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なりたい自分になる方法とは?

小学一年生の子供に将来何になりたい?と聞いて、
そうですね、なりたい自分になりたいですね、
という子がいるだろうか。

ぼくは、なりたい自分になかなかなれない。

子供がなにかしたいことがある時、そこに論理的な理由はない。
例えばゲームをしたい、という時、なぜしたいかというとゲームをしていると楽しいからだ。
この本が読みたい、という時、なぜかといったら、自分のためになりそう、知識を広げられそう、じゃなくて、単にその本が面白そうだから。
つまり体験するものの中に楽しさや面白さを見出す。

それに比べて大人は何かをしようとする時、一旦立ち止まってこれは自分のためになる要素があるかどうかのチェックが入る。何をするにもそれをやるにあたって理由付けが求められる。

なぜこの会社を選んだのですか?
と聞かれて、
こういうことを勉強してきて自分は何々に興味を持ってそれが活かせそうだからここにしました。
とかいうふうに。

税関でなぜこの国にきたんですか?て聞かれたとき、観光、ていうのなんか負けた感あるのもそのせい。たぶん。これはぼくだけか。
バレエ団のオーディションを受けに来たときの方がカッコいい気がして得意げに言っちゃったり。

「バレエダンサーとしてみんなに感動を届けたい、皆さんのために今日も踊ります。」

嘘つけと思う。

もちろん舞台に立てるのはお客様がいるおかげ。お客様に満足していただけることこそ我々の本望。
でも!
そもそもなんでバレエを始めたかって、やってて楽しいからだったはず。少なくとも僕はそうだった。

それがいつしか通用しなくなる。社会に順応するため、自分が楽しいことをある程度諦め、何かのため、誰かのために、という考え方を持って生きなくてはいけなくなるのだ。
それでいつしか、自分がやりたいことをやる、という極めて簡単なことができなくなり、自分を見失う。

なりたい自分て、どんなだっただろう。
かっこよくてみんなに尊敬される自分?
バレエがひたすら上手い自分?

何にせよ、僕の場合そこにみんなに自分を認めてほしい、という欲求が含まれていることに気付いた。

それを目指すにあたって人の目ばかり気にしたら本当に自分がしたいことをいくつも諦めなければいけないし、自分を客観視してみればしてみるほど理想と現実とのギャップに苦しみ、自分を嫌いになる。

人それぞれ考え方や感じ方は違う。世界中の全ての人に認めてもらうことなんて不可能じゃないだろうか。

楽しいことをしている時、人は夢中になる。まるで少年時代に戻ったかのような高揚感で胸が弾み、そこにどういう風に見られているか、なんて雑念はない。

仲が良い友達と他愛もない会話をしている時、自分を客観視なんかしない。今この時を楽しんでいる。一緒に話している友人たちはその状態の自分を受け入れて付き合いを続けてくれているわけだから、自分に多少なりとも魅力はあるのではないだろうか。

社会で生活する以上人の事を考えるのはとても大切なこと。しかし人が自分のことをどう思っているかを完璧に察知するメンタリズムのようなものは残念ながら自分は持ち合わせていない。
これ、おもしろいですよね〜とYouTubeで自身ありげにどこぞの大学の研究結果を早口で喋ったりできない。

相手はどう思ってるんだろう、と感じてしまう場面は多々ある。そんなときに当たり障りのないよう自分ができる最高の「礼儀正しくて素敵な人」のモノマネをしようとして何度失敗してきたことか。そこでこれからは、どう思ってくれたって構わない!これがぼくだ!This is me! という諦めにも似た反応をしていきたい。本人登場さながらのドヤ顔で。

いや誰やねん!と言われたって構わない。
いい風に見られているかどうかなんて気にせず、どんなことにも、どんな人にも己でぶつかっていきたい。子供の頃そうだったように。

性格は変わるものではない。知識は後からでも身につくし、今からできる努力はいくらでもある。それはもちろんやっていきたい。しかし自分を動かす核の部分は身体と一緒で変えることはできない。
それを無理やりこねくり回して制御するのは、どうやらドラゴンを家で飼い慣らすより難しい。だからもう放っておくことにした。
自由に空飛ばせてくれよ。火だってたまには吹きたいのよ。ドラゴンだもの。

今僕に必要なのは自分を受け入れることかもしれない。自分の欠点ばかり気にせずいいところも見てあげること。

なりたい自分になるには

そのヒントってどうやら自分自身の中にありそうなんです。

これ、おもしろいですよね〜

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