母を看取りました
2024年7月10日、母が天国へと旅立ちました。肺がんステージ4と判明して1年1ヶ月のことでした
6月に薬を変更してもらい、減り続けていた体重が2キロくらい増えてみんなで喜んでいたのに。本格的に暑くなる前に靴を買いに行ったり、外食したりしよう、と話していたのに。このまま体力が戻ってまた一緒に年越しができるんじゃないかとすら、思っていたのに。
医師から「いつ呼吸が止まってもおかしくない」と、告げられたのが7月5日。それからは少しでも母が安心して天国に旅立てるように、そして、遺された家族が後悔のない看取りをするためにはどうしたらいいのだろうと、家族全員と相談しながら、できることを精一杯やって過ごしました。
葬儀を終えてからは役所関連の手続きや遺品の整理、そしてふたごの弟たちが不安なくこれまで通りの生活が送れるように、あれやこれやと考えたり、手続きをしたりして。
2ヶ月が経って、やっと母の最期を振り返る気持ちになれました。
母が病気になったことは、悔しいし、辛い。どうして母がこんな若くして肺がんになってしまったんだろう。なんでもっと早くに、無理矢理にでも病院に連れて行かなかったんだろうと考えてしまいます。子どもたちも大きくなり、仕事も少しずつ軌道に乗ってきたところ。これから、母とたくさんの時間を笑い合いながら過ごせるはずだったのに、と思わずにはいられません。
だけど、母と過ごした最期のひとときは、とても幸せな時間でした。平日の早朝だったにも関わらず、いつも一緒に過ごした家族全員で母を看取ることができました。とても悲しかったけれど、あたたかくて幸せな最期でした。
「いつ呼吸が止まってもおかしくない」と告知される
7月5日の早朝「咳が止まらなくて苦しい」という、母からの電話で目を覚ましました。私が駆けつけた時には、咳は止まっていたものの、痰が絡んでいてひどくしんどそうな様子です。契約している訪問看護ステーションに電話。すぐに訪問してもらいましたが、ひとまずは様子を見ることになりました。
しばらくの間はベッドで横になり、安静にしていた母でしたが、お昼前に「いつもと違う苦しさがある」と訴えるので再度電話。すると、酸素飽和度がかなり下がっていることが判明。救急車で病院に向かい、そのまま入院となりました。
3時間ほどかけて検査を受けてから、病室のベッドへ。ベッドサイドに主治医が来られ「痰を自分で吐き出せるようになるまでは入院になる」と、説明を受けました。母は見るからに弱っていましたし、朝からずっと痰を出したいのに出せない苦しさでつらそうにしていました。その様子から私は母が自力で痰を吐き出せる状態に回復するのは難しいのではないかと思い、医師に「仮に自分で吐き出せない状態が続いたらずっと入院となるんでしょうか」と質問をしました。医師からの返事は「ご家族だけで少しお話をしましょう」というものでした。
そして、主治医から「いつ呼吸が止まってもおかしくない状態になっている」と告げられたのです。
がんの炎症によるむくみが発生していて、気管から肺に向かう管がかなり細くなっている
がんのある右側の肺への管は、ほぼ閉じている
健康な左側の肺への管もだいぶ細くなっていて、ここが閉じてしまうと窒息の状態となる
がんの炎症によるものだから、手の施しようがない
といった説明を受けました。
もう退院はできない。今日の夜に呼吸が止まる可能性もあるという事実を突きつけられ、いろんなことが頭を駆け巡りました。
一番はふたごの弟のことです。弟たちはこの事実を受け入れられるのか。母が亡くなったあと、これまで通り生活していけるのか。母の代わりに弟たちを支えることが、自分にできるのだろうか、と。
そして、次に「母にこのことを伝えるべきなんだろうか」という迷いが生まれました。
母は去年の6月に体調を崩して入院したときに「怖い病気だったら告知しないでほしい」と言っていました。治療が始まってからも「もっと長生きして、みんなと一緒にいろんなことがしたい」「ひとりで家にいるとこのまま死んでしまうんじゃないかと、不安で仕方がない」と、訴えていました。
そんな母に「今にも呼吸が止まるかもしれない。そしてもう退院はできない。」と伝えることも、事実を知った母をひとり病室に残していくことも、私にはできなかったのです。母が死を目前にして、無念な想いを抱えて、ひとりで怯えながら病室で最期を迎えるなんてことは、とてもじゃないけれど受け入れることはできませんでした。
