはずです。

 そう思ったら、すとんと力が抜けました。ここで気落ちしている場合じゃない、先は長いんだぞって。

 背伸びをしても届かない上ばかり見て、勝手に疲弊していたんです。

 それに、内定したらおばあちゃんに会いに行くってご褒美を自分に設定したら、ますます就職活動をする気力がわいてきました。

 だから、おばあちゃんの全快が先か、わたしの内定が先か、競争です。

 おばあちゃんと会う日は、そう遠くない予感がしています。楽しみにしていてね。

 おばあちゃん。これからもよろしくお願いします。

                        三井萌々香 


   * * * *


 ヒアリングしながらの草案を書き終わり、貴之は万年筆を置いた。

「持ち帰って言葉はまた吟味しますが、こんな感じでどうでしょう」

 貴之から手紙を受け取り、目を通した萌々香の表情が輝いた。

「そうだ。おばあちゃんに伝えたくて、もやもやしていたのは、こういうことだったんだと思います」

 隣りでずっと手紙を覗き込んでいた美優は、したり顔でうんうんとうなずく。

「節子さんも喜ぶだろうな。『ご本復を祈念いたしております』とか『ご自愛ください』なんて言葉より、萌々香さんが節子さんの言葉で立ち直ったことを報告するほうが、何倍も節子さんの励ましになりますよ。読んだらすぐに退院できちゃうかも! やっぱり、やればできるじゃないですか、氷藤さん」

「うるさい」

 やっぱり、ってなんだ。俺のなにを知っているというのか。

 何様なんだと苦々しく思いつつ、同時に気恥ずかしさもあった。

 依頼者の喜ぶ顔を見るのは久しぶりだ。

 ――ふと、高校生時代の記憶がよみがえった。

 初めて貴之が手紙の代筆をした、あの日。

「氷藤さん、便箋はいつもこの薄い水色なんですか?」

 美優に声をかけられて、貴之は我に返った。

「ああ。どんな局面も相手も選ばない、無難な色だろ」

 貴之は筆記具を片付けながら答えた。

「そんなの、ダメですっ」

「……なにが?」

 警戒した貴之はソファで尻半分、美優から離れた。今度はなにを言いだすのだろうか。

「子どもに宛てる手紙ならキャラクターがついていたほうが喜ばれるでしょうし、ラブレターならピンク色とか、ロマンティックな便箋のほうがいいじゃないですか」

「そんなの、おまえの思い込みだろ。ラブレターでもシンプルなほうがいいかもしれないだろうが」

「はい。だから本人に聞きましょう」

 美優はコクリとうなずいて、萌々香に顔を向けた。

「萌々香さん、節子さんへの手紙はどんな便箋がいいですか?」

「えっと……、おばあちゃんは明るい緑色が好きだと思います」

 突然話を振られて萌々香は戸惑うものの、記憶を辿るようにして答えた。

「ですって、氷藤さん」

「あのなあ」

 本当に、美優はどういうつもりで意見をしてくるのか。お節介すぎる。余計なお世話というものだ。

「あと気になるのは、筆致が硬いことですかね。萌々香さんはこんなに可愛らしい女性なんですよ、もう少し柔らかい方がいいと思うんですよ。きっと氷藤さんなら書き分けられるはずです。そうだ、万年筆ってそれ一本なんですか? もっと細い線とか太い線とかのバリエーションがあったほうが……」

