『誰かの花』感想。
2022年2月2日(水)
渋谷ユーロスペースで、『誰かの花』。
鉄工所に勤務している孝秋(カトウシンスケ)は実家の団地を訪れるが、父の忠義(高橋長英)は孝秋と数年前に死んだ孝秋の兄との区別がつかなくなっていた。ある日、団地のベランダから落ちた植木鉢が住民に直撃するという事故が起こる。心配した孝秋が実家に駆けつけると、ベランダの窓が開き、父の手袋に土がついていた。
喉が渇き、入場前に買ったコーラを飲もうと思うにも、キャップをあける音、コーラを飲み込む音が隣のひとに聞こえてしまうのではないかと躊躇してしまう。そのくらい静かで、身じろぎできぬほどの緊張感がずっと続く映画だ。サスペンスフルで、ホッとできる瞬間が少しもない。植木鉢を落としたのは誰なのか。 どうやら認知症の父・忠義(高橋長英)であるようだが、そうであるなら忠義はそのことを自覚しているのか。それを認めるときが果たしてくるのか。きたらば、それに対して息子の孝秋(カトウシンスケ)は、母のマチ(吉行和子)は、どのような態度をとるのだろうか……。父の自白がこの映画のハイライトになるのかなと、自分は途中までそう思いながら観ていた気がする。しかしそのような、「物語の結末」を見せる映画ではなかった。起承転結で言うなら「転」の部分がドライブしてドラマチックな「結」に至る、という作りではない。誰もが同じように受け止められる「結末」が明確にある、そういう作品ではなく、ひとは葛藤しながら生きていく、葛藤に終わりはない、ならば終わらない葛藤を抱えてどう生きていくか、そのことを観た者ひとりひとりが深く考えさせられることになる作品だった。
ミステリーであるなら様々な登場人物たちの目撃情報が出たり気づきがあったり点と点とが結ばれていったりする、そういった「転」の部分はなく、それよりもこの作品は、息子や母や父やヘルパーや被害者の妻やその子供…そうしたひとりひとりの言葉にできない感情をじわじわと少しずつ炙り出すことをしている。そのやり方が実に緻密。だからだろう、どこへ連れていかれるのかと思いながら観ていたら、終盤、思いもしないところへ連れていかれたというなんとも言えない感覚がきて、気づいたら涙してしまっていた。
誰がいつ被害者になっても加害者になってもおかしくない社会に、私たちは生きている。被害者として苦しみながら生きていたひとが、あるとき突然加害者になるということも、この社会ではありうるのだ。
じゃあ、そうなってしまったとき、自分ならどうするのか。自分が孝秋の立場だったら、起きてしまったこの悲劇にどう対処するだろうか。正しさと正しくなさ、その判断ができたとして、正しさを選ぶだろうか。その先、家族とどう向き合って生きていくだろうか。「絶対間違ってますよ」。ヘルパー・長谷川(村上穂乃佳)のその言葉が頭のなかグルグルまわる……。
また、年齢的に自分は孝秋/カトウシンスケの立場になってそのことを考えてみるわけだがしかし、やがて父・忠義の年齢になるのだし、それはものすごく遠い先というわけでもない。ならば尚のこと、この問題が難しくもあり、怖くもなり、考えさせられる。
終映後に、脚本と監督の奥田裕介さんと、主演のカトウシンスケさんと、この10年で自分が最も衝撃を受けた大好きな『ケンとカズ』を撮った小路紘史監督の登壇があった(それがあることを知って、僕はこの回に観に行くことにしたのだ)。そこで話されていたことだが、奥田監督ご自身も身内を事故で亡くされたそうだ。そして脚本を書き始め、しばらくは書けなかったが、あるときから事の見方が変化し、被害者と加害者側の両方の視点を持たせながら書くことができていったと、そのようなことを話されていた。それ故の緻密さであり、それ故のこの作品の登場人物たちへの寄り添い方なのだろう。
↑この素晴らしいインタビュー記事でも、監督はそのことについて話されている。必読です。
とにかく終わってすぐには席を立てなくなること必至の映画。ああいい映画だったねと、その日のうちに消化することなんて全然できなくて、この先もきっと何度も思い出したり考えたりするであろう映画。観たひとに、どう捉えた?と聞いたりもしたくなる映画。ずっと頭のどっかに残り続けるに違いない映画。うん、傑作。これはすごいと思った。
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