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(後半)障害者福祉領域に想いを寄せ続ける理由:「出会い」とそこから生まれた「問い」
障害がキャリアを積む上で”障害”にならない社会を実現する会社、Connecting Pointの阿部潤子です。
今回は、オーストラリアでの大学院生活、そして、日本で社会人をスタートするまでの「出会い」とそこから生まれた「問い」について語りたいと思います。
■大きな「問い」を与えてくれた出会い:「大学院指導教授との出会い」
オーストラリアでは、王立メルボルン工科大学大学院(RMIT University)に進学し、「Policy and Human services」という社会科学のコースを専攻しました。
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海外の大学院には、ローカルの社会人学生が多いことから、
職歴のない私にとってハードルの高い挑戦であると知りつつも、
「問い」(「障害の有無に関わらず、どうしたら”年齢に見合った”生活を送ることが出来るのだろうか?」)に対する答えを、
短期留学で大好きになったオーストラリアで探求したいと、
やっとの思いで英語の入学要件を満たし、実現することが出来ました。
だからこそ、私の「問い」に、一緒に向き合ってくれた指導教授との時間は、
「研ぎ澄まし、究める」
という研究の醍醐味を知る時間でした。
そして、私は、大学院での研究活動を通じて、より大きな「問い」に出会うことが出来ました。
「障害の有無に関わらず、どうしたら”年齢に見合った”生活を送ることが出来るのだろうか?」
から、
「障害の有無に関わらず、どうしたら一人ひとりの”想い”を大切にした生活を送れるのだろうか?」へ。
知的障害のある人の中には、50歳を過ぎても、ドラえもんが好きだったり、幼児向けの図鑑が大好きな人もいます。もしくは、大人の男性でもテディベアを持ち歩いていたり、”ピンク色”が好きで、ピンク色のTシャツを身につける人もいます。
このような趣味や嗜好は、一般的に考えられる”年齢(や性別)に見合った”ものではないかもしれません。
では、
・50歳を過ぎた大人が、幼児向け図鑑を読むことは、社会的にふさわしくない行動なので、図鑑の代わりに、小説本をプレゼントすれば良いのでしょうか?
・男性が、テディベアを抱っこして街の中を歩くことは、社会的にふさわしくないので、私たちは、男性からテディベアを取り上げるべきなのでしょうか?
つまり、
私たち支援者は、世間一般が考える
「年齢(や性別)に見合った生活」
に障害のある人を適合させようと支援するのではなく、
障害のある人、一人ひとりが大切にしている趣味、興味や価値観など
「一人ひとりの”想い”を尊重する姿勢」
こそが、支援者に求められているのだと私は学びました。
そして、この「問い」と「学び」が、
私が職業人として、障害者領域に想いを寄せ、探求し続ける原動力
になっています。
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■日本で叶えたい夢の原型との「出会い」:「知的障害のある人のセルフ・アドボカシー活動との出会い」
修士論文を通じて、私は大きな「問い」を得て、その「問い」への1つの「解」となる「出会い」がありました。
それは、「知的障害のある人のセルフ・アドボカシー活動」です。
セルフ・アドボカシー活動とは、
障害のある人たちが、自分たちの人生におこった出来事について、
自らの声で発信して、
それを周りの人に受け止めてもらうプロセスを通じて、
その人自身がエンパワメントされ、
自分の人生を、自分らしく生きる”自信”を手に入れていく、
その一連のステップを支援していく活動です。
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私は、この活動を通じて、
自分の言葉で発信することが難しいと思われがちな知的障害のある人たちが、自分たちの”想い”を堂々と人前で発信し、また、その機会を保障していこうと活動する社会の姿
に触れ、いつか、この活動を日本でやってみたい、
そんな大きな夢を抱かせてもらいました。
そして、この活動が日本でも普及すれば、きっと日本も、一人ひとりの”想い”を大切にできる社会に近づいていけるのではないか、そんな未来への打ち手がぼんやりと見えた出会いでした。
一方で、個人の権利意識が、欧米に比較して弱い日本文化の中で、
「どうやってセルフ・アドボカシー文化を根付かすことが出来るのだろうか?」
私の新たな「夢」を実現する上で、避けては通れない「問い」が立ち上がりました。
そして、これからの夢と大きな問いを抱きながら、2009年12月に修士号を取得し、2010年冬に日本へ帰国しました。
■新社会人としてのスタートをもたらす出会い:「就職先との出会い」
帰国後は、障害者福祉施設で働きたいと決めていましたが、
日本での就職活動を通じて、
きっと、私がオーストラリアで想い描いてきた世界観を実現している障害者福祉施設に出会うことは難しいだろう
とも、感じるようになりました。
これは決して、ネガティブな意味ではなく、
オーストラリアで福祉を学んできた私にしか見えない景色がきっとあり、
私がどんな職場で働こうとも、その景色を共有し、
その施設に通う知的障害のある人の暮らしがより良くなるように、
その世界観を一緒に作っていくしか方法はないのだ、
と思うようになりました。
その頃、偶然にも出会えたのが、新卒としての私を受け入れてくれた会社です。
人材派遣サービス会社をグループにもち、神奈川県川崎市にて、
障害のある人の就労支援サービス事業所を立ち上げようと動いている真っただ中の会社でした。
そして、
この会社を通じて得た出会いは、すべて、独立後の今なお、つながる私の財産です。
次回は、職業人としての日本での経験を通じて、なぜ独立を決意したのか、そして、「障害がキャリアを積む上で”障害”にならない社会の実現」というミッションが生まれた背景をお伝えできればと思います。