だから、その日は母には何も言えなかったのです。「弟と子ども達が待ってるから、そろそろ家に帰るね。また明日来るからね。」としか言えませんでした。
家に帰り、夫と子ども達には、母はもういつ呼吸が止まってもおかしくないことを伝えました。
娘と息子は、生まれてからずっと母と一緒に過ごしてきました。3歳までは私が仕事に行っている間、預かってもらっていましたし、3歳になり保育園に通い出してからは母が毎日送迎してくれていました。ふたりとも本当に母のことが大好きだったので、子ども達が悲しむ姿を見るのも、とてもとても辛かったです。
そんな子ども達に「ばばには『もう退院できない』って伝えてないの。それを伝えたら、不安で辛いと思うから。だからふたりとも、病院へ行った時はばばを励ましてあげてね」と、伝えました。
大好きな祖母を失う悲しみでいっぱいの子ども達にこれ以上負担をかけていいのか、葛藤もありました。でも、その時の私はどうしても母に真実を伝える勇気が持てなかったのです。「これでいいのか」という思いが頭をよぎったのですが、早朝からの対応で疲労困憊だった私は、それ以上冷静に考えることはできませんでした。
子どもたちが書いた大好きなおばあちゃんへの手紙
昨日の疲れからいつもより遅い時間に起きた私に、子ども達が母への手紙を持ってきました。子ども達はこの1年、母が少しずつ弱っていく姿を見守り、弱気になる母を励まし、いつも笑顔で接してくれていました。昨日の夜、母の最期が近いことを知り大泣きしていた子ども達が、悲しみを堪えて、「大好きなおばあちゃんへの感謝。これからも自分たちは頑張るから、安心して休んでね。」というお別れの手紙を書いてくれたのです。
その手紙を見たときに「母に真実を伝えないということは、この子達から大好きなおばあちゃんと、きちんとお別れをする機会を奪ってしまうことになるんだ」ということに気付かされたました。
母をこれ以上苦しませたくない。でも、これからも生きていく子ども達の気持ちも大切にしたい。そして、それは母もきっとわかってくれる。子どもたちの手紙のおかげで、母に本当のことを伝える決意ができました。
また、ふたごの弟たちにも母がもう長くないことを伝えることができました。弟たちがどういう反応をするか怖かったのです。ひどく取り乱すかもしれないし、反対に「わかりました」だけで終わってしまうかもしれない。母は弟たちに会いたがっていましたが、これまで母が入院した時にも弟たちは面会に行くことを拒んでいました。だから、弟たちが「病院には行きません」と言ったらどうしようと思っていたのです。意を決して伝えたところ、弟たちは取り乱すこともなく、病院にも面会に行くと言ってくれました。
母への告知
家族みんなで病院へ。到着してすぐに姉とすぐ下の弟の3人で母の病室へ行きました。母に病状をどう伝えようか......と躊躇していたら、母が「昨日、先生と話したでしょ。本当のことを教えてほしい。」と言ったのです。意を決して「もういつ呼吸が止まってもおかしくない」と告げると「もう長くないのね。そうだと思った。自分の身体のことだからわかるよ」と取り乱している私たちをなだめてくれました。そして「もう、子どもたちと孫たちに会えたら十分よ。みんなに毎日病院に来てほしい。」と伝えてくれたのです。
みんなが順番に母の病室へ向かいました。まずはふたごの弟たち。弟たちの顔を見て、手を握り、母はとても嬉しそうにしていました。そして涙ぐみながら「ごめんね」と声をかけたのです。
弟たちは31歳。31歳で親をなくすのは一般的に言っても早い方です。さらに弟たちには障害があり精神年齢は3歳から6歳程度と診断されています。そんな弟たちを遺していくことに対しての「ごめんね」だったんだと思います。
弟たちは「大丈夫ですよ。僕たちはお母さんに教えてもらったことを守って、これからもがんばっていきますから。」と返事をしてくれました。それを聞いた母は本当に嬉しそうに「よかった」と、とても安心した穏やかな顔をしていました。
次に夫と娘と息子の4人で母に病室へ。娘と息子はベッドに寝ている母に抱きつきながらこれまでの感謝の気持ち、一緒に過ごした楽しい思い出を語り、そして、これからも自分たちは頑張っていくという決意。今日の朝、手紙に書いていた内容を自分たちの言葉で母に伝えることができました。
