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【daichi】浅田家!

「浅田家!」を読んだ。

文庫本の手のひらサイズ感、好き


数年前に映画で観たことがあったため、ストーリーは知っていた。
けど、よかった。とてもよかった。(反復強調)
親になってからだろうか、こういう系の耐性を失った。情緒と涙腺が馬鹿になっている。
日常生活に支障が出ているから戻ってほしい。

気になる人は読んだら(観たら)いいと思うが、簡単に要約すると、「家族写真で有名になったカメラマンが震災を機に『写真』を通じて感じたこと」的な感じ。
言葉にすると途端に陳腐になる(映画観終わった感想言いたいマンは最初にこのセリフを言う。言ってから本当に陳腐な言葉を並べる。私もそう。)。
武田砂鉄氏「わかりやすさの罪」を読んでから、「簡単に言うと」に対する拒否反応が出ている自分が、自分でそれを使っていることに矛盾を感じて嫌になるが、物事は簡単にはならないし、要約は多くの要素を取りこぼすことは自覚している。
から、自分を容赦したい。

現代人必読書


ああいう家族っていいなと思う。
お互いが自立していて依存せず、でも物理的な距離とは無関係に繋がっている。そういう形は強い。
やりたいことがあって、それを応援して、されて、温かいなと思う。
自分は、妻や娘、親、兄弟、親戚、友人、お世話になった人、などなど(誰かが漏れていないように「などなど」を付ける自分の小心があまり好きではない。でもそこへの配慮を忘れないところは嫌いでもない。)大切な人に対して、特に何かを与えることはできていないけど、繋がっていればいいのではないかという感覚がある。
相手がこう思っているかは分からないから、もしかしたら誤解(その人が実際にそう感じるなら誤解とは言えないのかも)されているかもしれないけど、少なくとも自分は物理的な距離は、正直さほど気にならない。

ただ、物理的距離はどうでもいいと言いたいわけではない。

後半は震災の描写が多い。
震災の描写は、この作品に限らず、胸に来る。
当時中学生だった私も、被災していない私でさえも、いまだに結構思い出したりする。

自衛官の父は発災直後から現地に派遣され、音信不通となり、1~2か月後に帰ってきた。
今でも自分で驚いたことを覚えているが、私は帰宅した父に抱きついた。
今考えても、なぜそうしたのかわからないが、体が自然と動いた。
今ならしないと思う、が当時もそう思っていたと思う。
それくらい世の中の雰囲気が異常だったのだろうし、「物理的距離が空いたための不安」は確実に発生していたのだと思う。

中学生の自分は、しっかり子どもだった。案外可愛い奴だ。
停電中でも屋根の上の太陽光パネルで発電した電気で米が炊けたことを周りに自慢して顰蹙を買ったりしていた。嫌な奴だ。

自衛隊で思い出した。
父や兄が自衛隊に勤めていた(る)が、やす子が売れ出した当初、あまりいい顔をしていなかった。
自分の職を馬鹿にされたような感覚だったのかもしれない。
確かに、今より自衛隊に対するリスペクトが薄い芸だったように思う。
当事者にとって、命懸けでやっていることへの侮辱とも捉えられる芸は耐えがたいものがあるだろう。

で、今、好感度が天まで上った(フワちゃんとの件で、対応を称賛されていたのに、マスコミに対する過度な噛み付きのせいでやや引かれたような感もあるが…。というか、24時間テレビのマラソンの陸上競技場周回案は狂気じみているよね。正気の人間の発想じゃない。)やす子に対して、父や兄を始めとする自衛隊関係者はどう思っているのだろう、ということに興味がある。
大勢に影響されて態度は変わっているのだろうか。それが悪いとも思わない。
よくわからない人と、いい人(画面で見る分には)とで、同じ行為をしても伝わり方が異なるのは当然のこと。

はい〜


脱線が過ぎる。

月並みだが、世の中何があるが分からない。
コロナなんて良い例で、急に県を跨ぐことすら悪行のような扱いを受ける。
それについても書くことはあるが、妻との話であり、許可をとっていないからしない。

とにかく、距離も大事。それはわかっている。

でもそれだけではないとも思う。
これだけ字数をかけて、結局、何も言っていない。

両論併記である。


daichi

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