18世紀後半の華やぎ:留学生ゲーテの見たフランス、ストラスブール
5月19日、新型コロナウィルスの蔓延防止対策の一つで閉鎖を余儀なくされていた美術館、博物館、歴史的建造物などが約半年ぶりに再開されました。
ストラスブール市立美術・博物館は入館定員人数の管理のため、ホームページ上で事前に日時指定の予約を取ってから行く決まりを設けて安全対策をする傍ら、この閉塞感漂うコロナ禍において、多くの人が文化施設を利用できるように6月30日まで入館無料と決めました。
「ストラスブールのゲーテ-天才の目覚め(1770-1771)」
(原題:Goethe à Strasbourg - L'éveil d'un génie (1770-1771))
さっそく予約をして一番に行ってきたのが、ドイツの文豪ゲーテの企画展です。1770年から1771年にかけてゲーテがストラスブール大学に留学して250年を記念して企画された特別展で、当初は2020年11月20日から2021年2月21日までの予定だったものです。それがこのコロナ禍で美術館閉鎖の憂き目に遭い、あわや日の目を見ずに終わるところ、企画した版画素描閲覧室とストラスブール大学国立図書館等の関係機関の尽力で5月31日まで延長になったのでした。
企画展は、ロアン宮殿のハイツ・ギャラリーで開催されています。ロアン宮殿はストラスブール初のフランス様式の建物で、ゲーテがストラスブールにやってくる28年前(1742年)に建てられたものです。「ゲーテが見たフランス王国のストラスブール」を紹介するのにこんなに相応しい場所が他にあるでしょうか。というのも、ゲーテは父親の意向で法学を学んでいましたが、父は息子に学業を修めると同時にフランス様式の所作を学ばせたかったという事で、ストラスブール大学に行かせることにしたからです。
10世紀頃から神聖ローマ帝国、つまりドイツ社会の一部だったストラスブールは、30年戦争を経て1681年にフランス王国に併合されると、徐々にフランスの文化が入り込むようになります。フランス様式の文化が入り混じり、新しい風の吹くフランス・ストラスブールをゲーテの留学から見つめる展示になっています。ゲーテのストラスブール滞在は1770年4月から1771年8月と1年4ヶ月の短い期間でしたが、無名の21歳の青年がその後に有名になった事で、ストラスブール留学が与えた彼の創作活動への影響のみならず、後に有名になった彼がストラスブールに及ぼした影響まで、留学期間よりも長い年月に於いての“ストラスブールのゲーテ”が紹介されています。
今回はその特別展示のほんの一部をご紹介したいと思います。
ストラスブール大聖堂とゲーテ
1770年4月2日にストラスブールの仮の宿に到着し、18日には大学登録を済ませたゲーテが借りた住まいは、ストラスブール大聖堂と目と鼻の先の市内ど真ん中のアパルトマンです。(真ん中の赤い壁の建物3階(フランス式2階)です。)
ゲーテはストラスブールに到着するやいなや大聖堂のプラットフォームに登り、一杯飲みながらアルザスの風景を66mの高さから眺めたそうです。(プラットフォームとは、330段の階段を登っていく、平らな部分の所、尖塔の付け根の部分です。尖塔は登れません。今はありませんが、当時はプラットフォームに売店があり、一杯飲めたという事です。)
滞在中に何度も大聖堂を訪れたというゲーテは、後に当時の事を
«私はプラットフォームの高みから、しばらく住むことになった目の前に広がる美しい国を眺めた»
と書いています。
法律を学びに来たわけですが、ゲーテはそれよりもアルザス平野の景色、ライン川とヴォージュ山脈にはさまれたその豊かな地形に惹かれ、1770年6月には2人の友達と3人で2週間にわたってアルザス地方とロレーヌ地方を旅行しています。
また、今では考えられませんが、当時はお金を払って大聖堂に名前を彫ってもらえたそうで、ゲーテも名前を彫ってもらった(それも2つも)という事で、そのレプリカも展示されていました。今度プラットフォームに登ったら探してみたいと思います。
マリー・アントワネットのフランス入り
神聖ローマ帝国からフランス王国の領土となったストラスブールで、ゲーテはその多様性と様々な文化交流を享受しつつ、なかば義務的に法学を学びつつも化学や医学部の解剖学の授業にも出席し、同時期に沢山のことを吸収していきます。(それでいてちゃんと1771年8月6日には法学部の論文を提出して学位を修めているから凄いです。)
留学生生活をめいっぱい謳歌する一方、ゲーテは歴史的な瞬間にも立ち会います。それが14歳のマリー・アントワネットのフランス入りです。