子ども達と一通り話したあと、母が夫に手を伸ばしました。手を握り返してくれた夫の眼をしっかりとみて弱々しいけれどはっきりと「みんなのこと、よろしくお願いしますね」と、言ったのです。夫が「はい、任せてください」と伝えると母は「ありがとう」と安心した顔をしていました。
そして私には「あの子達(ふたごの弟)はこれからも今の家に住めるの?」と聞いてきたのです。正直この時点ではどうなるかはまだわからない部分もあったんですが「大丈夫。ちゃんと手続きは進めているから、ちゃんとあの家に住み続けることはできるよ。お母さんがいなくなったからって、施設に入れることはしないから安心してね」と伝えることができました。
母が「よかった。お母さん、それだけは本当に気掛かりで。それだったらよかった。」と心底ほっとした様子でした。
最後に、すぐ下の弟たちの家族が母のベッドサイドへ。母も少し疲れてきたようだったので、その日は帰宅することにしました。
だんだんと弱っていく母
翌日、7月7日もみんなで病院へいきました。昨日と同じように穏やかな時間を過ごせると思っていたのですが、とても苦しそうにしていて、笑って話すことはできず、最期がもうすぐそこまで来ていることを思い知らされました。そんな不安な気持ちを打ち消すように病室を出る時は「じゃあ、また明日ね。明日も来るからね。」とお互いを励ますように明るく声をかけあい、病室をあとにしました。
7月8日は月曜日だったので、姉とふたりで病院へ。昨日よりも母の状態が悪くなっているのは明らかでした。「苦しいからなんとかしてほしい」と訴える母。母の苦痛を取り除くことはできないのか、今後の見通しについて主治医と話したいと、担当看護師に伝えました。
しばらくすると主治医が私たちのところへ駆けつけてくださり、姉とふたり、面談室で説明を受けました。
ステロイドを投与したことで痰がおさまったので、すぐに呼吸が止まる状態は脱した
母の苦痛を取り除くために抗不安薬の投与を開始するので、これからは眠っている状態が続く
1日中眠っている状態になれば、数日で最期を迎えることになる
そう告げられました。
また、個室に移動すれば面会も自由で、泊まることもできること、そして緩和ケア病棟へ移れば無料で個室を利用できるが、現在空きがない状況であることも説明されました。病状的に間に合うかどうかはわからないけれど、空きが出次第、移れるように手配してくださることになりました。
病室に戻り「先生に、苦しいのをなんとかしてほしいと伝えたよ。無料の個室もあるから移れるように手配してくれるって。そしたら、ずっと誰かがそばにいられるからね。」と母に伝えると、弱々しくほほえんでくれました。そして母が「孫に会いたい」と言ってくれたので、夫に学校から帰ってきた子ども達を連れてきてもらいました。
母はふたごの弟たちにも会いたかったのですが「あの子達はいつも通りのリズムで生活させてやってほしい。リズムが崩れると体調を崩しちゃうからね」と、最後まで弟たちのことを一番に考えていました。
子ども達がくると、母は息を切らしながらも笑顔で子ども達の手をしっかりと握りました。子ども達も昨日よりも弱っている母の姿を見て、最期の時がすぐそばに迫っていることを感じ取ったのだと思います。
「ばば、大好きだよ」「ばば、ありがとう」「ばばがおばあちゃんでよかった」「ばばのご飯、おいしかった」「私がいじめられた時に、ばばが怒ってくれたの、うれしかった」「ぼく、学校に頑張って行ってるよ」と、涙を流しながら母に抱きつき、これまでの感謝の気持ちをたくさん伝えていました。母は本当に苦しそうでしたが、幸せそうな表情を浮かべて子ども達の背中をさすっていました。
そして、この日も「じゃあ、また明日ね。明日も来るからね。」とお互いを励ますように手を振りながら病室をあとにしました。これが母と交わした最期の言葉となりました。
薬で眠る母を囲んで
7月9日の早朝、病院からの電話で目を覚ましました。母が家族に会いたいと言っているので、病院へ来てほしいとのことでした。みんなが学校や仕事に出る前だったので、私たち家族4人、姉、ふたごの弟と車に乗り込み病院へ向かいました。
