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s-ken、2017年のインタビュー。

2022年ももうすぐ終わろうとしているが、この1年を改めて振り返ってみたとき、s-kenさんの動きと音楽は自分にずいぶん力を与えてくれたものだったなと思う。5月には前作『Tequila the Ripper』から5年ぶり、s-ken & hot bomboms名義では『SEVEN ENEMIES』(1990年)から実に32年ぶりとなるアルバム『P.O.BOX 496』をリリース。そして7月20日にはBillboard live TOKYOでこれまた久しぶりのライブを行なった。残念なことにこの日のライブがhot bombomsオリジナルメンバーでキーボード担当の矢代恒彦さんにとって最期のステージとなってしまったが、2部のアンコールだけで演奏された「夜の翼をポケットに」の味わい深さはとりわけ忘れられないものとなった(それが矢代さんにとっての最期の演奏となった)。

『P.O.BOX 496』のリリース前にはそのアルバムについてのインタビュー↑もさせていただき、興味深い話をたくさん聞くことができた。その記事を改めて読み返し、続いて前作『Tequila the Ripper』のリリースタイミングで行なったインタビューも久しぶりに読み返そうと思ったのだが、そういえばその記事が掲載されたウェブサイト「musicshelf」は5年くらい前に閉鎖し、今はもう記事にアクセスできない状態になっていたのだった。面白いインタビューだったので勿体ない。今でも読めるようにしたい。そう考え、このnoteに全文再掲載することにした。それが下のインタビューだ。

2017年、『Tequila the Ripper』リリース時のs-kenインタビュー。ぜひ読んでいただきたい。


<s-ken、『Tequila the Ripper』インタビュー> (2017年)

s-kenがニュー・アルバム『Tequila the Ripper』を発表した。1990年作品『SEVEN ENEMIES』から数えて実に26年ぶりとなる7作目だ。

全12曲の作詞、作曲、基本アレンジ、プロデュースを手掛けて自ら歌ったその『Tequila the Ripper』は、ニューオリンズ・ファンク、アフロビート、R&B、スカ、ブーガルー、ジャズ、パンク、ヌーベルシャンソンといったさまざまな音楽要素のうま味が煮込まれたアルバムで、つまり“これぞ唯一無二のs-kenサウンド”と呼べるもの。「リズムはファンキー、気分はパンキー」といった感じで、シブいと言うよりは、相変わらず粋でワルくてカッコイイ。小田原豊、窪田晴男ら腕利き揃いのバンド、ホットボンボンズが再集結して半数の曲を演奏しているほか、細野晴臣、トータス松本、竹中直人、竹内朋康、元PE’Zのヒイズミマサユ機と門田“JAW”晃介、東京スカパラダイスオーケストラからの4人、BimBamBoomの前田サラと山口美代子ら大勢のゲストが参加しているだけあって華やかさもあるが、その適材適所の配置はさすがプロデューサー、s-ken。全体通してピシッと引き締まり、そこから大きな物語を感じとることができる。

ニューヨーク・パンクの勃発を現地で目撃し、帰国した1978年に自身のバンド「s-ken」を結成して日本独自のパンク・ムーヴメント〈東京ロッカーズ〉を牽引したs-ken。クラブカルチャーの勢いが増した80年代にはMUTE BEAT、じゃがたら、TOMATOSと「Tokyo Soy Source」をスタートさせ、その後も「東京ラテン宣言」「エスケンのカメレオンナイト」といったイベントをオーガナイズして、CD音源のプロデュースも開始。プロデュース作品は現在軽く100を超え、その過程でMonday満ちる、BONNIE PINK、SUPER BUTTER DOG、クラムボン、PE’Z、中山うり、BimBamBoomといった個性豊かな歌手やバンドを見つけて世に送り出しもした。

