ハイウェイ・オン・ザ・ロック
タイトルは、かつて居酒屋でたまたま隣のテーブルにいた人が乗っていた車の愛称から考え出したもので、その人はお酒に酔った私が、友人を前に店中に聞こえる勢いでまくしててていた言葉を耳にし、
俺の曲に歌詞を書いてくれないか?
と、「書く人」としての私と初めて契約してくれた人だ。
「さっきから聞こえてくる内容が、暗い話題のはずなのに笑えて面白すぎるからさ。俺のバンドの明るい曲調に合わせて暗い歌詞を書いてくれないか。ロックだろ?」
彼を"私の元恋人"にカウントすることはないし、彼のバンドが解散してからは連絡もとっていない。ビジネスライクな関係だ。
それでも、でっかいことしてやろうって思うたび、あの車に乗って四国までドライブした日のことを思い出す。
私、
文章を書く仕事がしたいんよ!!
って、確か倉敷の中心で叫んでた。
人生最初の編集者?
ナンバープレートに「69」が2つ並んだ車の助手席に乗り込むと、参考にしろと聴くように勧められていた曲が小気味よく流れていた。
私はすでにいくつものアルバムで予習を済ませていたが、
「この歌詞の意味、教えて」
と、英語の部分の意味をきかれ、
(あれ?なんだろう?)
と、わからないこともしばしばあった。
(あとで調べてみなくちゃ)
ここまでの打ち合わせで、歌詞は英語で書くことに決まっていた。
(難易度が上がるのだが?)
プリントアウトした草稿を、彼はシャツの胸ポケットに入れて持ち歩いてくれた。笑うでも、なじるでもなく、「いいね」と時々取り出してうたった。
私の書いたものを持ち歩いてくれていた友人がもう1人いる。
持ち物に必ず忍ばせてくれていたのは、彼女宛てに書いた手紙。
私が東京の大学に進学すると告げた日、妙案を思いついた!とばかりに、真剣な表情で彼女に雑誌を差し出された。
「これに応募して。今すぐ書いて」
あの頃の私たちは、自分で身を立てることしか考えていなかった。
都会に出てもオシャレを楽しめるくらいの仕送りをもらえるとは思っていなかったし、もらうのを望んでいなかった。
東京に行くことにはなったけれど、お金の心配をしていた私の心情を知って、彼女が、
「賞金もらえたら、少しは楽になるんじゃない」
と差し出してくれたコンクールの告知は、作文を募集するものだった。
彼女に編集者のように付き添ってもらいながら、そのおかげで書きあげられた高校最後の作文が、大学時代の私を支える貴重な収入源になった。
夢を叫ぶパーティー 爆誕
サービスエリアから高速に乗れるのに、すぐに本線に入らず、とつぜん車が停まった。運転手は何食わぬ顔をしている。
(仕組まれた)
とっさに思った。
見たことない男女が、ヘラヘラしながら後部座席に乗ってくる。
「お邪魔しまーす」
仕組まれたって、一体、何のため?
何を奪うためかも、何を壊すためかも、わからない。
「この子たち、誰?」
彼らは東京の大学生だった。ヒッチハイクでここまで来たらしい。
手にしたスケッチブックには「四国」と書いてある。
「俺たちカップルでも何でもないんです。たまたまfacebookで呼びかけたら来てくれたのがこの子だっただけで」
女の子も、大きな目をパチクリさせ、彼の隣で勢いよく頷いている。
「俺たちと一緒だな。4人でうどん食べに行こうよ」
見知らぬ大学生と、ビジネスライクな私たちは、一緒に瀬戸大橋を渡った。
出会ったばかりの開放感が手伝って、まだ就職先が決まっていない大学生と教員の私、それにロックバンドのボーカルという4人は、すぐに夢を叫ぶパーティーと化した。
「文章を書くのが好きになったのって、いつなんですか?」
質問してきた彼女は、祖母が恐山でイタコをしていたという。
「原体験っていうんですかね?そういうの」
「あなたの書いた手紙、バズってるよ」
幼稚園を卒園するとき、園長先生に言われた。
手紙とは、担任の先生に書いたお礼の手紙で、もちろん当時なので「バズってる」という表現ではなかった。
もっと言うと、
「娘さんが担任あてに書いてくれたお手紙ですね。幼稚園生が書いたと思えないって担任が騒ぐもんだから、みんなで読ませてもらったんですー。そしたら、近くにいた他のお母さんたちも騒ぎを聞きつけて、読みたいって… 悪いものでもないから、読んでもらっちゃいました。みなさん、すごいすごいって。勝手にすみません。でもね、お嬢さん、書くことに素晴らしい才能があるって思うんですよ」
と、私ではなく母に園長先生が伝えていたらしい。
「らしい」というのは、それを私は母から聞いたからだ。
つまり、母が話を盛っているかもしれない。
でも私は母からそう伝えられた瞬間を、
「文章を書くのが好きになった」原体験
として持っている。
記憶はもう1つある。
小学5年生のときだ。
私がすっかり寝入ったと思っている両親が、隣の部屋で私が書いた作文について語り合っているのが聞こえた。
今ならその理由も理解しているし、そうしてくれてよかったと思っているが、当時、スポーツ好きな両親が私を面と向かってほめることなどなく、私は「ほめられたい」という気持ちが人一倍強かった。
子どもらしさがないガリガリの足はスポーツに向いていないばかりか見た目の魅力にも欠け、小学校の体育でする鉄棒や水泳、かけっこに特別な適性も見られず、外で遊ぶより家で本を読む方が好きな小学生。
スポーツ一家の中では、
あいつ大丈夫なんか?