病棟に着いてすぐエレベーターの前で待たれていた看護師から、
夜中に相当苦しくなり、大声をあげることもあった
血圧が上がり危険な状態だったため、鎮静のために薬を増やした
家族が来られることを想定して、一時的に個室に移動した
と説明を受けました。
看護師の案内で急いで母のもとへ向かいましたが、母は眠っていて声をかけても反応はありませんでした。「家族に会いたい」と言っていた母。意識のある間に顔を見せられなかったことが悔しくて、落胆していた私たちに「返事はなくても、声は届いていますから、たくさん声をかけてあげてください」と声をかけてくれました。言われたとおりに母の手を握りながら声をかけると、母の表情が変わったのです。
私たちが着く5分くらい前に、ひとつ下の弟が到着していました。その時はまだ意識があり「みんなもう来るからね」と声をかけると、母は小さくうなずいてくれたと聞きました。母は、みんなが来ることを知ってくれていたんだと、少し救われた気持ちになりました。
家族みんなが母を囲み、手を握りながら声をかけている中、看護師から個室料についての説明がありました。母の容態が急変したため一時的に個室へ移動したけれど、このまま個室に留まる場合、1日24,000円の個室料が発生するという内容でした。
数日であれば個室料を負担することもできますが、長期になると相当な負担になってしまいます。姉と弟と相談しているところに、主治医が病室にこられました。そして、私たちの心情を汲みながらも「最期を迎えるのは今日か明日、あさってまでは持たないでしょう。このまま個室で最期を迎えるのが、一番いいと思います。」とはっきりとおっしゃったのです。その言葉に後押しされ、個室に留まることを決めました。
関東に住んでいる母のきょうだいや、すぐに病室に来られなかった家族とビデオ通話をしたり、母の思い出を語り合ったりしました。いつも一緒に笑い合っていた母から反応がなくなってしまったことは辛かったですが、昨日までのように「苦しい」と訴えることもなく、ただ眠る母の姿に、もう苦しむことはないのだとほっとした気持ちもありました。
しばらく穏やかな時間を過ごしていたのですが、ふたごの弟たちはいつもの違う環境で過ごすのはとても苦手なので、しばらくすると落ち着きがなくなってきました。家に帰ることも考えましたが、帰っていたら母の最期に立ち会えないかもしれない。弟たちが最期に立ち会えるようにと、院内を散歩したり、食事の買い出しに行ったりして、なんとか夕方までは病室で過ごすことができました。
母の最期がもうすぐそばに迫っていることは、医療知識のない私たちにも明らかでした。夜中にその瞬間がくるかもしれないと思ったのですが、朝まで病室に残る気力も体力も私には残っていませんでした。母が夜中に一人で最期を迎えることになったらどうしよう。誰かは残った方がいいのかな。でも、みんな疲れているし、病院で母と過ごすのはとても心細いだろうし……と悩んでいたら、ひとつ下の弟が「これまで仕事であまり母の側にいられなかったから、側にいさせてほしい」と言ってくれたのです。
「生きている母に会えるのは、これが最後かもしれない」と覚悟をして、病室を後にしました。
看取り
7月10日、夜中の3時に弟から着信がありました。「血圧が下がってきた。今すぐにというレベルではないが、最期が近づいてきている」と説明を受けたとのこと。
寝ているふたごの弟たちに「母の最期が迫っていること」「今から病院にいくこと」を伝えのですが「夜中なので僕たちはお留守番しています」と返ってきました。「母の最期を家族みんなで看取れないのか」と思ったのですが、一方でほっとした気持ちもありました。連日の病院通いで疲れていたので、弟たちを病院に連れていって、母の様子を気にかけつつ、弟たちのケアもできるか自信がなかったのです。
弟たちには仕事を休んで家にいるように伝え、姉と夫、娘と息子の5人で病院に向かいました。
母の病室に着くと、昨夜とは違い血圧と心拍数がかなり落ちていました。順番に母の手を握り、心電図モニターを見つめていました。
モニターに映し出される心拍数が不安定になり、母の呼吸回数も少なくなって行きました。そして、5時半ごろ、たびたび心拍数が50を切るようになりました。誰も言葉を発することなく、静かに母の様子を見守っていたとき、姉の携帯に弟からLINEの着信がありました。
