『ハイライフ八ヶ岳2020』に参加して。
フェス、特に野外フェスというものに特別な思い入れがある。毎年5月から10月にかけて、平均6つ7つの野外フェスに行く。グリーンルーム、FFKT(元タイコクラブ)、フジロック、サマーソニック、朝霧ジャム……。このあたりは出演者が発表される前段階ですぐにチケットをとる。出演者がどうこうではなく、(その度合に多少の差はあれども)基本的にフェスとして信頼しているから。場が好きだからだ。しかし去年は最も好きなフェスと言っても過言じゃない朝霧ジャムが台風で中止に。よって去年最後に観た野外ステージありのフェスはというと、8月中旬のサマーソニックということになる。つまりもう1年1ヵ月も野外ステージありのフェスに行っていなかったわけだ。
理由は書くまでもない。コロナのせいだ。昨年のライジング2日目中止と朝霧ジャム中止は台風によるもので、もしもフェスの時代が終焉を迎えるときがくるとしたらそれは気候変動によってだろうと考えることはあったが、今年のフジロック配信の冒頭でスマッシュ代表の日高さんも「いつかこのフェスの世界にも何かしらの終わりがくるような気がしていたが、そのきっかけは気象状況の変化による天災であり、ウィルスになるとは思わなかった」と話していたように、誰しもがウイルスによってこうなるとは思っていなかった。グリーンルームもFFKTもフジもスーパーソニックも自分はチケットを購入して、ものによっては宿もおさえていたが、ウイルスによって全てが中止または1年延期となってしまった。だから、フェスを渇望していた。
3月以降、フェスどころか通常のライブの開催も困難な状況が続いている。どうにもならなかった一時期に比べれば(少人数であっても)有観客のライブは徐々に増えてきたし、政府によるイベント~プロスポーツの人数制限の緩和が先頃ようやく発表されたりもしたが、しかし通常通りの開催となるとまだまだ当分先のことだろう。第何波だが知らないが、コロナ(あるいは別のウイルス)はまたくる。来年になれば収束して今まで通りライブやフェスに普通に行けるようになる……なんて能天気に信じているひとはさすがに少ないはずだ。じゃあどうするか。これから先ライブやフェスに行かない人生を送るのか。ライブやフェスの価値と喜びを知ってしまったひとたちにとって、それはできっこないことだし、そんなつまらない人生は嫌だ。配信は気休めにはなってもライブの代替えにはならない。配信ライブが新しい価値を伴って何かを変えることにもなる…というのはこの数ヵ月で確かにわかりだしたことではあるけれど、それとナマのライブを観ること、場にいることで得られる喜びは、当たり前だけどまったく別物だ。いわんや、フェスをや。
『ライブフォレストフェス ~森と川と焚火の音楽祭〜』
『ライブフォレストフェス ~森と川と焚火の音楽祭〜』というアースガーデン主催のフェスが、7/31から8/2にかけて、あきる野市・多摩あきがわの深澤溪・自然人村内で開催された。配信もされていたので、自分は家にいながらPCで見ていたのだが、森に囲まれたその場の空気のよさ、気持ちよさはPC画面を通しても伝わってきて、行けばよかったと少し後悔した。わけても七尾旅人のライブが圧倒的に素晴らしく、実際そこにいたひとたちにとっては一生忘れられない体験になっただろうと思った。3月以降、配信でライブをいくつか見るようになって、自分が最も感動したのがこのライブフォレストフェスでの七尾旅人のライブだ。無観客ではなく有観客。そこにいる“生身の誰か“に旅人は歌っていた。ずっとそうしてきたように。
とりわけ会場の照明をオフにして焚火の灯りのなかでうたわれた「if you just smile(もし君が微笑んだら)」という歌が深く深く心に沁み入った。歌詞と歌そのもののよさに加え、焚火の灯り、生命力にも似た炎の力強さ、バチバチという燃える音が、PCごしであっても「闇の向こう」を感じさせた。静けさのなかのその火の音だったり、あるいは虫の鳴き声だったり。そういうものと歌が合わさることによる得難い何か(力とも癒しとも言えるもの)に心が震えた。
そのときに確信したのは、このようなこと。そこに自然があって。少なくてもいいからひとがいて。そのひとたちにうたわれる歌があって。そのみっつが分かち難く結びついてある場に自分はいたいし、ときどき「そこに帰りたい」というような気持ちが湧くのだなと。それはたぶん人間の本能的な感覚だ。
