海外への挑戦 ~ディエゴ・マラドーナ~
ちょうど別の記事を書いている時に、アルゼンチンにいる友人から、ラインが届きました。
「マラドーナが亡くなった・・・」
1986年、メキシコワールドカップ。
イングランド戦で見せた5人抜き、神の手ゴール。
西ドイツとの決勝戦では、アルゼンチンは2点のリードから追いつかれ、嫌な雰囲気で進む試合を一蹴したのがマラドーナ。ブルチャガへのスルーパスで決勝点をアシストしました。
小学生だった僕は、決勝戦を見るために、早めに寝て夜中に起き、テレビにかじりついていたことを鮮明に覚えています。
そんなディエゴ・マラドーナと、会えるチャンスが2度ありました。
1994年 アメリカWcup
僕がアルゼンチンで選手をやっている時に、サウジアラビア代表の練習相手として渡米する事になるのですが、渡米数日前まではアルゼンチン代表の練習相手をすることになっていました。マラドーナ、バティストゥータ、シメオネ、レドンド、夢のようでワクワクが止まらなかったことを覚えています。
1994年5月、日本で行われたキリンカップサッカーにアルゼンチン代表が出場予定でした。しかしマラドーナが母国で麻薬取締法で逮捕を理由に、日本が入国を拒否。結果アルゼンチン代表は参加を見合わせることになりました。
マラドーナ率いるアルゼンチン代表の練習相手に、日本人選手がいてはまずいというアルゼンチンサッカー協会の意向で、夢にみた時間は、アジア予選を勝ち抜いたサウジアラビア代表との時間に代わりました。
2002年 日韓Wcup
マラドーナのマネージャーとコンタクトを取り、ホテルに向かうも会う事は出来なかったのですが、サインをして欲しいものがあればフロントにあずけておいてとのこと。
僕がやっているレナトのスクールTシャツをフロントに届け、数日後取りに向かいます。そこで受け取ったのは、マラドーナが書いたサイン色紙。
「Tシャツは、どこ?」とマネージャーに聞くと、「ディエゴが気に入ったので持って帰った」その代わりにサイン色紙を置いて帰国したようです。
僕は、ボカ・ジュニアーズが好きだったので、スクールTシャツは青・黄色を使ったボカによせたデザインにしていました。
マラドーナはボカの熱狂的なサポーター。
全く忘れていました・・・
と、考えつくマラドーナとのエピソードを書いてみました。
今の子供たちが、メッシ選手に憧れるように、僕と同年代の子ども達は、みんなマラドーナに憧れ、スパイクのヒモの結び方までも真似をしてました。(マラドーナ結び。しっている人はいるのかな)
そして今年、3度目の正直としてマラドーナの弟にコンタクトをとり、ディエゴ・マラドーナと一緒に仕事が出来ることを模索していた矢先のニュースで、とても残念に思います。
サッカーに愛されすぎた唯一無二の選手。
ご冥福をお祈りいたします。
NETFLIXの Maradona in Mexico。彼の人柄が伝わってきます。
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