海賊王と麗人海軍~海洋恋愛浪漫譚~ 4章(5/8)
四章 竜骨の下で
ロバート海賊団としての初航海を終えて二週間後、次の航海が始まった。今回もロバートに「一月前後で帰港予定」と告げられている。
「ターゲットが定まっているとしか思えないよね」
出航して二週間目の朝、清掃と食事が終わり、船乗りたちは各自寛いでいる。アレクサンドラとエドワードもフォーチュン号の甲板で潮風を受けながら、小さな声で話をしていた。推進はマストに任せ櫂漕ぎはいない。周囲には誰もいなかった。
「しかし、海軍の航路は極秘事項だ。貿易をしている商人たちだって、それは同じだろう」
「それなのにロバートは、スケジュールからルートまで全て把握しているようだ」
「そうだ。なぜ知り得るのか」
アレクサンドラは考えながら空を見上げた。雲一つない。今日も暑くなりそうだ。
「各国の情報屋から情報を買っている、とか」
「どうやって? 仮に情報を得た者がいたとして、船に乗って情報を伝えに来る間に、商船だって出航している」
アレクサンドラはシミュレーションしようとして、上手い手が見つからなかった。
「わからない。エドはどう考えてるの?」
「俺たちが遠距離で使う通信方法は、伝令、狼煙、手旗、軍鳩」
「その中で、早く遠方に詳細を伝えられるのは、伝書鳩だね」
「鳩を使うなら、予め各国に訓練された鳩を輸送していなければならない」
伝書鳩は手紙を足や胸にくくりつけ、帰巣本能を利用して運ばせる通信手段だ。そのため、主に片道しか使えない。
「現実的じゃないよね……」
そのとき、見張りがカンカンと鐘を鳴らした。船長室からロバートとネイサンが出てくる。舵はブッチャーが取っていた。
「商船か?」
「はい!」
どこかでヒュウッと指笛が鳴った。既に得られるはずのお宝に胸を躍らせているのだろう。
「おまえら、品をよくしろ。あの手で船ごといただくぞ」
「おうっ」
船員は下の甲板に降りていった。
「あの手?」
操舵輪を握るブッチャーに尋ねる。
「紳士淑女の格好をして、こっちも商船だと思わせて近づくんだよ。俺はどんな格好をしても目立つから、ネイサンと代わって隠れるがな」
「ああ、なるほど」
海賊は戦うだけが能ではないということだ。
「クリス、いつものドレスを着ろ」
「はあい」
ロバートは下の甲板にいるクリスに声をかけた。
「ほら、おまえもだ」
「えっ」
緑のなにかが投げ渡される。
「ド、ドレス……」
「かつらもつけろよ」
元々女性で、男装をしているというのに、その上女装をしろというのか。
「笑えない」
「時間がない、早くしろ」
ロバートはニヤニヤと笑っている。
「ついでに化粧もしておけ。手短にな」
アレクサンドラは戸惑った。男性に寄せるための化粧は毎日しているのだ。
「どうしよう。エド、代わってよ」
「代わってやりたいところだが、ドレスのサイズが合わない」
「アレックス手伝ってあげるよ。早く着替えよう」
いつの間にかピエールは上等のダブレットを羽織っていて、ナチュラルブラウンの髪も艶やかに梳かれている。まるで貴族のお坊ちゃんのようだ。
「いや、大丈夫。着替えて来るよ」
「俺も行こう」
船には個室はない。船倉にある死角で着替えるしかないので、エドワードは壁役を買って出たのだ。
「なんだか、変な気分だよ」
胸を潰すために晒しを巻いているが、解くと巻き直しが面倒なので、ドレスを着た上で、余っている胸の部分に詰め物をした。布を巻いてくびれをなくしているウエスト部分は、どうせドレスはひもで締めてくびれを作るのだからと外すことにする。
肩幅を水増しするための肩パットはチュニックに縫い付けていたので、脱ぐと肩のラインが変わってしまったが、もし指摘されたらドレスのせいだと言ってごまかそうとアレクサンドラは思った。