新作『Tequila the Ripper』は、そんなs-kenの音楽人生が凝縮されているとも言えるもので、サウンドはもちろんのこと、歌詞とヴォーカルも素晴らしい。本文中でも触れているが、とりわけスポークン・ワードで亡き川勝正幸氏ら友人のことを歌った「千の目、友にはふさわしき贈り物を」とアルバムのラストを飾る「鮮やかなフィナーレ」には今の思いが滲むように表れていて、胸が熱くなる。今年(=2017年)、70歳を迎えたs-kenに、この快作についての話を訊いた。

s-ken

──長い間プロデューサー業に徹していたわけですが、実に26年ぶりとなるご自身のアルバムが完成しました。

気持ちの上では、ブランクはないんですよ。プロデューサーといっても、自分の好きなアーティスト、自分のセンスに近いアーティストを手掛けてきたから。「そんなにブランクがあるようには感じられない」って、ひとにも言われるしね。ただ、そういうふうに言ってくれるのはプロデューサーのような裏方の存在のことをわかっているひとであって、普通のひとはやっぱり「どこ行ってたんだ?」って思ってると思うんだよね。だけど自分の心の中で「いつかやろう」というのは、ずっとあったことで。

──いつ頃からアルバムを作ろうと考えていたんですか?

10年くらい前にs-ken&Hot BombomsのCDがまとめて再発されたんだけど、そのときに「いい加減、自分の新しいのを発表しないと」って思ったんだよね。ユニバーサルミュージックのディレクターに「今こそs-kenさんの音楽を若い人に聴いてもらいたいんです」と言われたりもしたし。で、同じ頃に「レッドシューズ(東京・青山)で80年代のクラブ・シーンを中心にしたイベントをやってるから、ぜひ歌ってほしい」と言ってくれるひとが現れたりもして。そういう要望がその頃からちょこちょこあってね。あと、『ジャバ』(2008年)という童話も出したので、自分が出ていく気分というのはその頃からなんとなくあった。で、それから何年か経って、3年くらい前かな、「あ、オレ、あと数年で70だな」と、ふと思って。まあ、まだ生きてはいるだろうけど、頭はいつまで回るかわかんないからさ(笑)。

──作るなら今だと。

うん。〈ワールド・アパート〉を設立したのが1999年なんだけど、5年後くらいから自社のプリプロ・スタジオでサウンド・プロダクションを組めるようになってね。気心の知れたミュージシャンがいて、マニピュレーターがいて、エンジニアがいて、あとは自分さえしっかりしていれば、サウンド・プロダクションはいつでも組める。だから僕のサウンドプロダクションの最終形というか、まとめみたいなものが、自分のアルバムでできるんじゃないかと思って。

──なるほど。アルバム全体のイメージも、作り始める前からあったんですか?

いや、「作る!」って宣言したのはいいんだけど、じゃあ、何を歌おうかと。これは前に内本くんに話したと思うけど、50代とか60代くらいのひとたちがどういうことを歌っているのかって気にしてみたら、やっぱり若い気分で曲を作ってる人が圧倒的に多いんですよ。昔からいるベテランのシンガー・ソングライターのひとにしても、50代なり60代なりの心境をリアルに歌ったものは意外となくてね。で、外国はどうかな?って探したら、外国にはそういうものもチラホラある。あることはある。けど、やっぱり多くはない。それは、もしかしたらみんな恥ずかしいから作らないのかもしれないし、ジジイのラブソングはウケないから……特にJ-POPは若い人のラブソングが主体だから、そういうのがないのかもしれない。わからないよ。わからないけど、僕はそこでウケる音楽を作ろうとは思わなかった。このアルバムに入ってるほとんどは自分が60代後半になって作った曲だけど、亡くなっちゃった友達も多いしさ。そういうこと含めてこの年代なりの喜怒哀楽というものがあるわけで。あと、若いひとに対して何かを託すというような気分もある。メッセージとまではいかないけど……あ、でも、メッセージもあるかもしれないね。世の中に対して言いたいことも、若い頃より多いかもしれない。そういうものが世の中であんまり歌になってないのはなんでだろうって不思議なんだけど、だったら僕は自分の今の思いというものを歌にしたいと思ったんですよ。