障害の特性で毎日分単位で同じスケジュールで生活している弟たち。その弟がいつもより20分も早い時間に起きて、しかも自分から電話をしてきたのです。(弟たちからLINEのメッセージがくることはありますが、着信があるのは本当にめずらしいことなのです)
「お母さんはどんな状態ですか?」と心配そうに聞く弟。姉が「もう心臓がいつ止まってもおかしくない状態だよ。二人とも病院に来れますか。」と聞くと「わかりました、行きます」と。その答えを聞いた夫がすぐに走り出してくれたのです。
母が病気になってから、私たち以上に母の回復を信じてくれていた夫。母がもう長くないと聞いた時に、一番ショックを受けていたのは夫かもしれません。だから夫には母の最期に立ち会ってもらいたかった。きっと夫もそう思っていたと思います。今病院をでたら、夫が母の最期に立ち会えないかもしれない。そんな思いが頭をよぎりましたが、悩む間もなく夫が席を立って迎えに行ってくれました。弟たちのことを何よりも心配していた母の気持ち、母を想う弟たちの気持ちを大切にして、迷わず走り出してくれた夫に心の底から感謝しました。
家から病院は車で10分ほどの距離。交通量が多い道を通るので日中はとても混むのですが、幸いにも早朝だったので、弟たちは6時ごろに病室へ到着できました。なぜか空っぽの手提げバックを持ってきたところを見ると、弟たちも相当動揺していたんだと思います。
6時15分ごろから心拍数が50を切る状態が続き、心電図モニターのアラームが鳴り止まない状態になりました。呼吸数も1分に1回~3回に落ちていて「母は次の息を吸えるんだろうか。もうこのまま次の息を吸うことがないのだろうか」と思う状態がしばらく続きました。
そして、6時35分。みんなが見守る中、心拍数が0になり、どれだけ待ってもも母が再び息を吸うことはありませんでした。その場にいた全員が順番に母を抱きしめ、感謝とお別れの言葉をかけていきました。朝日が差し込む病室で家族全員が揃って母を看取ることができ、深い悲しみの中にありながら、穏やかで幸せな空気に包まれたひとときを過ごすことができました。
看取りを乗り越えて
本当は病気を克服して欲しかった。奇跡が起きて肺がんが体から消えてなくなってほしいと思っていました。おいしいものを幸せそうに食べて、ふくよかな身体で、いつも笑顔で家族を見守ってくれる母に戻って欲しかった。これからもたくさん一緒に笑い合いたかった。
母の看病と介護に疲れて、心無いことを言ってしまったこと、優しくできなかったこと、辛く当たってしまったこともたくさんあります。なんでもっと最期の時間を大切にできなかったんだろうと、後悔することもたくさんあります。病院嫌いの母を無理やりにでも病院に連れて行かなかったことは悔やんでも悔やみきれません。この後悔は一生消えないんじゃないかとすら思うくらいです。
でも、7月5日に入院してからの6日間、家族みんなが母への感謝の気持ちとこれからの決意を伝えることができました。病気になってから「最期まで家族と一緒に過ごしたい」と言っていた母の希望を叶えることができました。
「自分が旅立ったあと、弟たちがこれまで通りの生活を送れるのか」そのことを何よりも心配していた母に「大丈夫だよ。弟たちはこれまで通り生活できるから」と伝えることができました。
決して、自分たちのいつもの生活リズムを崩さない弟たちが、仕事を休んでお見舞いに行けたこと、そして最期の日の朝、いつも起きない時間に起きて姉に電話をしてくれたこと。私たちにとっては奇跡のようなできごとでした。「きっとお母さんが弟たちに会いたくて呼びにいったんじゃないかな。お母さん寂しがりやだからね。」なんて話しています。
これからも「お母さんがいたらな」とやりきれない寂しさを感じると思います。でも、家族みんなで病室で過ごした最期のひとときを思い返せば「私たち精一杯やったし、よい最期だった」と胸を張ることができます。そして「母を看取る」という大きな悲しみを乗り越えた家族がいれば、これからどんなことが起こっても乗り越えていける。
140センチの小さな身体で、私の大切なきょうだいを産み、育ててくれたお母さん、本当にありがとう。
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