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『マッドマックス:フュリオサ』(感想)

2024年6月2日(日)

TOHOシネマズ新宿で『マッドマックス: フュリオサ』(IMAX)

復讐劇である点において1979年公開の『マッドマックス』初作を想起させる。自分はその1をリアルタイムで観た世代で、中学の映画好きの友達と学校で盛り上がった記憶もあるので、その点においての原点回帰と言えなくもない構成は嬉しかった。脚本も手が込んでいて、物語として面白い。

みんなが熱狂した『マッドマックス: 怒りのデス・ロード』は公開時に劇場で1回観ただけ。面白くなかったわけではないが、正直自分の好みではなく、今回『マッドマックス: フュリオサ』を観るまでどういう話だったかまったく覚えていなかった。“行って帰るだけ”のシンプルな話だったじゃないかと言われそうだが、誰がどうしてそうなってどうしてこっちとあっちが戦っているかの理由などはほとんど説明抜きでどんどん展開し、そこがいいんじゃないかとみんなが感じるのもわかるのだけど、僕的にはそこに至る理由をもっとちゃんと咀嚼して楽しめたらという気分になったのだった。

そもそも自分は昔からカーアクションに対しての萌えが一切ない人間。クルマもバイクも運転経験がなく、乗りたいという欲求を持ったことすらなく、スピードに対する憧れを持ったこともなく、スピードを競う競技の面白さもわからない。そういう自分は映画のなかのカーアクション場面の多すぎる上に早すぎる情報についていけない。ん?  いま何がどうしてこうなったの? いま何がどうなってこのクルマは横転したの?  といった感じで目と思考がついていかず、読み取れていない間に話が前に進んでいく。だからカーアクションが長く続くと、情報の多さと早さに思考が停止してしまい、眠くなってしまうのだ。

そんなわけで『マッドマックス: 怒りのデス・ロード』は、フュリオサを筆頭に女性たちが力を合わせて戦う映画としては熱くなれたのだけれど、カーアクション場面にたいして興奮できない自分的にはさほど記憶に残らない映画だった。今回『マッドマックス: フュリオサ』を観るまでは。

『マッドマックス: フュリオサ』も、フュリオサがあまり出て来ずにひたすらタンカーと改造車のカーアクションだけが激しく長めに続く2章目は、自分は退屈で正直眠くなった(そういう自分は絶対に運転免許をとるべきじゃないと自分でよくわかっている)。けれど、少女時代のフュリオサを描く1章と、復讐を誓って成長したフュリオサが具体的に動きだすあたり(3章)、そして何より最終章の話の持って行き方(イソップ的ともいえる寓話性)に感心し、おおっ、面白い!となった。好き嫌いで言うと、この最終章が本当に好きだ。

なんといってもアニャ・テイラー=ジョイが圧倒的なまでに魅力的。眼力にもしなやかな動きにも、もう釘付け。それから少女時代のフュリオサを演じたアリーラ・ブラウンも、フュリオサの母を演じたチャーリー・フレイザーもかっこよかったし、クリス・ヘムズワースはアベンジャーズのなかでとりわけソーのファンである僕の期待を少しも裏切らないお茶目さ(酷いようでいて、どこか人間的で人情的)を忍ばせていてやっぱり最高だった。

といった感じで、傑作とまでは言わないまでも、自分的には『マッドマックス: 怒りのデス・ロード』よりも楽しめた『マッドマックス: フュリオサ』だったのだが。帰宅して、その勢いでもう一度公開時ぶりに『怒りのデス・ロード』をU-NEXTで観てみた。すると、抽象的に思えたシーンの意味がグッと立ち上がり、理解できていなかったところや登場人物たち…とりわけフュリオサの表情・感情の意味がよく理解できた。解像度があがったどころの話じゃない。前に観たときは流してしまっていた彼女の表情や言葉の意味が初めてわかって、胸が締め付けられたり、グッときたり。そして憎悪と復讐の連鎖についてや、戦争と分断がどう起きるかの構造についても改めて考えさせられ、そうか、奥の深い映画じゃないかと、ようやく思えたのだ。

つまりは前日譚として完璧な作り。なので、僕のように前作にいまいちノリきれなかった人は、『マッドマックス: フュリオサ』を観て、もう一度『マッドマックス: 怒りのデス・ロード』を観るとだいぶ印象が変わると思います。ってか、2本立て上映がこの先もしあるなら、そうして続けて観るのがベストかと。


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