──1年前にもこの話をしましたけど、僕もポップ・ミュージックの世界には歳を重ねたひとたちのリアルな思いを表現したものが少なすぎると思っていて。

うん。例えば日本の文学でも海外の文学でも、歳を重ねている人間の悩みとか歓びを表現したものはゴロゴロあるんですよ。映画もそうだよね。音楽以外だといっぱいある。だから僕はそれを歌にしていくという挑戦をしようと思って、とりあえず1か月に1曲ずつ作っていったのね。プロデュースの仕事とか日々いろいろやることがあったんだけど、割り込むようにしてとにかく1か月に1曲は作るようにした。で、14曲できて、そこから12曲に絞ったんだけど。

──ご自身が歌うために曲を作るという作業は相当久しぶりだったわけですよね。そのへんの勘はすぐに取り戻せたんですか?

この世界には歌が歌いたくてキャリアをスタートさせたひともいるだろうし、ギターを弾きたくてキャリアをスタートさせたひともいる。それぞれだと思うんですけど、僕はもともと曲を作りたくてこの世界に入ったのね。だから曲を作ることに関しては何の抵抗もなく、すぐに入っていける。プロデュースをしながら曲作りに関与した作品もあったしね。

──でも“自分の歌”を作るとなると、またちょっと違いますよね?

うん、違うね。だけど、自分のなかでs-kenとしてのキャラみたいなものはわかっているから。『魔都』っていうs-kenとしてのデビュー・アルバムを1981年に出したんだけど、その時点でキャラは大体かたまっているんだよ。で、1990年に6枚目のアルバム『SEVEN ENEMIES』を出すわけだけど、その最後に入ってる「そしてエル・ドラドへ」って曲は、主人公のs-kenがどっかにいなくなっちゃうって歌で。今回のアルバムに入ってる「オールドディック」って曲は、その男が舞い戻ってくるっていうお話なんですよ。

──ああ、なるほど。

12曲のうち「オールドディック」だけは、10年くらい前に僕のアルバムが再発されたとき、それを記念して作った曲で、そのときはPE’Zが演奏してくれてね。で、その舞い戻ってきた男が今どうなっているのか……っていう発想で、今回のアルバムを作っていったんです。

──つまり、物語は続いていると。

そう。『魔都』を作ったときに、だいたいの自分の気分っていうのはまとまったから。それ以降、音楽性は変化していったけど、気分はあそこからそんなに変わってなくて。だから今回のアルバムは、新しい『魔都』とも言えるかもしれない。

──わかる気がします。

“氏育ち”ってあるでしょ。自分のそれと表現の世界観とが、かけ離れてるひともいると思うんですよ。本当はリッチなのにうらぶれてお金のないイメージを演じているひともいる。要するに、表現する上でなりきるってことだよね。僕の場合は20代のときにアメリカに行ってパンクとかいろんなことを体験して帰ってきて、その流れで東京ロッカーズを始めるわけだけど、東京ロッカーズのときに初めて“なりきれた”んだと思うんだ。で、『魔都』を作って、なりきった状態で(『魔都』を含め)6枚アルバムを出すと、僕が描いた“アーティスト・s-ken”の気分が、日常的にもだんだんと宿ってくるというか。自分がそうなりたいと思っていた人間に自然になっていった感じ。コルトレーンも同じようなことを言ってるよね。

──そうして今回も、作りながらs-kenというキャラクターにどんどん入っていった。

そうそう。だから、曲作りにはすっと入れましたよ。

──作るにあたって、先に旅立たれたひとたちへの思いを歌おうというのも、動機のひとつとしてあったんですか?