化粧については迷ったが、顔を洗って化粧を落とすことにした。そもそも眉と、肌質が荒れて見えるようにするための粉しかつけていない。最後に胸元まで届くブルネットの巻き髪のかつらをかぶった。
「ありがとうエド、終わったよ」
「そうか」
荷の影で着替えていたアレクサンドラに背を向けて立っていたエドワードが振り返った。
「……」
「ちょっと、そんなにじろじろ見ないでよ」
瞠目しているエドワードの胸を押して、アレクサンドラは頬を染めた。
「ドレスを着たのは四年ぶりだ。本気で恥ずかしいよ。……エド、もういいんだよ、どいて。早く行こうよ」
動かないエドワードに、アレクサンドラは首をかしげた。
「その姿、他の奴に見せたくないな」
「え、そんなに変? まいったな、鏡でもあればいいんだけど。ちゃんと女性っぽくなってる?」
「それは問題ないが」
「じゃあいいや、行こう」
エドワードを押しやって、昇降口を上った。
「間に合ったかな。それで私はどうすればいい?」
甲板で各々紳士の格好をしていたメンバーがざわめいた。恥ずかしくなったアレクサンドラは、思わず顔の前に両手をかざした。
「驚くほど似合ってないのか。私も隠れていようか」
ブッチャーを含め、堅気に見えない者は物陰に隠れている。
「ちゃんと女に見えるからみんな驚いてるんだろ。いいから、クリスの隣で貴婦人の振りをしてろ」
ロバートに背中を押されて、船縁にいるクリスに並んだ。クリスは白いレースのドレスを着て日傘を持っている。普段から女性に見えるクリスがドレスを纏うと、どこに出しても恥ずかしくない、美しい令嬢そのものだった。
クリスは自分より少し背の高いアレクサンドラの頭からつま先まで視線を走らせると、無言でそっぽを向いた。気まずい沈黙が続く。
「やあクリス。スカートってスースーするよね。私は中にパンツをはいたままだけど、クリスは?」
アレクサンドラはぎこちなくクリスに話しかけた。嫌われていると知ってからクリスの近くには寄らないようにしていた。
「ボクの方が可愛い」
「……え?」
「ボクの方がドレスが似合う」
なぜ張りあうのか。
「そうだね、クリスは可愛いよ」
「ああもう、そういうところが嫌い! ヘラヘラしていれば誰かが助けてくれるとでも思ってる? ボクはやっとの思いで入団して、役立たずはいらないって言われ続けて、毎日血のにじむ努力をして砲撃の精度を上げたんだ。あんたはロバートのなんの役に立ってるんだよっ!」
「……助けてもらってなんて……」
言いかけて、確かにそうだと思い返した。アレクサンドラはずっとエドワードに甘えている。
「私は団員として認められていないんだね」
認められてどうする。私はロバートを捕らえに来たのに。
そんな思いも頭によぎり、アレクサンドラは複雑な気持ちになって表情を曇らせた。
「ほら、その顏。イライラする」
「クリス、もう商船が近いんだ。笑って手を振っとけ」
ロバートは荷物の影に隠れている。周囲を見渡すと、三分の二ほどの船員は武装をして身を隠していた。
商船は目前にいた。フォーチュン号の帆柱の上には、いつのまにか商船と同じ旗が掲げられている。相手は同じ国の仲間だと思っていることだろう。クリスが手を振るのに応えて、商船の紳士は帽子を取って会釈を返した。
ガレー船が商船と並び、お互いの舷側の距離が最大限に近づいた時、銃声が轟いた。剣や銃を持った海賊たちが、ロープを使い、船縁に足をかけ、商船に飛び移っていく。
「手を上げろ!」
「抵抗するな!」
襲われた商船員たちは突然のことに身動きすら取れない。そこにまた銃声が続けざまに響いた。全て空に向けて撃たれたもので、脅しに使っているのだ。