『ハイライフ八ヶ岳2020』
そのライブフォレストフェスのなかで、9月には八ヶ岳でもう少し規模の大きなフェスを開催するということをアースガーデンのひとが話していて、ならばそれには参加したいと自分はそのときに思ったのだった。もともとそれは7月11・12日に開催されるはずだったが、9月に延期になったもの。7月開催だったら、まだ僕はこのフェスの意義や成そうとしていることに気づけていなかったので、スルーしていたかもしれない。ライブフォレストフェスの配信を見たことが自分には大きかった。そして妻に話し、行こう!ということになって、チケットを買った。『ハイライフ八ヶ岳』というフェスだ。
ライブフォレストフェスを配信で見て、コロナの時代にフェスをやること、コロナの時代にフェスがあることの意味を自分なりに考えてみた。ライブフォレストフェスはその投げかけであり、模索であり、ひとつの答えの“ような“ものであり、限りなく希望に近いものだと感じた。それでハイライフ八ヶ岳は観客として参加しなきゃという気持ちになった。ホームページにアップされたフェスのオーガナイザー/プロデューサーによる一文や、メイン出演者であるROVOの勝井祐二さんのインタビューを読み、観客のひとりとして意識が高まっていったりもしたし、単純にどんどん楽しみになっていった。
僕たちはあらためて約束を果たしたいと思います。それは「“希望”が響く、素晴らしい音楽フェスを実現させる」という約束です。
「人に会わない、家から出ない。それが唯一の解決策ではないはずです。そこにとどまっているだけでは、思考停止です。人間は生きていかなければいけません。だから思考を停止しない。今、フェスに来るという選択は、思考を停止させないという意思表示です」「東日本大震災以降、思考を停止せず、イマジネーションをもって目の前のことを向き合うことが、ずっと大事だと思ってきました。今の時代を生き抜くためにも必ず必要なはずです。」
さて、自分にとって久しぶりのフェスだし、キャンプフェスとなると去年6月のFFKT以来だから1年3ヵ月ぶり。前日にはしばらく使ってなかったテントやキャンプグッズを一通り確認して足りないものを買いに行き、ワインやらチーズやら缶詰やらも一緒にパック。「雲の上」の会場らしいからそりゃあ夜と朝は冷えこむだろうし、ならば服は何と何を持っていくべきか。現地での過ごしようをイメージしながらそうして準備するのもまた面倒くささより楽しさが勝り、気持ちは遠足前夜の小学生だ。
9月12日(土曜)
当日は6時前に起き、7時に妻の運転する車に乗って家を出た。これならたぶん10時前後に会場に着き、テントを立てて一休みしてから初めのアクトを観ることができるだろう。そう考えて動いたはずだったのだが、中央道の渋滞で約2時間のロス。しかも途中で豪雨に。あちゃー。キャンプフェスでの雨はきびしいのでなんとかやんではくれまいか。そう願っていたら雨は意外と早くやみ、昼頃会場に着いた。いつまた降りだすかわからないといった曇り空ではあったけど、ひとまずホッ。
駐車前、車の窓ごしにまずスタッフによる検温があった。それから車をとめ、テントと道具一式をえっちら運び、少し並んで会場入り口へ。そこではチケットだけでなく、事前の個人情報登録完了メールと、接触確認アプリがケータイにダウンロードされていることのチェックが行われる。「個人情報の登録」と「接触確認アプリの登録」。それは新型コロナウイルス感染症予防対策のひとつとして数日前からメールで促されていたことだ。
入場時にもまた検温。同時にマスクの着用も確認される。会場内での常時マスク着用はもちろんマスト。食べるときなどに外して、ときどき着けるのを忘れてしまうこともあるが、そうするとスタッフに声をかけられる。が、威圧的に注意するスタッフはひとりもいない。また主催者側が用意したステージ前の椅子は2メートルずつの間隔で配置されており、密にならぬよう空間的余裕が保たれている。観客はみんな意識的かつ自然にマスク着用や距離を置いての着席といったルール……というかマナーを守っていて、そこにフェス参加者の意識の成熟を思った。