いや、たまたま「千の目、友にはふさわしき贈り物を」って曲は、そういう発想がそのとき急に芽生えたのでああいう歌になったんだけど、全体的にはあんまりそれは意識してない。あの曲はスポークン・ワードなのでそういうことを歌えたんだけど、じっくりアルバムを聴いてくれたひとにはけっこうインパクトがあるみたいね。

──すごくあります。僕はとりわけ好きな一曲なんですよ。

友達の歌ってことになると、ああいう手法をとらないと、なかなか難しいんですよ。具体性が出なくなるからね。だからおもいきってスポークン・ワードでやってみたんだけど、歌詞の分量が多いのでプリプロもたいへんだった。あの曲はヒップホップのひとにも聴いてもらいたいね。

──アルバムのサウンドのイメージは1曲1曲、詞曲を作りながら浮かんでいったんですか?

いろいろだね。例えば「千の目、友にはふさわしき贈り物を」みたいなものは、やっぱりトラックを意識しないと作れないんですよ。だから初めからアレンジを頭に浮かべて作ってたけど、「鮮やかなフィナーレ」なんかは何も考えずに作って、あとでアレンジを考えた。「嵐のなか船は出る」は、ボブ・ディランの曲のなかにあれと同じコードの曲があって、ディランはそのアコースティック・ギター・ワークをウディ・ガスリーから学んだんだと思うんだけど、バラッドっていって語り物のスタイルなんだよ。10番まであったり20番まであったりするようなものなんだけど。そのコードカッティングをなんとか自分のグルーブのなかに引き込めないかと思って、セカンドラインのリズムと混合させたらどうかなと打ち込んでみたら、うまくいったの。

──歌詞にある物語性がその手法やリズムを引き込んだってことなんでしょうね。

その瞬間のことはよく覚えてないけど、同時に思い浮かんだんだと思う。あの曲は少年と老人の物語でね。ヘミングウェイを始め、老人が少年に何かを託すっていう物語が古今東西いろいろあるけど、それを僕なりにやってみた。今の若いひとたち……僕の孫にあたるくらいのひとたちが、あまりにも元気ないからさ。オレはオマエを一瞬守ることはできるかもしれないけど、オマエが本当に自覚を持って生きていくならば、思いきって飛び出していくしかないんだよ、っていう歌だね。

──「HEY! TAXI! AMIGO!」はブーガルーですよね。s-kenさんは以前にもジョー・バターンのカヴァーでブーガルーの曲をアルバムに入れてましたが(『JUNGLE・DA』収録の「サブウェイ・ジョー」)、「HEY! TAXI! AMIGO!」は2010年代なりのブーガルーと言える曲で。

そこは本当に意識して作りました。僕は1973年くらいにブーガルー的な世界観をもったサルサのアーティスト、ウィリー・コローンを好きになって、(イラストレーターの)河村要助にレコードを貸したら彼も夢中になって、それから彼はサルサとかラテン音楽のオーソリティーになっちゃうんだけど、僕がニューヨークに行った1976年頃にはもう、サルサからブーガルー的なストリート感覚がなくなっていたんだ。どんどんトラッド回帰みたいな方向に行っちゃってた。だけど自分にとっては、ブーガルー的な音楽って、永遠にエポックなのね。だから21世紀にそれを復活させたらどうだろうって思って。21世紀的な発想でブーガルーをやってみたってこと。で、そのとき思い浮かんだのがエディ・パルミエリと、その兄貴のチャーリー・パルミエリなんだけど、深く聴くと彼らのサウンドからはブルックリンの街の気配みたいなものがすごく感じられる。だからエディ・パルミエリとチャーリー・パルミエリが今ブーガルーを作ったらどんなものになるのかっていうのをイメージしながら、「HEY! TAXI! AMIGO!」を作ったんです。「サブウェイ・ジョー」は地下鉄がテーマだったけど、この曲はクレイジーなドライバーの話で(笑)