ロバートもいつもの深紅のジュストコールにトライコーンの格好で、マスケット銃を両手に持って、商船員たちを脱出用のボートに乗せて追い出しにかかっている。紳士の格好をしていた海賊たちも窮屈な服を脱ぎ去り、商船に乗りこんで行った。
「しまった。この格好じゃ役に立たない」
アレクサンドラは臍を噛む。ドレス姿のまま海賊たちの活躍を見ているしかない。クリスはちゃっかり上下の衣装を下に身に着けていたので、ドレスを脱ぎ捨てて船を移って行ったのに、自分はそうすることができなかった。チュニックを脱がずに、上からドレスを着ればよかった。
「あれは」
商船員のひとりの挙動がおかしいことに気づいた。そっと帯刀している剣に手を伸ばしている。
「ロバート、危ない!」
男は脱出用ボートに乗るふりをして、振り返りざま剣でロバートに斬りかかった。ロバートは難なく避けると男を海に放り込んだ。
「ほら、早く助けてやらないと、サメに食われるぞ」
商船員たちは急いでボートをおろし、海に落とされた男を救助して、大海原に漕ぎ出した。
「ここからなら三日もせずに港に着くさ。運が良ければもっと早く船に拾われるはずだ。天候もしばらく問題ないだろう」
そう言いながらロバートがガレー船に戻ってきた。
「さっきは、ありがとな」
「私が言わなくても気づいていたんでしょ?」
「どうかな」
ロバートはアレクサンドラを見つめて、ニッと笑った。
「よく似合ってる」
ロバートは指輪のついた長い指でアレクサンドラ頬をなでた。アレクサンドラの胸が高鳴る。
どうも見張り台で一緒になってから心臓がおかしい。
「着替えてこなきゃね」
恥ずかしくなって、アレクサンドラは顔をそらした。
「本当、いつまでそんな格好してるんだよ。ボクが手伝ってあげる」
後ろからクリスの声が聞こえたかと思うと、ドレスを一気に下げられた。
「あっ!」
驚いて上ずった悲鳴が漏れてしまった。
「なに女みたいな声出して……」
胸元を押さえてアレクサンドラはしゃがみ込んだ。胸には晒しを巻いているとはいえ、あらわになった肩からくびれた腰にかけて露出している。
「女……?」
「女じゃねえの?」
ざわざわと声が聞こえる。
「ちょっと、ちゃんと立ちなよ」
クリスに腕を引かれて、ドレスとかつらを奪われた。亜麻布のパンツと靴は身に着けていたが、上半身は鎖骨の下から胸の下までを巻いた晒しのみの姿となる。体のラインが丸分りだった。
ばれた。
アレクサンドラは唇を噛みしめた。
血の気が引いて、顔が真っ青になる。
「エドはあんたが女だって知ってたんでしょ? だからあんなに甘やかしてたんだ」
クリスが指摘した。
「さあ」
どう答えればエドワードに迷惑にならないのかわからない。視線だけでエドワードを探したが、近くにいないようだ。
「エドはあっちの船。オレが適当に二手にわけた。港に着くまでは合流しない」
アレクサンドラの視線に気づいたロバートが商船を親指でさす。商船は若干離れた後方からついてきていた。
「ネイサン、この船にいる全員を集めてくれ」
ロバートが指示すると、ネイサンは他の乗組員たちにメガホンを使って呼びかけた。船員たちは船尾楼側の甲板に集まり、晒し姿のままのアレクサンドラを囲む。軍隊の訓練以外にも毎日トレーニングを欠かすことがなかった身体は、ほっそりとしながらも筋肉の張りがあって引き締まっている。女性としては背が高く手足がスラリと長い。
観念したアレクサンドラは、それでも弱気な態度になるまいと、いつものように姿勢よく立つよう心掛けた。握った手は冷や汗で湿っている。
「こうして見ると、女だと気づかなかったのが不思議だな」
「先入観ってのは恐ろしいもんだ」
