『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(感想)
2024年10月19日(土)
グランドシネマサンシャイン池袋で、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』(IMAX)。
前作『ジョーカー』は多くの人々から熱狂的に迎えられ、アメリカでも日本でも大ヒットした。しかし『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はアメリカでも日本でもコケているらしいと聞いた。観る前に内容に触れた情報を一切入れたくなかったので、SNSに流れてくる感想から注意深く目をそらしていたのだが、「賛」よりも「否」の意見が多いことは世のムードから察せられた。
自分はというと、前作『ジョーカー』にはノレなかった。あまりにも『キング・オブ・コメディ』に寄せすぎていたし、ほかにもどこかで観たことのある展開や場面がいくつかあって、「これでいいの?」と言いたくもなった。けど、今作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は自分の期待値を大きく超えてきた。予告を観たときから期待値が上がっていたのだが、それを遥かに上回った。物語の作りと枠組み、制作者の伝えんとすること、そのほかあらゆる意味で『ジョーカー』よりも驚きが大きかったのだ。
もう、刺さったなんてもんじゃない。アーサーの、リーの、ふたりの歌に完全に気持ちをもっていかれて涙が滲んだ。悲しかった。あまりに悲しい映画だった。が、共感するところも多々あった。それがなんなのかを、一夜明けてからもまだ考えている。とにかく自分は『ジョーカー』の50倍くらい『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』に入り込んだし、胸をかきむしられもした。そうして絶対的に「賛」の映画となった。
一番の理由は音楽だ。音楽が「うまく使われている」どころではなく、ストーリーに浸透している。アーサーのなかに音楽がある(それは前作でも描かれていたが)。アーサーの心のなかにいつも歌がある。
「音楽があれば 人間は狂わずにいられる」。
ミュージカル仕立てで、突然歌いだすことに、しらけた。観終わって、夜にSNSを見てみると、「否」の側の人の特に多い理由がそれだった。そこがダメならもうこの映画は無理だろう。
自分はもともとミュージカルという様式に抵抗を持っておらず、子供の頃に観て好きになったミュージカル映画も多い。というのもあるけど、そもそも『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』はミュージカル映画ではない。その様式を一部取り入れているだけだ。
現実と虚構の狭間を『ジョーカー』も『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』も描いているが、後者では特にそれを「歌う」というアーサーとリーの行為で表現している。「歌う」ということで、特にアーサーはギリギリ自分を見失わずにいる、というか見失わないために最後にすがれるものがあるとしたら彼にとってそれが音楽なのだ。故に「歌う」のはこの作品において必然だ。
アーサーにとってもリーにとっても、歌は感情によるものだ。レディ・ガガはプロ中のプロのシンガーなので、「上手く」歌う気になればいくらでも「上手く」歌えるだろう。が、リーの歌はどこかたどたどしくて頼りない。それはガガがテクニカルに「上手に聴こえないように」歌っているからではなく、リーの感情を歌に乗せているからだ。リーの歌になっているからだ。
ホアキンも同様。母親がラジオで流す曲を聴いて育ったアーサーならこういう感じで歌うだろう、という歌をうたっている。
ふたりとも、所謂ミュージカルのように突然声を大きくして歌い出すことなどなく、現実と虚構の狭間がどこだかわからずその明確な切り替わりが認識できずにいるといった状態で歌い始めている。だから「え、なに急に歌い出してんの?!」といった違和感が少しもない(少なくとも僕はまったくそれを感じなかった)。
もうひとつ。アーサーとリーの歌以外で使われる既存の音楽の選び方がまた見事だ。監督トッド・フィリップスのこだわりとセンスを強く感じる。ビリー・ジョエル「マイ・ライフ」は、まんますぎるとも言えるけど、ビリーがこの曲を書いたときの状況も鑑みると、あそこでこの曲を流したことにはやっぱり唸らされるものがある。追い詰められてアル中になって苦しんだビリーと、アーサーのそれが重なってしまったりもする。
「おまえがどう言おうが関係ない。これが俺の人生さ。ほっといてくれ」
「もう一度チャンスをくれだなんて言ったかい? 俺の不遇を環境のせいにしたかい?」(「マイ・ライフ」より)
さらに決定的なのは、最後に流れるダニエル・ジョンストンの「True Love Will Find You In The End」だろう。
双極性障害に苦しみ、躁状態の時には予測不能な行動をとったり、取り憑かれたように曲を作ったりしていたダニエル・ジョンストン。悪魔に心酔し、自分をお化けのキャスパーだと思い込んで精神科病院に入院しながらも曲を書き続け、夢見た恋を手に入れられず(でも好きな人をずっと思い続け)、58歳で短い生涯を閉じたその人はこの美しい曲でこう歌っていた。
「最後には真の愛が君を見つけるから 誰が君の気兼ねない友達だったのか わかるときがくるよ」
「悲しむことはないよ 僕にはわかってるから でもそのときまでは 最後に真の愛が君を見つけるまでは どうか諦めないで」
(「True Love Will Find You In The End」より)
こうして今度はダニエルとアーサーがどうしようもなく重なってしまいもする。
パンフレットをめくると1ページめに監督トッド・フィリップスのこのような言葉が載っている。
「アーサー・フレックスとは誰なのか? そして、彼の中に常に存在していた音楽はどこから来たものなのか?」
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、それを描いた作品だ。と、そのことがハッキリわかった。だから自分はこんなにもくらってしまったのだろう。
10代の僕は、こんなどうしようもない世界を爆破したいと思うことがあった。そうしないで済んだのはたぶん音楽があったから。音楽を実際に鳴らすことや頭のなかで鳴らすことでその衝動を抑えることができた。
みじめな気分のときは、僕は鼻の穴に人差し指をつっこんで鏡でそれを見ることをした。その間抜けな顔を見ると落ち込んでいることさえばかばかしく思えたから。
妄想して歌うこと。声を出して笑うこと。そのふたつだけがどうにか自分なりの正気を保つ方法だったアーサーがここにいて、それが自分に重なる……とまで言い切っていいかはわからないけど、少なくとも僕は彼をそこまで愚かに見ることなんてできないし、笑うことも、(ダークヒーローである状態から逃げたことに対して)失望することももちろんできない。
そんなわけで『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、『ジョーカー』の何倍も深い穴に入り込んで思いを巡らせないではいられない映画だった。(近々もう一度そこに入りに行こう)