──なるほど(笑)。

この前ニューヨークに行ってきて、タクシーにも何度か乗ったんだけど、運転手さんのほとんどはカリビアンだったりアフリカ系だったりでね。「HEY! TAXI! AMIGO!」はだから、今のニューヨークのイメージに近いと思った。リアルタイムな感じ。ノスタルジーじゃなくてね。

──懐かしいというより、新しい。

うん。60年代の世界観を今の感性で表現してみたんだ。

──でもs-kenさんの今までの作品、どれもそうですよね。リズムを借りてくるのではなく、自分流に咀嚼してその時々のストリートの雰囲気を感じさせるというか。

ある様式そのものをやろうとは思わないからね。例えばボブ・マーリィは大好きだけど、同じことはやらないし、できない。だけどボブ・マーリィの気分や彼が指差していた本質は捉えている。そういうことだよね。

──レコーディングはどうでした?  (85年に結成された)ホットボンボンズのメンバーを始め、錚々たる方々が大勢参加されたようですが。

たくさんひとがいるようだけど、レコーディングは大きく2班に分かれててね。ひとつはホットボンボンズで、中心となるリズムは小田原豊(ドラムス)と佐野篤(ベース)とヤヒロトモヒロ(パーカッション)。この3人のグルーブはやっぱり特別だから。で、もうひとつの班は、ドラムの宮川剛。彼はパーカッションも叩けるんだ。それからギターの福澤(和也)とベースの角田(隆太。fromものんくる)。この3人は今のs-kenプロダクションのなかで一番信頼しているミュージシャンでね。大きく言うとその2班で、そこにホーンセクションとかコーラスとかが加わる形。で、2曲だけベースを細野(晴臣)さんに頼んだ。どれもプリプロの段階でかなりスケッチができてて、それをそういうミュージシャンたちにナマのグルーブに変えてもらうことによって、自分の思ってる通りの音に近づけることができたんだ。

──細野さんと会うのは何年ぶりだったんですか?

ずいぶん会ってなかったからねぇ。僕がプロデュースしていたクラムボンがデビューしたときに彼のJ-WAVEの番組に呼ばれて行ったとき以来だから、20年ぶりくらいかな。細野さんは普段ベースを頼まれて弾くとき、送られてきたトラックに対してひとりで弾いて、それを送り返すというやり方なんだって。だけど僕とのレコーディングは、細野さんのスタジオで、ふたりで話しながら進められたんですよ。そういうのは珍しいらしくて、みんな驚いてた。

──トータス松本さんと会うのも久しぶりだったんじゃないですか?

トータスは、一緒にやったことはなかったんだけど。アルバム1曲目「酔っ払いたちが歌い出し、狼どもが口笛を吹く」のイメージが、僕なりのR&Bだったんですよ。で、例えば僕はニューオリンズの音楽も好きだけど、アラン・トゥーサンなんかはパンキーじゃない。ある種のメッセージ性とか、そういう意味でのパンキーなところはないよね。パンキーな部分がR&Bにもあるとするなら、それはオーティス・レディングとかサム・クックじゃないかと思ってさ。だったらそれをトータスにやってもらったら面白いんじゃないかと。トータスのルーツはそのへんだからね。トータスは音源も聴かないうちから「やります!」って言ってくれて。いや、素晴らしかったね、彼のコーラスは。さすがだなと思った。

──この曲はR&Bといってもリズムはセカンドライン的なものだけど、いろんな要素がブレンドされていて複合的ですよね。これに限らずほかのどの曲もそうですけど、あるリズムとまた別の要素が混ざって大きなうねりを生み出している。まあ、昔からs-kenさんはそれをやってきてるわけですけど。

