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【daichi】根性論の是非を考える

前回の記事(バリ山行)で「昭和的な考え方について考えてみたい」と書いたので、早速考えてみる。本当にどこに帰着するかノープランだから筆が走るままに書く。そのほうが自分の頭の中が可視化されていい。


「ゆとり世代」「さとり世代」「Z世代」
自分がどの世代に属するのか分からないし、そもそもカテゴライズされることに何か意義があるのか甚だ疑問ではあるが、今回はそこではなく、先述のどれかの世代であろう私=若者から見る昭和的思考、具体的に「根性論」について考えてみたい。

まず、前提として暴力は論外である。言うまでもなく。痛いし、腹が立つし、理不尽である。(大人になって、子供の頃に自分が兄弟や同級生に振るった暴力のことを思い出すたびの幼稚性に閉口してしまう。利口な子供ではなかったと言わざるを得ないし、相手に対しては申し訳ないとしか言いようがない。逆に被った経験もあるが、自分と同じだったと考えると、憎悪の感情は抱けない。)

で、私がどう思うかというところだけど、否定したいが「事実として有効な時があるよね」という立場。

人は基本的に実体験からしか物が言えない、という持論なので私の経験から話すしかない。

小学1年生に野球を始めたが、監督が昭和の権化的な人だった。「上達させるため」という名目で、罵詈雑言、バットで鳩尾をど突く・メガホンで往復ビンタ等、恐怖によって選手を掌握していた。「やる気の問題」「気合いが足りない」「根性を見せろ」現代とは完全に水と油で馴染みようがないような考え方がチームの骨子となっていた。そして、ミスをすることが即、チーム全員への”熱い”指導権の行使に繋がる。ミスを怖がること自体がミスを誘発する。負のスパイラル。正直、あの環境における野球は好きではなかった、というか嫌いだったし、可能なら野球を始める前の時点に戻って考え直すよう強く勧めたい。
思い出して本当に狂っていたと再認識させられたが、当時、夕暮れのグラウンドでの監督の「暗くても声を出せば見える」という発言を受けて、(心の底から信じていたわけではなかったが)実践していた。というか実践しないと外的衝撃が加えられるのでやむを得なかったのだが、みんな大声を出していた。そして「確かに見える」とか思ったりしていた。あり得ないのに。おかしな環境だった。嫌な記憶だ。

と、ここまで読んで、最初に表明した立場と矛盾してんじゃねーか、と思っている読者が大半だろう。まあ、そう焦りなさんな。noteに文字数制限はない。多分。ないよね?

6歳からのことだからもはや原体験と言っていいこの経験は、疑う余地なくネガティブなものだったと思う。

ただ、この経験全てが無駄だったと言い切ることが果たして可能だろうか。いや、無理だろう。無駄と片付けたら自分が報われないという気持ちも多分に含んだ考えであることは付記しておきたいが、後になって役に立ったことは、現実としてある。

困ったことに、というのも変だが、チームは弱くなかった。それどころか、その地域では強い部類に入っていたと思う。圧倒的恐怖下、いわば極限状態で毎日鍛錬された選手たちは、楽しさとは縁遠いながらも成長していた(させられていた、という受動態的な感覚ではあるが)。
主体的ではなかったかもしれないが、それでも一生懸命に取り組んでみることで力が付いた。センス・素質は明らかになかったけれど、それでも何とか形になった。「やる気」「気合い」「根性」で尻を叩かれて追い込まれた結果、その先の景色が見えた。

それが暴力によるものである必要は全くないが、一生懸命にやった経験、理不尽に対した経験、限界に挑戦した経験は、現代を生きていく上で武器になる。

書いていて、「これは今一番嫌われる内容だな」と自覚はしている。でも、私はそう思っている。思っているのだから仕方がない。だから書く。

自分が壊れるようなものはもちろん避けるべきなのは言うまでもないが、逃げてばかりで走り切れるほど世の中甘くないのではないか、と若輩者ながらに思う。ぶつかる気概を持ち合わせていなければ、いずれ詰む。

人は窮地に立たされた時、何かに希望を見出したくなる生き物で、それは過去・未来・現在の3パターンがある、と何かで読んだ。
・過去⇒あの時と比べたら今なんかまだ良い方だ。
・未来⇒ここを乗り越えればきっと良くなるはずだ。
・現在⇒今が良ければいい。
今は「現在」派が増加しているように感じる。だから逃げる。今この瞬間痛みから逃れられればいい。それは一見すると楽なように思えるが、実際はそれこそ窮地に自ら向かっていっているのではないか。一度味を占めれば、二度三度と逃げたくなり、逃げの選択しか取れなくなる。
「過去」が、「未来」が一番良いという結論は持ち合わせていないが、逃げていない分まだこっちの方がマシだと思う。私もきつい時はこの野球の記憶を思い出す。大抵はこれよりマシだから救われている。

では、自分の娘にあの監督からの指導を受けてほしいかと言われれば、絶対にNOである。絶対に。
「んじゃ何なんだよお前。否定したいのか肯定したいのか、はっきりしろよ」と画面に殴り掛かったそこのあなた!ホリエモンじゃないんだから落ち着いて。(ホリエモンのこの動画、本当に面白い。これでキレられるのはすごい才能)


私としては、他者からの強要ではない能動的な「熱」が全てだと思う。だから、「24時間戦えますか」とか「欲しがりません、勝つまでは」的なノリはやはり用済みで、自分から熱量をもってやる。頑張る。一生懸命。必死。ガッツ。諦めない。この感じを自ら生み出せるのが良いんだろう。冷めている人は面白くないし、何より魅力を感じない。失敗していようが、レベルが低かろうが、熱を帯びた人間が一番強い。そういう人間に、人もモノも集まる。

冷めている人間。斜に構えた人間。一歩引いた人間。そういうタイプがクール・スマートに見えて憧れる瞬間も正直あるし、事実そういう路線を辿ってきた面が自分にもあるけど、これからは熱の時代。そういうナイスガイになろう。


daichi

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