お酒が入ってスタッフに絡んだりする人もかつてのお祭りならいて当たり前だったが、そういう厄介なひとはいないようだった(少なくとも自分は目撃しなかった)。とにかく主催者側の感染予防対策は万全で、観客たちはそうしてこのフェスを開催してくれた主催者とスタッフに敬意を表すべくマナーを守ってもいるように感じられた。
例えばうんざりするくらいにルール説明のアナウンスが拡声器で繰り返されるとか、音楽に理解のなさそうな雇われ係員がそこかしこに立って細かく客に注意するとか、そういう威圧的な縛りを感じることになったら、きっと僕らは反発する。昔は(というか今も?)やたらとルールで縛りたがるフェスというのがあって、そういうのには2度と行きたくないと思ったものだ。が、そういうガチガチの縛りつけを感じることが一度もなかったのも、このフェスのよかったところだ。ほどよくユルい空気感が保たれている。喚起はあっても、押し付けはない。押し付けるのではなく「自然に意識を浸透させる」ことに恐らくスタッフたちは気を配ったのだろう。
出来る限りの対策は全てして、みんなで一丸となってフェスを成功させよう、いまフェスをやっても大丈夫なんだということを証明してみせよう、そういう思いが、つまりそこにいる全てのひとに浸透していたわけだ。
熱い演奏に興奮して後方からステージ前へと突進してくるような観客もこのフェスにはいなかった。ノったら、その場で立って踊る。自分は自分の踊りをする。マスクをしていれば声を出すのもOK。コールがあればレスポンスもする。マナーを守りながら、でも無理な我慢はしなくてよくて、生理に正直でいることができる。コロナの時代の新しいフェスの楽しみ方をみんなが無理なく共有しているようで、それを僕はステキなことだと思った。
この日はテント設営前にまず、既に始まっていた田我流から観た。山梨のラッパーなので本来ホームであるはずだが、ラップ~ヒップホップ系アーティストがほかに出てないこのフェスではなんとなくアウェイ感が漂っているように見えなくもない。自分はというと一時期毎日のようにCDを聴いて東京でライブがあれば観に行っていたが、ここ数年は動向を追っておらず、観るのはずいぶん久しぶり……だったのだが、やはりいい。MCによれば、ここしばらくは命かけて川で釣りをしている日々のようだ(彼はフィッシャーマンズベストを着てもいた)。後半で名曲「ゆれる」をやり、「これを聴きたかったんだろ」みたいなことを言った。その通り、まさに聴きたかった1曲だ。もしかすると日本の全てのラップ曲のなかで、自分はこれが一番好きかもしれないってくらいに好きなのだ。カラダをゆらし、ハンズアップして横に振ったりしながら、「ああ、いま自分はフェスのなかにいるんだ」と実感して、その上この数ヵ月のあれこれを思い出したりもして泣きそうになった。
それからテントを設営し、NakamuraEmiの歌はテントのなかで聴いた。そして八ヶ岳ステージというサブステージのほうに移動し、佐藤タイジ&東田トモヒロ&辻コースケを。タイジはプリンスの「パープルレイン」や代表曲「ありったけの愛」をアコースティックで弾いて熱唱したが、とりわけシアターブルック『LOVE CHANGES THE WORLD』のリード曲 「もう一度世界を変えるのさ」がいま胸に響いた。
「僕たちは思う 何か起きている これまでとは違う 何か起きている」「僕たちはきっと 試されてるよ 愛し合える機会 見失わないか」「目をそらさないで 耳をすましてみよう もう一度世界を変えるのさ」
コロナのこの時代に、なんて響く歌!。そう、僕たちはきっと試されている。見失わないために、例えばこんな歌があり、ステキな音楽があり、こういうフェスがある。そんなふうにも思えた。配信される今年のTHE SOLAR BUDOKANの、この曲はテーマ的なものにもなるそうだ。
メインのハイライフステージに戻って、Ovall、Tempalay、キセルを観て、八ヶ岳ステージでは勝井祐二“八ヶ岳“セッションwith ermhoi、辻コースケを観て、再びハイライフステージでPolarisを途中まで観て、それからキャンプサイトより上のほうにある焚き火ステージ“光“という場所に歩いて行ってみた。