ロバートは手を打って、ざわついている船員たちを黙らせた。
「さて、女は連れ込まないというのが俺たちの掟だ。みんな、どうしたい?」
ロバートは樽に腰掛けて長い脚を組み、船員を見回した。
「船から落とせばいい」
クリスが突き放すように発言した。
「初めから殺す前提のものは却下」
ロバートが返した。
「鞭打ちが妥当だろう」
「甘い」
「回数による」
「一人十回打つとして、約八百回」
「それは死ぬだろう」
「死ぬかもしれない回数を耐えてこそなんじゃないか?」
「俺たちは舐められたんだ」
口々に意見をする船員たち。アレクサンドラの味方をしてくれそうなブッチャーやピエールはあちらの商船にいるようだ。
「生きるか死ぬかなら、船底くぐりの刑だろう」
その言葉にざわめきがおきた。
「成功した者を見たことがない」
「サメに食われるか、溺死するか」
ロバートは手を打った。
「そこまで! よし、鞭打ち八百回か、船底くぐりの二択だ。アレックス、選べ」
「……わかった」
返事をするアレクサンドラの声がわずかに震えた。
海賊の鞭打ちは、丈夫で短いロープの半分を九本に解き、それぞれの先端を結わいた“九尾の猫”を使用する。その鞭で打たれると皮膚が裂け、百回でも死に至ると聞いたことがある。八百回も打たれて耐えられる自信が、アレクサンドラにはなかった。
船底くぐりはどうだろう。
文字通り、舷側から海に入り、船の中心である船底の竜骨の下をくぐって反対側の舷側まで泳ぐことだが、何分かかるのか想像がつかない。ただ、さっきロバートに落とされた商船員がしばらく無事に海にいたので、人食いザメはいないだろう。……と思いたい。
アレクサンドラは決めた。海軍で鍛えられたので、泳ぎには自信がある。あとは息が続くかだ。鞭よりは勝算があるはずだ。
「船底くぐりをする」
船員たちはどよめいた。誰かが太鼓のように樽を叩く。
ガレー船の帆がたたまれて、進みが緩やかになった。後ろの商船も速度を合わせている。海原で船を停めて、商船の乗組員たちはどうしたことかと思っているだろうか。それとも、既にネイサンがなにか伝えているのか。
「さあ、準備はいいか?」
ロバートの声に、アレクサンドラは頷いた。船員たちは黙ってアレクサンドラの一挙手一投足を眺めている。
服を着ると水を含んで動きが鈍くなりそうなので、靴を脱いだだけで、晒しとパンツのままでいることにした。腰のカトラスをどうしようか迷ったが、携帯したまま船縁を乗り越えた。
高かった。
深い藍色の波が、来ることを拒んでいるように渦を巻いている。アレクサンドラは息を飲んだ。腰が引けて足が震えそうになる。
肩越しに振り返ると、ロバートは無表情で樽に腰掛けたままこちらを見ていた。
「できる。私はできる」
緊張して、どうしても息が浅くなってしまう。アレクサンドラは全身に力を込めて、一度脱力した。深く吸った息をゆっくり吐き出しながら、集中して海面を見つめる。
震えが止まった。前に伸ばした両手に集中すると、野次などの全ての音が遠ざかる。ただ、髪を揺らす海風だけを全身に感じた。
「よし」
呼吸を整え、肺を空気で満たし。
――海に飛びこんだ。
指先から入水時の衝撃を感じ、その勢いのまま潜水していく。冷たい水に包まれて、一気に体温が下がっていった。それだけで、想像以上に体力を持っていかれる。
喫水線の下の船腹は、船体の虫食いを防ぐためか銅板で覆われ、それが錆びて緑色に変色していた。そこにフジツボが岩のように群生し、海草が絡まって、不気味に漂っている。
深く潜るほど光が弱まり、色彩が失われ、視界が暗くなっていく。まるで底なし沼に向かっているような不安感に捕らわれた。あえてなにも考えないようにして、無心で手足を動かし続ける。