「ストップ」

 貴之は思わず、コーヒーに添えられていたチョコレートを美優の口に突っ込んだ。

「後日検討するから、もう黙ってくれ」

 これ以上、自分の仕事に踏み込まれてはたまらない。もう充分、美優に付き合ったはずだ。

 美優は目を丸くしたあと、ほのかに頬を染め、もぐもぐと口を動かしている。口の中でチョコレートを溶かしているようだ。

「指が、唇に触れました……」

「なにか言ったか?」

「いいえ! これ美味しいですね。もう一つください」

「全部やる」

 小ぶりなチョコレートが二つ入っている皿ごと美優に押しやった。美優はなぜか残念そうな表情になったが、気を取り直したように身体ごと貴之に向けた。

「お仕事も終わったことですし、次は名古屋城に行きましょう!」

 美優は拳を握って、さも決定事項のように元気に貴之を誘った。貴之は美優を見たまま絶句する。

 そんな貴之を尻目に、美優は身を乗り出した。

「萌々香さん、お城まで歩けます?」

「歩けなくはないけど……、三十分はかかりますよ。電車なら十五分くらいです。案内しましょうか?」

「いいんですか? 地元のかたが来てくれるなら心強いです。ねっ、氷藤さん」

「彼女がついて来てくれるなら、それでいいじゃないか。俺は帰る」

「えっ、どうしてですか?」

 美優は目を大きく見開いた。

 その様子に、貴之は二の句が継げなくなる。

 断るのに理由が必要なのだろうか。「行きたくないから」ではダメなのか。そのほうがむしろ驚きだ。

 貴之は学生時代から人付き合いがいい方ではなかった。愛想だってよくはない。仕事の不備を突かれたとはいえ、名古屋まで来ることになるなんて、貴之にとってはあり得ない事態だった。

「じゃあ、わたしが氷藤さんの年齢を当てたら来てください。時間はあるんですから、いいですよね?」

 貴之は「こいつめ」と三度思う。

 そして、やれやれと吐息した。

 暇人扱いをする言い方は気にくわないが、それは大目に見るとして。

 貴之は本名で仕事をしているが、年齢を公開したことはなかった。もし事前に美優が貴之のことをインターネットで検索していたとしても、知るはずがない。

 貴之の身長は百八十六センチで、大抵の人を見下ろすことになる。自身は年相応の容姿だと思っているが、切れ長の鋭い瞳と相まって迫力が増すらしく、実年齢以上に見られることが多かった。

 つまり、美優が貴之の年齢を当てる可能性は低い。

「まあ、いいだろう。外れたら即、帰るからな」

 貴之は承諾した。

「ふふふ、引っかかりましたね。わたしは人の年齢を当てるのが得意なんです。萌々香さんは、氷藤さんがいくつに見えますか?」

「えっと……、三十歳くらいですか?」

 萌々香は少し考えてから、遠慮がちに言った。思いついた年齢よりも若く言ったに違いない。

「萌々香さん、惜しい! 氷藤さんの年齢は二十七歳です。ね、氷藤さん」

 貴之は瞠目した。

 合っている。

「なぜ、わかったんだ?」

 美優は満面の笑みを浮かべた。

「やっぱりそうですよね、よかった!」

「よかった?」

 当たるかどうか、五分五分だったのか。

「だから、年齢当てが得意なんですって。老け顔だから外れると思ったんでしょ? 残念でした。さ、お城に行きましょう!」

「老け顔……」

 デリカシーがないのはどっちなんだ。

 貴之は眉間のしわを深めた。

 結局、貴之は美優に引きずられて、名古屋城のあとに、ひつまぶしと味噌煮込みうどんの店を梯子することになった。


「疲れた」

 帰りの新幹線の中で、貴之は大きな身体を折ってテーブルに突っ伏した。

 取材旅行だってこんなに疲労しない。

 車窓から入る夕日が、貴之のボリュームのある黒髪を赤く染めている。

 なぜ初めて会った童顔ナースに、連れ回されなければならないんだ……。

 貴之の頭の中では、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、大反省会が行われていた。

「あっ、すみません、ビールください」

 隣りに座る美優が、元気に車内販売の女性に声をかけた。その声を聞くだけで疲れが増す気がする。

「……え? 未成年じゃありませんよ、見ればわかるじゃないですかっ」

 どうやら年齢を確認されたようだ。

 見てもわからねえから訊かれたんだろ。

 貴之は心の中で突っ込む。

「氷藤さんも飲みますか? グルメツアーに付き合ってくださったので、奢りますよ」

「ああ、飲む。三本くれ」

 もういい。考えるのも面倒だ。飲んで忘れよう。

「そんなに欲張らなくても、飲み終わってから冷えたビールを買えばいいのに。ちゃんと奢ってあげますよ」

「追加でまた三本頼むからいいんだよ」

「二時間もないのに、六本は飲みすぎです」

 美優は真顔で注意して、窓際に座る貴之のテーブルにビール三本とつまみを置いた。

「お疲れ様です氷藤さん、乾杯」

 なにに乾杯しているんだと思いながら、貴之は仕方がなく美優と缶を合わせた。

「なんでおまえはそんなに元気なんだ。夜勤明けで寝ていないんだろ?」

「慣れていますし、楽しかったですし。たとえ疲れていたとしても、ダラダラしているより元気に動いていたほうがお得じゃないですか。ああ、これって節子さんの考えと一緒ですね。だから気が合うのかな」