すっかり夜になり、見上げれば満天の星空。焚き火を囲んでのあたたかな場所ながらもVJが未来的な光線や映像をうしろの木々に映し、DJは幻想的な世界を作り出しもしながら、ときどき野外ディスコっぽくアップでのせる。フェスのお楽しみはこれから、といった感じで、最高だ。例えばフジのグリーンステージでヘッドライナーを観終えたあと、クリスタルパレステントでのDJでさあここからだとばかりに踊って夜を楽しむ、そんな感じにも似て、ああ、フェスに来たんだなぁともう一度改めて思う。こういう時間・こういう瞬間に自分は飢えていた。ジンなど飲みながら何も考えず、ただ音に身を任せてカラダを揺らすこの感じ。DJのMAHBIEが締めのほうで安全地帯「夏の終りのハーモニー」をかけると、みんなが嬉しそうに合わせて一緒に歌い出した。
続いてのstarRoが素晴らしかった。なにがどうと言葉にするのは難しいが、木々や星空に合った幻想的なムードをつくりだしたかと思えばアゲて躍らせることもして、その抑揚のつけ方がさすがだった。
近くのバーではテキーラ一気のみをしだす連中もいて、いよいよ危うさ込みの夜の雰囲気にもなってきたが、しかしそれでもみんなマスクを着けるのを忘れていないようだった。焚き火ステージのラストは、バンドのnegoがダンスとロックの混ざったダイナミックな音と強力なグルーブで圧倒した。
ズンズンとカラダに響いて伝わる低音。空気に合わさっての振動。それは配信ライブでは絶対に感じることのできないものだ。8月に5ヶ月ぶりでライブを観に行った際、そのことを強く思った。ライブは振動なのだと。それが野外ゆえに、より生々しく、よりダイレクトに伝わってくる。大袈裟だと思われるかもしれないが、自分はここに生きているという実感がその振動によってもてたりもするのだ。テントに戻って、しばらく赤ワインをやりながら、本当に来てよかったなとしみじみ思った。
9月13日(日曜)
朝起きて、しばらくテントでぼーっとしていると、隣のテントからラジオが聞こえてきた。大坂なおみ選手の全米オープンの実況だ。優勝したらしい。すごい。それから朝ゴハン食べて、残ってた赤ワインをチビチビと。朝からそんなことしても罪の意識に苛まれない…というのもキャンプフェスの好きなところだ。
前夜、starRoが「明日朝、清里テラスでDJします」と言っていたので、リフトに乗って、それを観に行く。
清里テラスはそのエリアで最も標高の高いところに位置していて(標高1,900m!)、晴れていれば富士山もどーんと見える絶景スポットらしいのだが、この日は濃霧に包まれていて真っ白で何も見えず。あとでわかったが、濃霧というより雲のなかにいる状態だったようだ。
そんななかでDJをするstarRoは、何やら神がかって見えた。魔界を司る何者かのようであり、誰かもツイートしていたが、下から龍がのぼってくるんじゃないかと思えるような感じすらあった。そこでのDJの構成・内容は、前夜とはまったく違っていた。なんというか、壮大な物語を感じさせるような構成だった。前夜の焚き火ステージでのDJは踊りたい夜の欲求に応えるところもあったが、ここでのDJはもっと芸術的な表現と言えるもので、アンビエントという以上の広がりと深みがあったのだ。それは、世界のあらゆる音楽が自分のなかに“入っている“ひとだからこそ可能な表現。標高1.900mに位置した場所の、しかも雲のなかというそのシチュエーションに、あまりにも合ったDJの内容であり、アート表現だった。当然だがその状態は狙って自ら呼び起こさせるものではないわけで、つまり我々観客にとってはもちろんのこと、starRoにとっても得難い状態であり体験であったはずだ。
結果的にこの場所でのstarRoが、今回のこのフェスの所謂ベストアクトと言えるものになった。恐らく何年かしてこのフェスを思い出そうとしたときに、僕と妻の頭に真っ先に浮かぶのが、この時間・この場所のstarRoの姿だろう。
そして、こういう体験が期せずしてできたりするのが、野外フェスのよさとも言える。通常のライブで、あんな神秘的な体験はできない。どんなに予算をかけた演出でも、雲のなかにいる状態をあのように作ることなんてできっこない。実に得難い音楽体験だった。
(↓これは「ライブフォレストフェス」のstarRo)
それからハイライフステージに戻って、birdを観た。ギターの樋口直彦とのアコースティックデュオ・セット。和やかで、柔らか。先頃のビルボードライブからの無観客配信ライブに続いて、ここでもまた温泉トークに花を咲かせて好きな温泉のタオル自慢をしたりもしていた。9月に「9月の想い」を歌えてよかったと話していたが、僕も好きな曲なので聴けてよかった。