息が苦しくなってきた辺りで、やっと船底の中心、船の背骨である竜骨が見えてきた。
あと半分。
いける。
なんとか間に合うはずだ。
疲れと体温の低下から思うように力が入らない身体を、気力で動かした。
その時。
なにかの気配を感じて、アレクサンドラは周囲を見渡した。全身が粟立つ。本能が危険だと告げていた。
水面に近くても、余程透明度が高い海でない限り、海中での視界は十数メートルほどになる。ましてや光が届かないこの地点では、数メートル先までしか見えない。
なにかがいる。しかし、どこにいるのかわからない。
警戒して五感を研ぎ澄ませていたアレクサンドラは、灰褐色の影を捉えた。その影は一気に膨れ上がり、流線型の塊が突進してきた。
鮫だ。
尖った頭の先端が上がり、アレクサンドラをひと飲みできそうなほど大きな口が開くと、鋭い歯が襲ってきた。
「……っ」
アレクサンドラは船体を蹴って回避する。しかし口を開けたままの鮫はその動きに合わせて頭を大きく振り、噛みついてきた。
「っ!」
肩に痛みが走り、アレクサンドラは傷口を手で押さえた。歯がかすった程度だったが、線状に三本、皮膚が裂けていた。
三日月型の尾びれを振って鮫は視界から消えた。しかし、気配がなくなったわけではない。アレクサンドラは身につけていたカトラスに手を伸ばした。恐怖と寒さによる握力の低下で手が震えた。落とさないよう柄をしっかりと握って、身構える。
鮫の体長は四メートルほど。水中では大きく見えるので、アレクサンドラの体感では、それ以上の存在だった。そんな巨体が、自分よりもはるかに早いスピードで迫ってくるのだ。
周囲はただ闇が広がるばかりで、逃げ場はない。助けもない。一人で戦わなければならなかった。
船を背にして死角を減らしながら、神経を張りつめていると、下方から鮫が迫ってきた。
鮫はアレクサンドラに食いつかんと顎を突き出して鋭い歯を向けてくる。ぬめる船体に足をかけ、アレクサンドラはカトラスで鮫の頭から顎までを切りつけた。
鮫の身体が大きく跳ねた。その水流に巻き込まれ、アレクサンドラは鮫に引き寄せられる。
しまった。
アレクサンドラは身構えようとしたが、鮫は獲物どころではなくなったようで、尾鰭を激しく動かして姿を消した。
アレクサンドラは鮫の去った方向をしばらく眺めていたが、引き返してくる気配は感じなかった。
追い払えた、のか……。
安堵した拍子に、アレクサンドラは海水を飲みこみそうになった。脅威が去ると、忘れていた苦しさがぶり返してきた。
こみ上げてきた空気と共に、最後の気力までも体外に出ていってしまったようだ。カトラスは手から零れ落ち、沈んでいく。
体がピクリとも動かなくなった。
動け、動け!
そうアレクサンドラが念じても、指先さえも自由にならない。
肌は氷のように冷たいのに、空気を取り込みたいと身体が渇望し、内臓が爆発しそうに熱くなっている。血管が破れそうだ。全身が心臓になったかのように、激しい鼓動だけが聞こえた。
それは、心臓の断末魔のようだ。
限界だった。
……ここまでなのか。
生理的な涙があふれ、海水に溶ける。
だめだ、進まなきゃ。ここで意識を失ったら……。
身体が鉛のようだった。船体が遠ざかる。意識が霞んでいく。
アレクサンドラは沈んでいた。
最後まで勝手なことをして、ごめん。エド。
そして赤いジュストコールの男が脳裏に浮かんだ。
結局、何者だったのだろう。
彼をもっと知りたかった。話したかった。
――共に、世界を旅したかった……。
アレクサンドラは観念して目を閉じた。
そのとき、腰になにかが巻きついた。
「……?」
広がる金の髪と碧眼が、アレクサンドラの視界に飛び込んできた。
ロバート?