 美優はゴクゴクと小気味のいい音を立ててビールを飲み、「ぷはあ、しみるぅ」と言ってくしゃっと笑った。

 なんて能天気な笑顔なんだ。

 こいつは悩みがなさそうでいいな。こっちはどうしようもない過去を抱えてるっていうのに。

 貴之はビールを片手に、未成年がビールを飲んでいるようにしか見えない美優を眺めながらぼんやりと思う。

「渋谷の事務所で会った時、氷藤さんは冷たい人なのかなって、少しがっかりしたんです」

 あいかわらず薄桃のコートを着たままの美優が、正面を見たまま静かに言った。インナーの白いハイネックがチラリと見えている。

「でも、優しい人で良かったです」

 美優は頬を染めながら、貴之を見上げて微笑んだ。黒目がちの大きな瞳が、照明の光を受けて輝いている。

 落として上げるタイプか。

「そうかよ」

 貴之はそっぽを向いた。外は日が落ちており、窓に照れくさそうな自分の顔が映って、咳払いをしながらブラインドを閉めた。

「相手の話を丁寧に聞いて、思いを汲み取って、手紙に綴る。代筆のお仕事って素晴らしいですね」

「……まあな」

 それ自体は立派だ。貴之がどこまでできているかは別として。

「わたしの仕事と氷藤さんの仕事は、本質的には一緒だと思うんです」

 ビール缶をテーブルに置き、美優は改めて貴之を見上げた。

「看護師は命を救う仕事で、代筆屋は心を救う仕事です。心と身体はどちらも健康でないと、人は前向きに生きていけないと思います。お互い、いい仕事を選びましたね」

 ――心を救う仕事。

 そう考えたことはなかった。しばし心の中で噛みしめる。

 貴之が黙っていると美優は熱のこもった視線を向け続けてくるので、その言葉に感銘を受けつつも、

「そんな大したものじゃない」

 そううそぶいて視線をそらした。

「なぜ氷藤さんは、代筆屋の仕事を始めたんですか?」

「別に、特技を活かしただけだ」

 貴之は長い足を組んだ。膝がテーブルに当たるので折り畳み、飲みかけの缶を手に持って、それ以外の缶は前席のネットに入れた。

 なぜ、この仕事を始めたのか。

 副業の選択肢はいくらでもあった。

 もうひとつ仕事をしようと思案していた頃、貴之に高校二年生の記憶がよみがえった。

 仲のいいクラスメイトに、ラブレターの代筆を頼まれた時のことだ。

 当時の貴之は教室で静かに本を読むタイプで、積極的にクラスメイトと交友をしていなかった。それでも来る者は拒まなかったため数人の友人がおり、その一人が同じ部活の先輩に片思いをしていた。