東京ロッカーズからスタートした最初の頃は「s-kenはラテンまでやっちゃって」なんて言われてたんだけど、僕のなかではロックもR&Bもファンクもスカもサンバもアフリカンビートも大きな意味ではアフロだと思ってるわけ。わかる? 根底にあるのはアフリカからの音楽ってことなんだよ。だからそういうアフロな野性的グルーブと、もうひとつは大都会の怪物領域から出てきたヒップでパンキーな気分や世界観。それが混ざり合っている。「s-kenはジャンルを超えてる」なんて言うひともいるけど、ジャンルなんか意識してないんだよ、オレは。そんなボーダレスなグルーブと感性をひとつのバンドサウンドとして演奏するためにホットボンボンズを作ったんだ。

──ああ、そうですよね。いや、本当に12曲全部が聴きどころって感じで素晴らしいんですけど、とりわけ僕が大好きなのは、さっき話に出た「千の目、友にはふさわしき贈り物を」と、最後に入ってる「鮮やかなフィナーレ」。この2曲にとりわけs-kenさんの今の思いが濃く表れているようで、グッとくるんです。

「鮮やかなフィナーレ」は、意識的に最後の曲として作ったわけではないんですよ。ちょっとあることがあって大変だったときに、自分のアルバムのプリプロが迫ってて、大変だったから何も考えてなくて。でも「終わりよければすべてよし」って気分で作っちゃえって思って、それでできたのがこの曲でね。で、作ったあとに気付いたことなんだけど……松尾芭蕉の句のなかで僕が一番好きなのは「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」っていうものなのね。蛤っていうのは殻と身がくっついてるけど、それを引き剥がすようにして別れて行くんだっていう。その「行く秋ぞ」ってところが特に好きなんだ。なんていうか、ヘンにセンチメンタルな感じを持ち込まずに、新しい旅に行くぞって感覚がいいなと思ってて、それに近いフィーリングがその曲にあるんじゃないかなって。それもあって、レコーディングのときに、スペイン語のうまい(ヤヒロ)トモヒロに「さあ行くぞ」みたいな言葉はないかって訊いたの。そしたら「Vamos Arriba!(ヴァモスアリーバ)」ってフレーズが出てきて、それは「上のほうに向かってさあ行こう」というような意味だと。まあ「行く秋ぞ」みたいなことだよね。それで、その言葉を最後に入れたんです。

──そういうことだったんですね。さて、作り終わって、今の気分はどうですか? これで最後にしようと思ってるわけではないですよね?

ないんだけど、そもそも僕が決めたことっていうのは、「もう1枚アルバムを作ってみよう」ってことだけだったのね。だけど、それによってスタッフや回りでいろんな動きがでてきたわけ。ライブをやりましょうって話になったり、あれもこれもって具合にいろんなアイディアが持ち上がって動き始めた。それはまったく予想してなかったことなんですよ。だから今はそれに対して後先考えずベストを尽くそうと集中しているところで。それとあと、もしもまた次が作れる状況があって、自分の頭が働くようだったら、s-ken&Hot Bombomsのアルバムを作りたいね。

──s-ken名義ではなく、バンド名義で。

うん。ホットボンボンズは今も全員元気で、歳をとればとるほど深いバンドサウンドが出てきてる。だから今回のようにs-ken個人としてのアルバムではなく、全編バンドサウンドのアルバムを作りたいっていうのはあるね。

──じゃあ、それも楽しみにしてますから。

まあでも、みんなちょっと忙しすぎるんだよな(笑)
 

↑このインタビューで「s-ken&Hot Bombomsのアルバムを作りたいね」とs-kenさんは言っていたが、その思いが叶ったのが、2022年リリースの最新アルバム『P.O.BOX496』だ。

●プレイリスト「夜空にキスしてs-kenを聴け」

個人的に好きな曲を、流れの心地よさも意識しながらプレイリストにしてみた。81年のデビュー盤『魔都』と83年の2nd『ギャング・バスターズ』がまだサブスクにないのが残念。そこにも名曲がたくさん収められているのだが…。ともあれs-ken入門にも最適なプレイリストとなっているので、ぜひ。



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