![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/151807109/rectangle_large_type_2_9e820101e41c3d8ce989956dbd16ca89.png?width=1200)
父が生まれて今日でなんと百年って話
2024年8月24日、本日、我が父が生誕100周年を迎えた。
めでたい。
まあ、生きていれば、の話。
父は5年前に亡くなったので、地上で生誕祭!と言ってもあちらの世界で「はあ、そうですか」くらいにしか思っていないだろう。
100年前、1924年、日本は世界は、どんな風だったんだろう。
先日終わったばかりのパリオリンピック。
100年前の1924年もパリだった。
百貨店が登場したのも100年くらい前の話。
服装は、和服から洋服に変わっていく頃か。
今では当たり前に来ている洋服だが、当時、庶民には高級な代物だったらしい。
この100年で、瞬く間に日本は変化してきたのだ。
この頃の父の写真はない。
カメラもまだ庶民の持ち物ではなかった。人間の記憶って、実際に体験した記憶が一番だけど、視覚で残されたものでその頃のことを思いだしたり、思いをめぐらせるところがあるから、ちょっと残念な気持ちになる。
子供の頃の父を想像すると、白黒でアタマの中が埋め尽くされる。100年前だって、世の中には色があったのに。当時は白黒フィルムでしか写せなかったから、世の中が白黒だったように記憶してしまう。
んなわけないのにね。
写真だけではない。
父は多くを語らない性格だったので、何を嬉しいと感じ、何を幸せと思い生きていたのか最後まで分からなかった。
母は父のことを「結婚には向かなかった人」と言っていた。
子供である私と姉を可愛がることもしなかったし、会話もほとんどなかった。
「昭和の父親なんてそんなもん」と言う人もいるが、そうだろうか。
そう、昭和の名ドラマ「寺内貫太郎一家」の貫太郎みたいな人と言えば分かるだろうか。あ、平成生まれの方々、ごめんなさい。余計わかんないか。
気に入らないことがあると卓袱台をひっくり返すような人だった。
海上保安官だった父が、ひと月かふた月くらい不在だったことがある。
私が幼稚園の年長くらいの時だ。
広島県の呉市で巡視船をドックに入れる仕事があったのか、または訓練だったのか記憶していないが、父の不在が長期に渡るのは初めてのことだった。
怖い怖い父が家の中にいない。
ちいさい声で言うが、それはとても平和な期間だった。
ある日、母が父に手紙を書くように言った。
父が手紙を書くような人間ではなかったので、もらった手紙に返事を書けと言ったわけではない。
あまりにも子供が父に懐かないので、手紙でも書かせたら父が喜ぶのではないか?と思いついたのだろう。
「なんて書けばいいのかわからない」
と、母に言うと、
「おみやげを買ってきてくださいって書けばいいのよ」
と、母が答えた。
父から「おみやげ」などもらったことがない。
そもそも、父が買い物をするのを見たことがない。
財布を持っていたのかも怪しいところだ。
広島ってどんなところなんだろう。
おみやげを買えるところなんてあるのだろうか。
姉は意外にもスラスラと「ぬいぐるみを買ってきてください」と書いていた。いつも怒鳴り散らす怖い父におみやげなどねだる気持ちになれなかった5歳の私は、どうしたもんか悩んだ。
しかし、姉が「ぬいぐるみ」なら私は「お人形」にしておこうとそう書いた。
どうしても欲しかったわけではない。
母の「作戦」に乗っかっただけだった。
長い不在から父が戻るより前に、我が家に小包が届いた。
中にはどこかのお店の包装紙に包まれたぬいぐるみと、人形が入っていた。
姉用のぬいぐるみはちいさな犬。ぬいぐるみは「熊」と思い込んでた私は意外だった。私用の人形は、どんなだったのか覚えていない。全くおしゃれではなかった。それだけは覚えている。どんなものが流行っているのか、どんなお人形なら子供が喜ぶのか、父には全く分からなかったのだと思う。
荷物はそれだけで、手紙もなければ、母へのおみやげもなかった。
しかし、それはかなり驚く事実だった。
父が娘にお土産を買ったのだ。
天地がひっくり返るような、西から上ったお日様が東へ沈むような天才バカボンボンのような気持ちだった。
父が娘たちのお願いを始めて聞いてくれた瞬間だった。
ほどなくして父が戻り、その日のうちにどこかへ出かけることになった。
おそらく受け取らずにいた給料を受け取りにいくか、そんなところだったと思う。(当時は銀行振り込みというシステムはまだ存在していなくて、現金支給だった)
ここでも母は私に一緒についていくよう提案した。
一種の「照れ」もあって、同行するのは躊躇われたが、母の望みなら仕方ないと父についていくことにした。
何を話したのか覚えていない。
たぶん、何も話さなかった。
メインの用事が済んだあと、「ちょっと寄っていこう」と、父が向かったのは、神社だった。
意外だった。
神も仏も信じないと思っていた父が、神社でパンパンと柏手を打っている。
無事に出張から戻ってこれた報告だったのだろう。
おみやげといい、柏手といい、父が父でないような変な気分だった。
神社を出るときに話したことだけ覚えている。
「髪、切ったんだよ」
と、私が話しかけると「そうか」とだけ言った。
髪を切ったばかりだった私は、全くまとまらなくて姉に「ヘルメットをかぶっているみたい」とからかわれていた。
「ヘルメットみたいでしょ?」
「そんなことはない。似合っているよ」
と、父は答えた。
いや、違うだろう?!
そこは「そうだな、ヘルメットみたいだな!」と、笑いあうところだろう!
父は「つっこみ」がわからない人間でもあった。
後日、父から聞いた話では、やはりぬいぐるみや人形をどこで買えばいいのか、全く知らなかったらしい。
同僚に相談して、「おもちゃ屋さんに行けばいい」と教えられ、呉の町中を歩き回ったそうだ。
まったく流行ではない素朴すぎる人形と、知らない町で迷子になりそうに歩き回る父の姿がだぶって、少し泣ける瞬間だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1724484453394-ov4qX48Tra.jpg?width=1200)
手に持っているのはセミ!
今なら気絶しちゃうのに当時は触れたのだ😆
父が私に何かを買ってくれたのは、あとにも先にもこれっきり。
なのに、今、その人形がどこに行ったのか全く分からない。
生誕100年を祝って、いや、懺悔の気持ちで、今日はビールでもお供えしようと思う。