八ヶ岳ステージで、ermhoi。Black Boboiのライブは何度か観ていたが、ソロのライブを観るのは初めて。野外にエレクトロな音と歌が響くよさもあったが、今度は屋内でもう少し大きな音量で味わってみたい。
おお雨(おおはた雄一+坂本美雨)を観たあと、加藤登紀子の歌はテントのなかで聴いた。そして、このフェスに呼ぶことが主催者にとっての念願だったというclammbon。このときのハイライフステージは、恐らく2日間で最もひとが集まっていたんじゃないか。彼らを観たくて来たというひともどうやら多いようだった。聞けば、これが今年初めてのライブだそうな。だからだろう、サウンドチェックの段階で原田郁子は「もう、既に泣きそう」と言ってたし、始まって何曲か演奏したあと、ミトは観客たちの拍手や手拍子に感激したようで「救われました」「(この時間を一言で言うなら)尊い」とも言っていた。
彼らに限らず、今回のこのフェスが本当に久しぶりの有観客ライブだという出演者は少なくなかったようで、そのひとたちはみんなこうして歌える/演奏できる喜びといい意味での緊張を嚙み締めながらそこにいるようだった。そんな瞬間に立ち会えたこともまた貴重であり、ミトじゃないが確かに「尊い」と感じられもした。
ところで、フェスのよさのひとつに、たまたまいいバンドと出会える、というのがある。何か食べたりしているとき、別のステージへと移動しているとき、たまたま聴こえてきた音がやけに自分の好みだったりとかして、観てみたら大好きになったりなんかして。そういうのはライブハウスでのイベントやフェスでの喜びであり楽しみでもあって、単体のライブでは起こりえないことだ。自分の場合、例えばサブスクでいろんなひとのいろんな曲を聴きまくって新しくて素晴らしいアーティストと出会う、というタイプではなく、ライブで実際にナマ音を聴いてそういうアーティストと出会っていくのが好きで、逆に言うならライブを観ていいと思えるアーティストじゃないとなかなかそこまでハマりはしないほう。音楽ライターの仕事もそういう言わば現場第一主義で続けてきた。
clammbonの途中で移動して八ヶ岳ステージで観たMONO NO AWAREは、ラジオやサブスクで聴いたことはあったのだが、正直そこまで気に留めていなかったバンド……だったのだが、どらどらといった感じでこの日初めて観たら、ライブがよくてちょっと驚いたのだった。言葉のチョイス。バラバラな個性とルックの4人でありながらのアンサンブルのよさ。ベース女性の弾き方のかっこよさ。ヴォーカル玉置周啓さんの喋りの面白さと、とぼけた中に見える真摯さ。特に力点の置き方が特徴的なミッドテンポ曲がよく、曲によっては(米カリフォルニアのバンド)CAKEっぽさがあったり、また別の曲ではフジファブリックっぽさもあったり。フェスの機会がなかったら自分は出会えてなかったかもしれないこのバンドをちゃんと観れたのも、今回このフェスに参加しての収穫だ。
最後はハイライフステージで、ROVO。
勝井さんがこのようにツイートされているその通りの演奏で、困難な時代のフェスの最後を飾るに相応しい内容であると共に、新しい時代のフェスの幕開けという希望をも感じさせるものであったと思う。
雲っていたり。小雨が降ったり。晴れ間がのぞいたり。濃霧に覆われたり。緑の山が夕方には赤く染まったり。夜空に星が輝いていたり。2日間で、景色はいろんな表情を見せた。温度も時間と共にずいぶん変化した。大人たちは嬉しそうにしながらも騒がず比較的落ち着いていて、子供たちは走りまわっていた。犬を連れたひともたくさんいた。自然があって、ひとがいて、そのひとたちに向けての歌や演奏があった。先にも書いたが、つまりそれはひとつの理想と言えるものだった。
2020年。5ヶ月もライブに行かない時間を過ごし、楽しみだったフェスのどれもがなくなってしまったが、暑すぎた夏の最後を『ハイライフ八ヶ岳』という気持ちのいい野外フェスで締めることができてよかった。
結論、やっぱりフェスは僕たちに絶対必要。なくなったらすごく困る。さて、来年はどんな夏になるのだろう……。
八ヶ岳のペンションに一泊して、翌日帰るとき、空は晴れ渡っていた。フェス開催中とは比較にならないほどの快晴。フェスあるある、だな。