倍速視聴で観たことになるのか問題
最近YouTubeなどの動画を1.5倍とか2倍とかで観る人が結構増えているらしい。
まあ、ものによってはそういうのが適しているものもあると思う。時事ネタの解説とか、ただ単に情報を集めたくて見てる動画とか。
ただ、「表現」が入っているものに関しては、倍速して見てもそれはただ眺めただけであって鑑賞したことにはならないんじゃないかな、と個人的に思う。
例えば、映画やドラマの映像で、役者が一瞬タメた「間」(ま)があるとする。
それって、その役者や演出家や監督が必要だと思ったから入れてるわけだ。その場所、その長さ、その入れ方がその作品に必要で合っているからそこにそのタメが入っている。
でも、それを2倍速で観たら、タメの長さも半分になって、ヘタしたらそのタメの存在に気づかないかもしれない。
確かに、それは形式的には「見た」ことになるかもしれないけど、味わったかと言われると、話半分で聞いてましたみたいな感じじゃないかな。
「神は細部に宿る」どこかの建築家だかなんだかの言葉だけど、映画でもドラマでも、もちろん音楽もそうだけど、細かい要素を積み上げて行って一つの作品ができる。そこには作者、出演者、演奏者、その他それに関わった人達の「こだわり」がある。
もちろん、それをどう受け止めるかは受け手にかかっている。まず、受け取るかどうかがあり、次にそれをどういう形で感じるかという作り手と受け手の作品を通してのコミュニケーションが間断なく繰り返される。
それを、なんかこう、おれに言わせると「ただ撫でただけ」で、その作品の何を「味わった」んですかね?という素朴な疑問は残る。
ひょっとしたら、何か「見ておいた方がいい『と世の中で言われている』リスト」みたいなのを作っておいて、それを塗りつぶしていく作業をしている人がいたら、まあそういう見方もアリかもしれない。
もちろん自分だって世間一般で「名作」とかそのジャンルの「代名詞」と言われているものでも、一つもピンと来なかったものはある。沢山ある。
でもそれは、その作品をその作品がそうあるように作られた形で鑑賞した結果、おれには響いてないという結論を出したわけよ。
でも、90分の映画って90分鑑賞されることを前提に作ってるのよね。その前提条件を崩して60分とか45分で見ても、もうすでに前提が違うじゃない?っていう話なわけよ。90分の脚本を長いから60分にしてくれって脚本家に言ったら怒られると思うよ(笑)。
以前聞いた話で、「オタクになりたい若者」てのが一定数いるらしい。
個人的にはオタクってのはなりたくてなるんじゃなくて、気づいたらなってるものじゃないかとは思うんだけど、まあそれは置いとくとして。
今は検索一つで情報が沢山入手できるから、一つ動画を見たら「あなたにオススメの動画はコレ」とプログラムが自動的に出してくれたりする。あるいは、「このジャンルを好きな人が見ておくべきベストいくつ」みたいなのが容易に手に入る。
おれがそういうのをずらーっとリスト化して何十個も出されたら、もうそれだけで辟易してしまって、そもそもそれに手を付けない可能性が高いわけだけど、「オタクになりたい若者」は、まあ、ある種真面目なんだろう。そういうのを片っ端から手を付けていく。でも時間は有限だから、全部見てたらキリがない。そこで鑑賞時間を短縮させるという手段に出る。
分水嶺はここなのよ。沢山あって見切れないから、早く見終わるようにする。これって、「見たことにすること」に主眼が置かれていて、その作品が自分にとってどう響くかってことは二の次になってませんかね。
だいたい、世の中にある「名作」を「全部」見てるやつなんていないんだよね。「名作」全部に手をつけて、見終わりました。以上。それってただの作業だよね。
それに、自分にとって良い作品って何度見ても面白いじゃない?ということは、作品自体が持っている時間の何倍もの時間をその作品を繰り返し鑑賞することで使う。ということは、初めから短縮してみることに大して意味はないということになるんだよね。
とここまで完全に主観の感想文を書いてみて、まあでも今の大学生とかはおれとはそもそもおれとは違う出発点にいるわけだから、話かみ合わないんだろうな~と思ったりする(笑)。
まあ、いずれにしろ、作る側からしたら「意図して作ってんだから、倍速視聴しないでよ頼むよ」というところだろう。ギターソロ飛ばす問題でも同じことだけどね。
逆に、倍速視聴前提の作品が出来たらそれはそれで革命的かもしれない。