「そろそろ受験で学校に来なくなっちゃうから……、先輩に告白したいんだ。協力してくれないか」

 友人は恥ずかしそうに貴之に告げた。

 先輩は古風な女性なので、メールで告白すると内容以前に「軽い」と拒まれそうだし、かといって面と向かって告白する勇気はない。

 そこで友人は手紙という手段を選んだのだが……。

「オレ、小学生の頃からちっとも字が上達しなかったんだ」

 友人は頭を抱えた。

 黒板に字を書くなどで貴之が達筆であることは周知の事実だったため、白羽の矢が立ったようだ。貴之は文面から一緒に友人と考えた。

 なぜ、いつから先輩が好きなのか。どんなところに惹かれたのか。これから二人でどうしていきたいのか。貴之は友人にヒアリングをした。

 友人は告白という大勝負の勝率を上げるために、普段なら言わないような心の内を素直に吐露した。

 それは貴之にとって、不思議な感覚だった。

 普段は胸の中に隠している大切なものに触れるのは、自分が失ったなにかを取り戻しているような気がした。

 話を聞いた貴之は、何パターンかラブレターを作った。

 意外にも、この作業は楽しかった。

 このとき、初めて父の形見の万年筆を使った。

「貴之は天才か!」

 文章を読んで友人は喜んだ。

 このラブレターを使って友人は先輩に告白し、見事に恋は成就した。

 友人は貴之に感謝した。貴之も友人の幸せに貢献できて嬉しかった。

 そうだ、嬉しかったんだよな……。

 貴之はビールを飲み干して、新しい缶に手を伸ばした。タブを開けるとプシュッと音を立てて白い泡がチラリと覗き、消えていく。さっきの缶よりも少しぬるくなったビールを喉に流し込んだ。

 貴之の字が上手いのは父親譲りだ。

 遺伝ではない。父の筆跡を模倣した。

 学童期の持ち物には名前を記さなければいけない。本人が嫌でも親が面倒でも、学校の決まりなので仕方がない。

 貴之の母親は、汚文字であることがコンプレックスだったようだ。提出用のプリントから貴之の荷物まで、文字を書くのはすべて父親の役目だった。

 父親はごく普通のサラリーマンで字を活かすような仕事ではなかったが、読みやすく美しい字を書いた。父方の叔父も達筆だったので、父の実家の教育だったのかもしれない。

「お父さん、上手!」

 父が字を書くたびに、母は大げさに褒めた。それは本音でもあったろうし、役割を担ってくれている夫への労いでもあったのだろう。

 思えば、美文字を書くと人に喜ばれるというのは、この頃に刷り込まれたに違いない。

 小学校の頃は、貴之はよく父の字を模写していた。

 いつしか、クラスメイトからも教師からも「字が上手い」と褒められるようになった。

 将来、この字で人を喜ばせるようになりたい。

 貴之はそう思っていた。

 しかし、中学一年の年末に――。

「氷藤さん、次は品川駅ですよ」

 美優に声をかけられた。

「ああ、そうか」

 思い出に浸っていたら、時間が過ぎていたようだ。残り少ない二本目のビールを飲み干して、三本目は鞄にしまう。家で冷やしてから飲もう。

「……っておい、なんだよそれは」

「駅弁ですよ。普段は買えないじゃないですか。冷蔵庫に入れていれば、二、三日は大丈夫です」

 机にのった白いビニール袋には、弁当が重なって入っていた。

「駅弁なんてここで買わなくても、いつでも家で取り寄せられるだろ」

「えっ、そうなんですか!?」

 美優は衝撃を受けたようにのけ反った。しっかりしているように見えて、かなり抜けている。

「今日はありがとう。おかげで依頼人は喜んでいた」

 貴之は美優に礼を言った。

 当然、社交辞令だ。

 迷惑以外の何物でもなかったが、大人の対応をしておく。もう二度と会うことはないだろうが、SNSであることないことを拡散されても困る。

 それに終わってみれば、悪い経験でもなかったような気もする。たぶん。

「わたしの名前、憶えていますか?」

 美優はずいっと、愛らしい小さな顔を近づけてきた。

 貴之は固まった。

 思い出せない。

 というよりも、そもそも覚える気がなかった。

「やっぱり、覚えていなかったんですね。おい、とか、おまえ、とか。全然名前を呼んでくれませんでしたもんね」

 バレていたか。

 名前を呼ばれたかったのなら、もっとはじめに確認すればよかったのに。こんな別れ際に文句を言っても仕方がないじゃないか。

 若干の罪悪感を抱えながらも、貴之はそう思った。

「わたしは新田美優です。はい」

 英語の授業の、「リピート・アフター・ミー」のような仕草だ。

 どうせ、もう少しでおさらばだ。気が済むまで付き合ってやろうではないか。

「にったみゅう……、みゅう。んん? み、ゆ、う。おまえの名前、呼びづらいな」

 アルコールも手伝って、舌が回らない。

「そうなんです、友達にも同じことを言われました。だからあだ名はミュウなんです。氷藤さんもミュウでいいですよ。わたしも貴之さんって呼んでいいですか?」

 こいつ、また距離を詰めて来やがった。

 貴之は得体の知れない生き物のように美優を見た。

 ここまで「グイグイ」ではなかったにせよ、学生時代にクラスに一人はいたよな、こんなやつ。

 自分とは正反対の人間だと貴之は思った。

「どうぞ、ご自由に」

 品川駅に着くまでの辛抱だ。あと何分だ?