ここにロバートがいるわけがない。死に際の幻覚なのだろうか。
朦朧としている意識の中、鼻をつままれて、唇が押し付けられた。
「っ!」
枯渇した肺に、温かい空気が送り込まれた。体が楽になり、意識が戻ってくる。
ロバートが口移しに酸素をわけてくれたのだと、アレクサンドラは理解した。しかし、それではロバートが苦しむことになるだろう。胸を押し返そうとしたが、ロバートはびくともしなかった。
アレクサンドラを支える逞しい腕が、大丈夫だと語りかけているようだった。
無駄な抵抗をするのはやめ、アレクサンドラはロバートに身をゆだねた。なんとも言えない一体感、安心感があった。弾力のある唇の感触が心地いい。逞しい身体に包まれ、極限に冷えた身体にも熱を分け与えられていた。
餌を与えられる雛鳥のように、アレクサンドラはロバートの贈り物で身体を満たした。失っていた活力が戻ってくる。
ゆっくりと唇が離れた。ロバートは悠然と笑い、海面を指さした。かすかに光が見える。いつの間にか竜骨が見えないほど先に進んでいた。
ロバートはアレクサンドラの足裏を両手で掴んだ。踏み台になるつもりなのだろう。アレクサンドラは肯いて膝を曲げ、ロバートを蹴って、勢いよく浮上し始めた。手の指先から足先まで、ロバートに与えられた力で水をかく。暗い海の底から、色がだんだんと淡くなる。光があふれる。
海面に顔を出すと、船員たちの驚愕と歓声の声が響いた。いつのまにか隣に並んでいた商船からも、同じように声があがっている。
遅れてロバートも海面に顔を出した。
「縄梯子を二つ降ろしてくれ! 鮫が来るかもしれない、急げ!」
おおっ、というどよめきがった。
アレクサンドラと同じように船底くぐりをして、しかも空気までわけ与えてすぐにロバートは大声を出している。対してアレクサンドラは、まだぜいぜいと肩で息をしていた。全身が震え、唇が青くなり、声を出せる状況ではない。
完敗だと、アレクサンドラは心の中で白旗をあげた。
「よくやった」
ロバートは張り付いた金髪をかき上げて、ニッと笑った。
「なぜ……」
アレクサンドラの声はかすれている。海水のせいで、やすりをかけられたかのように喉が痛んだ。
「なぜ、私を助けた」
ロバートが来なければ、今頃海草と一緒に海底を漂っていたはずだ。
こうしている間も、力が入らないアレクサンドラが沈まないよう、ロバートは片手を添えている。
「オレは、おまえが女だと知っていた」
「えっ……」
「知っていながら、面白半分でドレスを着せたんだ。この騒ぎはオレにも多少、責任がある」
目を見張り、アレクサンドラはロバートを凝視した。
「いつ、から?」
「それは内緒」
ロバートはにやりと笑った。
「あんなことしなくても、私が気絶してから引っ張ることもできただろうに」
現にアレクサンドラは気を失いかけていた。そうなればそれ以上水を飲まないし、抵抗もしなくなる。息を分け与えるより、ずっと楽に引き上げられただろう。
「あんなことって?」
そう聞き返されたアレクサンドラは、目元を染めてロバートを睨んだ。
「自力で船底くぐりをしないと、みんなおまえを認めないだろう。オレは見張りってことで飛び込んだんだ。今回が初めてじゃない。罰は死なせることが目的ではないからな。気を失った時点で、船底くぐりは失敗だ」
死なせるつもりはなかったのか。では鞭打ちを選んでいても、ギブアップした時点で止めたのかもしれない。
「それに鮫に襲われていなければ、おまえは自力で船底くぐりを成功させていただろう。オレは見ていた。勇敢だった。そうできる者はいない」
ロバートに笑顔で称えられ、アレクサンドラははにかんだ。
「ありがとう、ロバート……」
「どういたしまして。オレが手を貸したことは二人だけの秘密だからな」
ロバートはウインクして、下りてきた縄梯子に手をかけた。
「アレックス、上がれるか?」
アレクサンドラは、手を握ってみた。まだ力が戻っていない。甲板まで自力で縄梯子を上がる力はなさそうだった。
「だろうな。落ちないように縛ってやる。……よし、引き揚げろ!」
アレクサンドラの身体を縄梯子に固定すると、ロバートは仲間たちに声をかけた。そして鍛えられた筋肉を躍動させて、ロバートは自力で縄梯子を上がっていく。
ロバートを見ながら、自分もほぼ裸の状態であの身体に抱きしめられたのだと思い出し、今更ながら恥ずかしく思った。
力強い腕だった。
密着した身体は、海水で冷え切ったアレクサンドラを温めてくれた。命そのものを与えられたようだった。
「……」
アレクサンドラは、そっと唇に触れた。息を吹き込まれる感覚が蘇って、全身が甘く痺れた。
胸が熱くなり……。
そして、苦しかった。