未来のフランス国王ルイ16世との結婚のためにオーストリアを出発し、国境を越えてフランス王国に入る所がちょうどストラスブールだったのです。1770年5月7日の事です。
フランス王国に入るにあたり、オーストリアから身に着けてきたものを全て取り払い、フランス製のものを身に着け、フランスの領土に入る儀式がライン川上で行われました。わざわざこの儀式のために建物を作り、そこで儀式が執り行われました。この象徴的な出来事は2006年のソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』でも描かれています。
(以下の動画冒頭をご参照ください。)
https://www.youtube.com/watch?v=V9JR3wYQ6cQ&t=20s
ちょうどライン川上、国境の上のエピ島(Île aux Epis)にこの建物が建てられたということですが、当時のライン川は今と違って蛇行し、たくさんの浮島のようなものがあり複雑な形状でした。現在は整備されているので、建物(木造)はおろか、当時の場所というのも残念ながら残っていません。(※L'Île aux Epis エピ島は今も名前は残っていますが、整備されているので現在とは地形が違います。)
特別展では、現存する貴重なこの建物の絵と図面が展示されています。
その後マリー・アントワネットは無事にヴェルサイユ宮殿に到着し、5月16日に結婚式を挙げます。
ちょうどこの歴史的な瞬間にストラスブールに留学中だったゲーテは、マリー・アントワネットが通ったこの建物に何度も訪れます。(実際に彼女を見たとも)
そこには複数のタピスリーが飾られていて、ラファエロの『アテナイの学堂』のタピスリーに感動したゲーテはイタリア芸術の魅力をここで発見します。
«私が初めてラファエロのタピスリーを見たのはここだった。そしてそれは私に絶対的で決定的な影響を及ぼした。何故ならそれが単なるコピーだとしても、何が本物で何が完璧かを大まかに学んだのだから。見飽きることなく出ては入り、入っては出て、無駄な努力に付きまとわれても何がそのような信じられない喜びを私に与えたのかを理解したかった。»
また、同じくそこにはジャン=フランソワ・ド・トロワの描いたギリシャ神話のイアーソンとメーディア、クレウーサの結婚の話がモチーフのタピスリーもありました。これにゲーテは花嫁を迎える場所に飾るには趣味が悪いと衝撃を受けます。なぜならこの神話、不幸な結婚のお話なのです。(展示してあったタピスリーは、イアーソンのお話で、メーディアがイアーソンとの子供2人を殺して竜の戦車でアテネに行く場面です。)
政治や経済などの問題よりもストラスブールで芸術や自然により強く心惹かれたゲーテ。特別展ではその時代に栄えた白磁の繊細な陶器も展示してあります。18世紀後半に栄えたストラスブールの陶磁器工房ハンノンの作品で、これらはロアン宮殿の地階にある装飾美術館で見ることが出来ます。(常設展示しています)
その後の文学的創作活動に大きな影響を与えたヘルダーや、恋人フリーデリケ(仏語ではフレデリック)など、この留学中に知り合った人物のポートレートも多く飾られ、1年ちょっとの留学でゲーテがいかに多くの人と出会い、それがその後の創作活動に多大なインスピレーションを与えたかが伺えます。
ゲーテその後
文豪と言われる人物になったゲーテ。ストラスブールでは彼を題材にした劇が作られたり、彼の留学エピソードのイラストが作られるようになります。19世紀のドイツ人画家、ギュスターヴ・ハインリヒ・ネックは、戯曲『ファウスト』のファウストとグレートヒェンの出会いの場面をストラスブールにするというユニークな絵を残しています。
また、第二次世界大戦の時には、ゲーテのストラスブール滞在をナチスドイツがアルザス占領の正当性を訴えるプロパガンダに利用し、ストラスブールにゲーテの博物館を作る計画まで持ち上がります。
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そして250年の時が経ち今もなお、ゲーテはストラスブールに生き続け、あらためてストラスブールの文化的な多様性と豊かさを示してくれています。
ゲーテの目を通して見るストラスブールの生き生きとした姿に、留学当時の目を白黒させていた私自身のワクワクした感情を思わず重ねました。そして自分のあたふたした当初を思い出し、ゲーテの過ごした“疾風怒濤”の1年4ヶ月の充実ぶりに舌を巻くのでした。
ロアン宮殿(火曜休館)
2 place du château, 67000 Strasbourg
地下:考古学博物館
地階:装飾博物館
ニ階:絵画美術館