と、理解できないがために恐ろしささえ感じさせる存在だったんじゃないかと思う。
その両親が、私が寝ていると思って2人で熱めに語っていた。
「あの子の文章、いいよなぁ!」
これが、はっきり覚えている私の「書くのが好きになった」原体験になる。
私に聞こえていると知ってわざとそう言っていたら大したものだが、それはない。
特に母はいくら小声でしゃべろうとしても、いつも声が大きくなる人だからだ。
誰かにとってゴミみたいな記憶の中に
うどんを食べて大学生たちと別れた。
帰りは瀬戸大橋を渡らず、フェリーを使った。
フェリーの上では、カモメの餌になるものが売られていた。
投げると海を飛ぶカモメが面白いくらい集まってくる。
ボーカリストがタバコを吸いに行き、私は1人でカモメに餌をやりながら、考えた。
なぜ私は書くのか
を、考えた。
食べるものは無添加じゃなきゃいけないとか、
爬虫類はいいけど虫はダメとか、
野生動物が好きならゴルフはするなとか、
本当の日本酒党は甘口のおいしさがわかるものだとか、
ウィスキーはロックに決まってるとか、
「こだわり」を持つ友人たちと話すとき、いつも心の中で思ってた。
(私にはこうじゃなきゃいけないっていうものがないなぁ)
もちろん、ないわけじゃないだろうけれど、少ない。
体にいいものも悪いものも食べるし、なんなら体に悪いものこそ悪魔的に美味しいと思っているし、自分が爬虫類を愛でているのに誰かが虫を好きだと言ったらけなす人を何だかなぁと思うし、野生動物を見にサバンナや北海道の湿原にまで行くくせに近隣の山を破壊したゴルフ場でも喜びを享受する。日本酒は甘口だって辛口だって美味しいものは美味しいし、ワインは白も赤も同じくらい好きだ。一緒に旅をした友達が「こうじゃなきゃ嫌」って思い通りにならない事態に怒っているとき、だいたい私はどっちでもよい。
一方よりもう一方の方を、どうしても好き!大事!
そう思う気持ちを、それらに対して持ってこなかったからだろうか。
そうだとしたら、私が大事にしてきて、だからこそ自分にとって大切になったものって、何もないのだろうか。いや、そんなわけない。
現に、さっき話した原体験の記憶だって、誰かからしたら、覚えていたとしたって他の記憶と比べて些末な、ゴミみたいな記憶かもしれない。
でも、私にとって大事だった。
他の記憶なんてないほど幼い頃に大事にしたいと思って、
だからずっとずっと大事にしてきて、
結果、今では大切な記憶になった。
伝えたい人がいて、伝えたいことがあるとき、
「書くこと」は、
私にとって、とても大切な手段だ。
これだけは、こだわりを持って大声で言える。
投じた餌にカモメが集まってきた。
なぜ、私は書くのか
教師になって1年目。
学園の広報誌に「野球と私」という記事を書いたら、
2人で話したことのない生徒が廊下で待っていて、
「先生の文章でやる気が出た」
と伝えてくれたこと。
卒業生に向けて私が書いた文章を読んだ在校生が後日、
「授業をしているときと印象が違う。先生のすごさがやっとわかった」
と言ってくれたこと。
「夏休みに学んだこと」という作文のお手本を全力で書いたら、
私の文章の型を「構文だから」と言って完全にコピーし、自分の体験をつづってくれた生徒がいてクラスでウケたこと。
彼は他の先生に「ふざけてる」と叱られたけれど、私はとてもうれしかったこと。
「教師を続けようと思った」と言ってくれたかつての恩師も、
「読むと心強いから持ち歩く」と言ってくれた最初の編集者も、
「心の叫びがロックだ」とうたってくれたボーカリストも、
私が伝えたいと思ったことを、伝えた分以上に受け取ってくれたように思う。
記憶に残っているひとつひとつの、あのときみたいに全力を込めて書く。
これからも大事に大事にする。
大切だからこそ、発奮できる。エネルギーを注げる。
大事なものとして扱ってきて、
それが本当に大切なことになったから、
私は書く。
青空の下、伸びる道路が見える。
私の乗った車は、一直線に走っていく。