NHK大河ドラマ「麒麟がくる」本能寺の変を観ての感想
史上最も「切ない」本能寺の変
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」がついに最終回を迎えた.最終回は誰もが知っているであろう、あの「本能寺の変」.これまでも幾多の大河ドラマ、民放ドラマ、小説、映画などで描かれてきた日本史上最大の事件の1つだ.観た感想を一言で表すならば「切ない」.観ている最中から「切なく」て辛かった・・・なぜ、それほど切なかったのか、それは、この作品が今までにないくらい信長と光秀の関係を深く、丁寧に描いていたからだ.
これまでの「明智光秀」と「本能寺の変」
これまでの明智光秀と本能寺の変には、正直「暗い、陰険なイメージ」しかなかった.信長の理不尽なイジメに耐え兼ねた光秀の復讐、そして、信長を討ったにもかかわらず、味方は少なく、あっけなく秀吉に敗れ、三日天下で終わった哀れな光秀・・・そんな印象しかなかった.それが今回、大河ドラマの主役に抜擢ということで、果たしてこのダークな印象の光秀が、どう主人公として描かれるのか、僕自身、非常に注目していたのだった.
信長と光秀、親友以上に真友だった
「麒麟がくる」では、信長と光秀の信頼関係、そして友情がこれでもかというくらい描かれていた.本能寺の変を決行するに至る経緯も、これまで以上に丁寧に描かれていたと思う.苦悩の末に、信長を討つことを部下に話すシーンまで、光秀の苦悩が観ているこちらまでひしひしと伝わってきた.
また、本能寺にて最後に信長が自害するシーンでは、信長の目には、涙が溢れていた・・・これまでの本能寺の変で、このような表情の信長がなかったと思う.また、本能寺に向かう光秀の表情、そして、本能寺が焼け落ちた後、信長の亡骸が見つからず、さらなる探索を提案する部下に対して「もうよい」と指示する光秀のなんとも言えない姿・・・非常に重いシーンだった.最後は、完全にドラマの中に吸い込まれていた・・・こんな作品は久しぶりだった.
「本能寺の変」が最終回でよかった
文献などでは、「本能寺の変」の後、光秀は期待していた大名らに味方になってもらえず、中国地方から大返ししてきた秀吉との「山崎の合戦」に敗れ、藪の中で農民に討ち取られた・・・というのが通説になっている.
今回の「麒麟がくる」では、山崎の合戦などはナレーションで軽く語れるのみで、本能寺の変のあとについては、劇中では詳しくは語られることはなかった.しかし、それでよかった.もし描かれていたならば、それは観るに耐えない映像だったと思う.そんなものは観たくなかった.だから、これでよかった、本能寺の変が最終回でよかったと思う.
結局、「麒麟」は来たのか?
本能寺の変の3年後、駒と足利義昭が話をし、その際、駒は「光秀様はひっそりと生き延びられている」と語るシーンがある.このように光秀生存説に触れられたのも、このドラマが初ではないだろうか.そして、駒が光秀の幻?を街中で見かけ、その後を追いかけるシーンで「完」となるわけであるが、最後に疑問が残った.そういえば、ドラマのタイトルでもある「麒麟」が来たのか?来なかったのか?どっちなんだ?
色々な意見があると思うが、僕の中の結論は「麒麟がくる、まだその途中・・・」ということだ.史実では、この後、秀吉が天下を統一し、その後、さらに家康が江戸幕府を開き、太平の世を築くことになる.それで麒麟が来たように思えなくもない、、、しかし、その後も戦争が起こり、今も世界のどこかで争いごとは絶えない.やはりまだ、麒麟は来ていないのではないだろうか・・・。
しかし、人間は確実に以前よりは前に進んでいると思う.過去の歴史を学び、それを教訓に生かすことができる.麒麟が来てくれるのを待つのではなく、麒麟を連れてくるくらいの気持ちで、毎日を大切に、一生懸命生きることが大切なのかなと思う.明智光秀という人物が、世の中のことを必死で考えて、悩み、生きたように、自分もできることを精一杯頑張りたいと思う.いつの日か「麒麟がくる」ことを信じて・・・そういう勇気を与えてくれる大河ドラマだった.