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パーマンのコピーロボット、そして体性感覚
とある日。
広々とした公園を散歩していた。
こんなにのんびり散歩するのはいつぶりだろう。森の中特有のひんやりとした空気が肌に心地よい。高台の上に昇ると、夕日に照らされた街並みが見えた。
自転車の二人乗り、つかまった手に伝わってくる相手のぬくもり、ちょっと怖くて固まってしまう自分のカラダ。身体を横切る風と緑の匂い。
私はワタシのたった一つのカラダを通して、この日この体験をした。
同じ日は決して二度とやってこないし、(似たようなシュチュエーションはあれど)過ぎた時間も戻らない。
だからこそかけがえのないものとも言えるし、と同時にカラダを流れた時間は誰にとってもまったく等しく平等だともいえる。
年齢とは、体験値でも経験値でもなく、そのカラダを流れた時間量。
それは逆立ちしてみても、決して誰にも覆すことはできない。
体性感覚、というものがある。
体性感覚というのは、身体の皮膚感覚などの感覚をさす。
熱い、冷たい、痛い、痒い、心地よい…
体性感覚を構築していくのは、「体験」のみ。
想像力の及ばない、リアルな実体験だけが体性感覚を構築する。
身体に色々な体験をさせることで、体性感覚が豊かになっていく。
つまり感覚の引き出しが増える。
色々なジャンルの運動をする、様々な土地の空気に触れる、海とか山とか色々な場所に行く…
それらのすべてが、私たちの体性感覚を作る。
体性感覚は温度や痛覚などの皮膚感覚や、筋肉および腱などに起こる深部感覚に大別される。見たり(視覚)、聴いたり(聴覚)とは異なる身体の感覚。
それは個々人の唯一の感覚であり、誰とも共有できないオリジナルなものであるという。
ここに、人間のクローンが不可能な大きな理由があるという。
倫理観をいったん脇に置いて、理論上可能か?と考えた時、もちろん自分の細胞遺伝子で自分自身のクローンを『作成』すること自体は可能だと言われている。
しかし。
人間には『思考』というものがある。もっと言うならば『思想』というものがある。
この『自分なりの考え』を構築していく要素の一つに【体性感覚】があると言われている。
知識を通し、学習を通し、認識や思考形態が構築されていくように思いがちだけれど、この体性感覚が大きな要因になっているのだそうだ。だからもし、自分とまったく同じ考え方の人間を作ろうと思ったら(仕事が忙しいときに自分のコピーが欲しいと思った人は少なからずいるだろう)、自分がこれまで生きてきた中で体験したことを、まったくそのまま体験させなければ『自分』にはならないのだそうだ。
同じ気温、同じ湿度、同じ風向き。それを同じ年齢のタイミングで体験させること。これがクローンとしての条件だとか。まったくもって不可能なハナシ。
人は体性感覚なしでは生きられない。
身体的な介在が絶対不可欠な理由も、ここにある。私たちはリアルな『人』や『体験』、そう『触れる』ということを必ず求めるのはそのためだ。
会いたい、と思うことも、触れたい、と願うことも、決してワガママな気持なんかじゃなくて、絶対的な自然の法則。
コロナの影響で身体的介在のない『会う』が増えたことは、ある意味では大きなパラダイムシフト。一方で、身体的な介在の不可欠性を、もう一度問い直してみるべきだと思う。
パーマンのコピーロボットは、現代のテクノロジーではもう作れるかもしれない。
でも『自分』は絶対に作れない。
自分の身体を通してきた体性感覚だけは、自分だけの唯一のオリジナルだから。