 美優が「やった!」と喜んでいる間に、のぞみは品川駅のホームに滑り込んだ。

「東京に戻ってきましたねっ」

 ホームに降りると、美優は伸びをした。

「あっ! 貴之さん見てくださいっ」

 美優は早速、貴之を名前で呼んだ。

「なんだ?」

「ドクターイエローです! 初めて見ました!」

 美優の指を追うと、ホームに入ってきた真っ黄色の車両が停車するところだった。貴之も実際に見るのは初めてだ。

「わあっ、今日は遭遇できる予感がしていたんです。とても運がいい日ですから」

 俺は面倒なのに付きまとわれて、運が悪かったけどな、と貴之はこっそり悪態をついた。もしや、美優に運を吸われたのではないか。ドクターイエローの力で、これからいいことがあると信じたい。

 とはいえ、怠慢になりつつあった仕事を見直すきっかけにはなったか、と思い直す。一日潰してしまったが、ポジティブにとらえよう。

「よかったな。じゃあ」

 貴之は美優に背を向けて別れようとする。

「ちょっと待ってください、貴之さん」

 貴之は腕を掴まれた。

「なんだ」

 まだ、なにかあるのだろうか。

「この時間なら、まだ間に合いますよ」

「なにに?」

「文房具店ですよ。節子さんは明るい緑が好きだって言っていたじゃないですか。レターセットを買いに行きましょう。付き合いますから」

 美優はラウンジでのやりとりを覚えていたようだ。

「……いや、明日ひとりで行く。おまえも疲れてるだろ」

「ちゃんとミュウと呼んでください」

「うん、ミュウだったな」

 この底知れない体力と気力と押しつけがましさは、どこから来るのだろうか。逆らっても、激流を水鉄砲で押し返そうとするくらい無駄な行為のような気がしてきた。

「そう言って貴之さんは、新しいレターセットを買わないつもりなんでしょ。今日できることは今日しましょう、先送りをすると面倒になりますよ。さあさあ」

 貴之は背中を押された。

 ああもう、まだ今日は終わらないのか。

「貴之さん、これからは依頼者の話を直接聞くようにするんですか? 電話ではなくて」

「まあ、一応なあ」

 名古屋ではそんな気分になったが、まだはっきりとは決めていない。

 貴之はわざと後ろに体重をかけてやった。華奢な美優は貴之を押せなくなって苦戦している。

「ほら出た、『まあ』。どっちつかずの時の口癖ですよ。……うう、重い」

 貴之は口を押えた。

 これが口癖だったのか。気をつけよう。

「絶対に会って話した方がいいですよ。貴之さんはデリカシーがなくて心配ですから、次もわたしが同行してもいいですよ。連絡をくださいね」

「いやいや、おまえも仕事があるだろう」

 ミュウです、とバカ丁寧に美優は繰り返した。

「なんとかします。今日だって、わたしがいたから上手くいったんじゃないですか」

 そんなことは……、なくはないかもしれないが。今までだって一人でやっていたのだ。依頼者の話を聞くのに、二人もいらない。

「ちゃんと連絡をくださいね。そうだ、念のために今、ワン切りします。ちゃんとわたしの番号を登録してください」

 美優は貴之の背中を押すのを諦めて隣りに並んだ。操作するスマートフォンからは地蔵のストラップが揺れている。

「まあ……、いや。力を借りたくなったら連絡をする」

 口癖は簡単に直りそうもない。

「はい、待ってます」

 美優はにっこりと微笑んだ。

「さあ、レターセットを買いに行きましょう! ペンは買わないんですか? あっ、キラキラのシールとか手紙に貼ったら可愛くないですか?」

「だから、来なくていいと言ってるだろ」

 季節を先取りしすぎたコートを着る美優に急かされて、貴之は文房具店に向かった。


 随所で美優が気になる発言をしていたのが引っかかっていたのだが、勢いに流されて、貴之はすっかり聞きそびれていた。


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